2009年11月05日

紅葉の季節ですね

少し車を飛ばして郊外に出てみると、黄色や赤に染まった森の木々に心が癒されます。

確か、誰かが言っていた言葉です。

「自然は、過去を一切否定せずに積み上げられている美である。」

その点、人間といえば、新しいものができると、古いものを否定して進化しています。それは、正しい進化ではないような気がします。それでいくと、古い価値観の人は居場所を失うことになるからです。

美しい紅葉を見ていると、一切否定されない強い癒しが感じられてなりません。

自然と調和するセンスを身に付ける。

それが、神の意に生きるヒントなような気がしてなりません。
posted by 盛岡のしろねこ at 18:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月04日

地球上のすべての人間が黒人なら…

多分、地球上のすべての人間が黒人なら…

人類は、大自然と調和した理想的な存在になれるような気がする。
posted by 盛岡のしろねこ at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月30日

おかげさまで

おかげさまで、どうにか生きています。ここ1週間ほど、流動食しか口にできず、発作的に起こる激しい頭痛と不整脈に苦しめられましたが、現在は、普通に生活できる状態に近づきつつあります。最も大切なことは、焦って仕事のレベルアップをしようと気負わずに、健康第一の生活習慣へと改めることにありそうです。

ということで、しばらくは、仕事は頑張りすぎずに、健康を回復させるための時間を第一として、生活していこうと思います。

話は変わります。

巷では、Microsoftの新しいOS、Windows 7が話題になっていますが、私は全く興味を持っていません。

というのは、WindowsからMacに乗り換えようと思っているからです。

Macの新OSのSnow Leopardのパッケージ写真となっている、白豹に目を奪われてからというもののMacの情報に夢中になっています。仕事を休んでいる間、時間を決めてインターネットを楽しみましたが、その間に現在Windowsで使っている作業がMacでどれほどできるか調べてみました。

snow_leopard_2009.jpg

調べてみると、これまでWindowsでやってきたことが、すべてできることがわかりました。数年後になるとは思いますが、ハイセンスなMacのノートパソコン、MacBookを手にした頃には、おしゃれも大いに楽しみたいと思います。

現在、子ども相手の仕事をしているのですが、ある友人に、「子どもの頃の憧れの先生は?」と尋ねてみたら、教え方の上手い先生はもちろんだけど、やはりカッコイイ先生、「大きくなったら、先生のようになりたい」と思わせてくれる先生ではないかとのことでした。カッコよく活躍しているというのでしょうか。そうなると、おしゃれの要素も大きいのかもしれません。

これまでの私は、人間は中身で勝負と、あまりにおしゃれに無頓着だったと思い反省しています。

Macに乗り換えるというのは、そういう意味も含まれています。



下記のものは、私が現在、Windowsでよく使っているソフトがMacではどうなるかということをまとめてみたものです。


Windowsソフト ⇒ Macソフト

・Microsoft Windows 98 SE/XP Home Edition SP2 /XP Professional SP2 ⇒ Apple Mac OS(Mac OS X Snow Leopard)

・Microsoft Internet Explorer 6/8 ⇒ Apple Safari 4(Mac OS X Snow Leopard)

・Microsoft Outlook Express 6/8 + 無料ウェブメール(Yahoo! メール/@niftyメール/Gmail/goo メール/Hotmail)⇒ Apple Mail(Mac OS X Snow Leopard )+ 無料ウェブメール(Yahoo! メール/@niftyメール/Gmail/goo メール/Hotmail)

・村山富男氏 +Lhaca(フリーソフト)⇒ Aladdin Systems, Inc. Stuffit Expander(フリーソフト)

・Kouichirou Urano氏 MKEditor(フリーソフト)⇒ daisuke氏 mi(フリーソフト)

・Microsoft Word(Microsoft Offce Personal 2000/2002/2003)⇒ テキストエディット(Mac OS X Snow Leopard) / △WRITER(MAGREX Rex Office)

・Microsoft Excel(Microsoft Offce Personal 2000/2003)⇒ △CALC(MAGREX Rex Office)

・Microsoft PowerPoint(なし)⇒ △IMPRESS(MAGREX Rex Office)

・AVERY maxell ラベルプロデューサー(フリーソフト) ⇒ A-one ラベル屋さんHOME Mac版(フリーソフト)

・弥生 やよいの青色申告 09 ⇒ MAGREX Macの青色申告 5

・XLsoft Primo PDF(フリーソフト)⇒ MAGREX Rex Office(WRITER/CALC)

・Microsoft Bookshelf Basic 2.0/3.0(Microsoft Office Personalに付属)⇒ 辞書(Mac OS X Snow Leopard) /△LogoVista 基礎学習セット

・RUNEXY Acronis True Image Home 9.0 ⇒ iGeek.Inc. INDELIBLE / △Apple Time Machine(Mac OS X Snow Leopard)

・Avira GmbH Avira AntiVir Personal(フリーソフト) ⇒ Tomasz Kojm ClamXav 1.1.0(フリーソフト)

・たかし氏 Cookies Manager(フリーソフト)⇒ sweetpproductions  Safari Cookies(フリーソフト)

・interCOM SuperXP Utilities 7 ⇒ iGeek.Inc. Drive Genius 2

・Microsoft Windows Media Player ⇒ Apple iTunes/QuickTime X(Mac OS X Snow Leopard)

・伊里目 流氏 Getter 1(フリーソフト)⇒ 伊里目 流氏 Getter 1(Intel Mac用) / FLVダウンロードWebサイト

・Gretech Corporation GOM Player(フリーソフト)⇒ VideoLAN Project VLC media player for Mac OS X

・Cycle of 5th Sound Engine(フリーソフト)⇒ Cycle of 5th Sound Engine for Mac(シェアウェア)

・InspiredWorkS MeRu(フリーソフト)⇒ Tango Project DJ ソフト Mixxx(フリーソフト)

・e frontier finale NotePad 2003(フリーソフト)⇒ e frontier finale NotePad 2009(シェアウェア)

・BHA B's Recorder GOLD 7/8/9(I-O DATA製外付マルチドライブに添付)⇒ Roxio Toast8 Basic(BUFFALO製外付マルチドライブに添付)

・InterVideo WinDVD 5 (I-O DATA製外付マルチドライブに添付)⇒ DVDプレーヤー(Mac OS X Snow Leopard)

・IBM ホームページ・ビルダー V9 + 無料ウェブサービス(ココログ/Seesaa ブログ/mixi/GREE)⇒ iWeb(Mac OS X Snow Leopard) / 無料ウェブサービス(ココログ/Seesaa ブログ/mixi/GREE)

・Jungle 携帯マスター Smart2 au版 ⇒ TriStar 携帯万能 for Macintosh au用 / Apple iTunes(Mac OS X Snow Leopard)… Apple iPod nano (○)/ SoftBank iPhone 3G(?)

・Microsoft Office Photo Editor / Microsoft Office Picture Manager ⇒ iPhoto(Mac OS X Snow Leopard)

・Adobe Photoshop Elements 2.0 ⇒ The GIMP Team GIMP on OS X(フリーソフト)


posted by 盛岡のしろねこ at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン・インターネット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月27日

しろねこは

しろねこはストレスにやられて死にかけたが、

名医に出会い救われた。

家族の問題…

さらには、頑張りすぎたのも良くなかった。

血圧の薬ではなく、精神安定剤で血圧が安定している。不整脈もあり、白血球にも異常があるらしい。

ねこならではのルーティーンはもちろん大切。

しかし、同じくらいに、

ねこならではのぐうたらに生きることも大切。

人間さんの生き方なんぞ真似するのはやめにしよう。


話は変わるが、

最近、Mac OS X Snow Leopardの、

雪を被った雪豹の写真が超お気に入りとなっている。

s-leopard 09.jpg

モンゴル〜チベット〜アフガニスタンなど、

中央アジアの山岳地帯に生息しているらしい。

Windowsパソコンの壁紙にしているが、その神々しい風貌に、

なぜか勇気づけられている。

そろそろ、Mac に切り替えようかとも思う。

posted by 盛岡のしろねこ at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | ねこ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月21日

大我に生きる

小我とは、自分の求める生き方のことを言います。

あれがしたい。これがしたい。ああなりたい。こうなりたい。

あれが欲しい。これが欲しい。あれをして欲しい。これをして欲しい。

それとは異なり、

大我とは、神が自分に求めている生き方のことを言います。

神といっても、キリスト教や他の宗教でいう神ではありません。わずか、2000年程度前の教えではないのです。人類が20億年以上も前から、すでに感じ取ってきた、大自然であり確かなるものへの畏敬ともいえるのです。

多分、その畏敬の心は、原始人の方がはるかに大きかったに違いありません。

私たちの身体にすでに刻まれている、細胞の働きにも見られる完全なる秩序。これは、身体の恒常性ともいいます。大自然の素晴しい循環システムの中にも恒常性を見出すことができることでしょう。宇宙に目を向けると、宇宙の星たちの秩序ある動きにも、それは見出すことができるのです。

大我では、自分の求める生き方とは、違う方向性が求められています。

大自然の秩序に従いなさいというメッセージを感じ取ることができることでしょう。

小我と大我が食い違っていくと、精神的な苦しみを体験することになります。

すべての心の苦しみの根源は、そこにあるように思えてなりません。

では、大我を感じるにはどうしたらよいのでしょう。もしかすると、そこに宗教との関わりが必要になってくるのかもしれません。それは、何の宗教でも構わないと思うのです。ただ、宗教の掟の方にばかり心が向いて、神に心が向かわないのなら、何の意味もありません。重要なことは、意に乗ることなのだと思うのです。

祈りの本来的な意味は、「意に乗る」ということなのだと言われています。意とは、完全なる秩序、または大自然を指すます。神を指している言葉でもあります。その、完全なる秩序に心を合わせていくのです。

ある人は、意に乗るために瞑想をし、ある人は、意に乗るために、自然の中へと足を運びます。

小我に生きることを弱めていくと、大我が見えてくるとも言われています。

私としては、大我を見出し、大我に生きて、そして、大我(意)に乗って命の再生を目指す生き方がしたいと思います。そうなれば、仮に何度生まれ変わろうと、揺ぎ無い光の中の歩みと進化を続けることができると思うからです。

大我に生きるなら、人にあれこれ言われなくても、掟などに強制されなくても、自分の意思で、正しい行いを見出すことができる筈です。失敗しようとも、失敗を自分の心で受け止められるので、魂の進化に繋いでいけるように思います。

これができない人は、間違いなく、小我に生きていることでしょう。自分も、今のところ、その一人であるような気がします。

小我に生きていては、魂の進化は死によって閉ざされてしまうように思います。さらには、意味のない繰り返しが続いていくのです。

残念ながら、死後の世界など私には全くわかりません。いかに神を語ったとしても、肝心の神をこの目で確認することができないからです。わからないから、信じるしかないのですが、あまりに簡単に信じてしまっては妥協しているように思えてならないのです。

現代科学は進歩し続けているので、いつかは、その目に見えない世界を証明してくれることでしょう。とはいえ、私が生きている間に、科学が神を見出すことはないように思います。もしかすると、人類が科学的に神を証明する前に、人類は、自然を破壊しつくして滅亡してしまうかもしれません。地球にとって、人類は、まさにがん細胞といえるからです。

しかし、大我に生き、魂を進化させていくのなら、生きている間に、次元を超えた真理の世界を感じる能力を得られると信じています。現在私が習っている歌の先生が、そういう方だからです。

もちろん、一人心の修行をしていては飯を食ってはいけません。生活していくために、何らかの仕事をしなくてはなりません。というより、確かなるものから求められている仕事をすることこそが、大我に生きることだと思うので、自分と出会うすべてのことをないがしろにせずに、ひも解いていく謙虚さと慎重さを持ち続けたいものです。

かけ離れた自分に生きるのではなく、今できることから始めようと思います。今ある環境にすべてのヒントがあると思うからです。この親の元に生まれたということにも、きっと意味がある筈です。避けなければならない人間関係ももちろんあるのですが、すべての出会いには必ず意味(導き)があるような気がします。

私は、カトリックのクリスチャンであり、先祖伝来の曹洞宗の仏教の檀家であり、日本人として神道の氏子でもあります。このすべてが、私の魂の進化に必要だったように思い、どの価値観も否定せずに、人間同士の交流を大切にして、大いに学んでいきたいと思うのです。

一つだけ言えることは、もし私がキリスト(キリスト教)に出会わなかったなら、生きることに失望し、自殺の道を歩んでいたかもしれないということです。

私が40歳を過ぎるまで結婚できずに苦しんでいた頃、会社の同僚たちからは、毎日、そのことで野次られ辱めを受け続けていました。始めから出世の道の絶たれた立場の肉体労働をしながら、自分は何のために生きているのかわからなくなっていました。

しかし、それでも自分は、間違っていないと、自分で自分を励まし続けられたのは、キリストの教えがあったからです。

私は、30代前半に、真理に出会いたいと、キリスト教の他に、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、イスラム教も経典を手に入れて熱心に学んだことがありました。いくつかの新興宗教についても学びました。しかし、逆境の時に、私の心に生きる方向性を与えてくれたのは、正統的なキリスト教でした。これは、あくまで私の場合においてのことではあります。とはいえ、そのことにも、きっと意味があるのだと思います。

その会社を辞めた後に出会った妻も、キリストの教えと、教会の先輩達の愛に支えられて、いくつもの心の十字架を乗り越えて、魂の進化をし続けています。

だからこそ、教義や理屈ではなくて、人間としての本質が大切だと思うのです。知識だけの信仰者にはなりたくありません。

これからは、歌を通し、母から受け継いだ書道を通して、特に子供たちへ良い方向性を与えていける者になりたいと思います。
posted by 盛岡のしろねこ at 14:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月10日

意に乗るために

祈りの本来的意味は、「意乗り(イノリ)」であるのだそうです。

つまり、神の御心(みこころ)に波長を合わせ、そこに乗り合わせること。


私の願いが叶うようにと神に祈ることではなく。

神が私に願うことに私が気づき、その使命に生きられるようにと祈ること。

と、前の記事で書きました。昨日のことではありますが、意に乗るための具体的方法について、ふと気が付くことができました。


意に乗るために(神が望む私を生きるために)は、、大河ドラマ「天地人」で描かれていたように、上杉謙信公が一人岩屋にこもり、自分自身と向かい合い、神の意について問い続けた姿が手本になるように感じられるようになりました。つまり、部屋にこもってひたすら瞑想することから、意に乗るきっかけが掴めるのではないかと思うのです。

じっくり自分と向かい合うことで、それまでの自分にはなかった優れた気づきを得たとしましょう。大なり小なり、それに近い体験は誰もがあるのではないでしょうか。よく考えてみると、そこには自分の他には誰もいないわけなので、そうなると、その優れた知恵を与えてくれたのは誰かということになりますよね。それこそ、神の導きといえるものではないかと思うのです。

これは、親や先生に相談したり、友人に相談するのでは得られません。親や友人に依存する形となると、うまくいかないと相手のせいに考えてしまうかもしれません。自分の人生を左右するような大事なことを他者に決めさせてはいけないように思います。

だから、親や先生に相談する。友人に相談するというのでは、正しい判断はできないように思います。知識や経験に乏しい子供なら、むしろ責任ある大人に相談すべきです。しかし、大人になっても、そういった依存的な考え方のままではいけないように思うのです。というのは、親も先生も友人も、私の意について何も知らないゆえ、的外れのアドバイスしかできないからです。

カウンセリングにおいては、クライアント(相談者)の話をひたすら聞くことが重要なのだそうです。そこで、アドバイスや指示をしてはいけないのです。つまり、クライアントが自分自身と向かい合うことに協力すること以外には何もしてはいけないと考えるわけです。そして、クライアントが自分自身で解決策を見つけられるように導いていくわけです。このことは、「意に乗る」ことに通じるものがあるように思えてなりません。

私の場合、仕事のことで親が干渉してきて、なかなか前に進めないでいました。そのアドバイスが時代遅れ、かつ的外れなため、自分の能力が生かされず自信を失うしかありませんでした。自信を失うだけでなく、健康も失っていきました。子供として親を立てようという心配りも、ことごとく裏目に出てしまったように思います。そうするのではなくて、親の干渉には断固拒否すれば良かったのです。親には一切相談せずに、最も確かなるものである神に相談すること。それこそが最善策であることに、ようやく気づくことができました。

そうなると、黙想する時間がとても重要となってきます。これからの人生は、大いに黙想にこだわりたいです。大いに黙想して、自分の殻を破り、人生を切り開いていきたいと思うのです。
posted by 盛岡のしろねこ at 22:31| 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月05日

何事も祈ってからはじめよう

祈りの本来的意味は、「意乗り(イノリ)」であるのだそうです。

つまり、神の御心(みこころ)に波長を合わせ、そこに乗り合わせること。


私の願いが叶うようにと神に祈ることではなく。

神が私に願うことに私が気づき、その使命に生きられるようにと祈ること。


こういう祈りができるのなら、聖書も仏典も要らないのかもしれません。

直接神と対話できるようになるからです。

対話とまではいかなくても、神の息吹ぐらいまでなら感じられるのだと思います。

世の中にはいろいろ宗教があるので、このようなことを言ってしまうと語弊があるかもしれません。

でも、このことは宗教というカテゴリーには入りません。あくまで、宗教が出現する前の「原始回帰」を試みたにすぎないからです。

仏教やキリスト教が出現した2千年以上前の話というのではなくて、

10万年以上前の原始人の価値観となってくると、そこには宗教は存在しなかったことでしょう。

このことは、原始人が心を向けるようなシンプルなことなのです。

それゆえ、知識や経験に乏しい子供にもできることなのです。

いや、大人より子供の方が、こういった感性は優れているのだと思います。

それほど単純なことなのですが、魂を進化への方向性へと向かわせてくれることだけは確かなようです。

だから、何事も祈って(意に乗って)からはじめようと思うのです。




「かぎっ子」が増えている現代社会において、大人が子供に、神という視点を教えることは、子供の健やかな成長に欠かせないことなのだと思います。

どんなに親の目から離れていても、子供たちは、いつも神と共に生きている実感を持つことにより、自分の意志で悪の誘惑を絶てる力が湧いてくるわけです。
posted by 盛岡のしろねこ at 05:44| 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

覚醒 (書かずにいられなくなって…)

先生は太陽で、私は月。

月は太陽に比べるととても小さな存在だけど、自然界の生体のあらゆるリズムが月の満ち欠けと連動しているなど、命に係わる重要な役割をしています。

月の人は太陽の人と一緒になって、この地上を清めていく使命を持っているのです。

この先生に付いていくなら、すべてを捨てられると思いました。そういう決意を、なぜか自分からしたくなったのですから不思議でなりませんでした。

どんなに誘惑があっても、祈り(意乗り/神と意を合わせること)により魂が磨かれて、これからは、その裏が見えてくるようになるので、乗り越えていけるような気がしています。もちろん、こういったことは誰でも持てるような特別な能力という程のものではありません。ただ、使命としての能力の部分も大きいように思います。

もちろん、太陽の使命に生きる者。月の使命に生きる者は他にも大勢いて、地球を清める働きをしているのです。

先生が死に、私も死んだとしても、太陽の使命に生きる者、月の使命に生きる者が新たに覚醒されて、永遠の真理による秩序は保たれていくのです。これは、自然の摂理でもあるからです。ですから、その役割を担えるということは、何という喜びなのでしょう。


夜行バスで帰るまでの時間潰しに、渋谷の名曲喫茶ライオンでゆっくり音楽鑑賞を楽しみました。

渋谷の街を歩いてみると、凄い露出の少女たちが目に入ってきました。

眩しいほどの若さゆえの美しさに目のやりどころが無いほどでした。

しかし、次の瞬間、彼らの肉体と魂が分離して見えたのでした。

彼女たちは、今死んだらヤバイかも…

「暗くて恐ろしい世界」しか、そこには見えなかったからです。

でも、だいじょうぶなんです。

彼女たちが子どもを生んで苦労して、または子どもではなくても多くの苦労をすることで、魂が磨かれていくのなら、魂に光が差して明るくなっていくことでしょう。高い次元の幸せ、喜びを感じられるようになっていくことでしょう。

彼女たち(に限定せず、すべての人たち)の進化のために、他の多くの人たちが犠牲を払っているのです。ある人は、命を落とすような受難に遭うことで身代わりの愛を捧げているように思います(キリストの十字架とリンクします)。私も、これからの人生、多くの受難に遭うことでしょう。

でも、神に見込まれてそうなるのなら、喜んで引き受けなくてはなりません。

「私でよかった」

と、思える気持ちを持てるようでありたいです。

もちろん、これまでに私の魂のために犠牲を払った人も多くいることでしょう。本当に生きていることは感謝なのです。生きているだけで儲けもの、生きているだけで十分幸せなのですから。

私たちは、そうして「いつ死んでもだいじょうぶな魂」へと進化していくのです。これは人生の目的の一つなのかもしれません。

人間としての意義のある進化とは、そういうことなのだと考えるようになりました。

残念ながら、退化する人生を歩んでいる人も多いようですが…

昨日、私は自分の生きる使命を強く感じ、なぜか踊りたいほどに嬉しい気分に浸っていました。
posted by 盛岡のしろねこ at 16:26| 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月29日

真理に触れるために

真理の世界に触れるにはどうしたら良いのでしょう。

それって、正しい宗教を探すことなのでしょうか。

私は、違うように思います。

真理とは、もうすでに私たちの体の中に存在しているものだし、大自然の中や、広い宇宙にも存在しているものだと考えられるからです。

私が通っているカトリック教会は、高齢化が進み、ミサの出席者も目に見えて減少しています。世界的に聖職者や修道者の志願者が減少しているとのこと、カトリックという一つの宗教が、存続の危機にもがき苦しんでいる状態にあります。もし、通う教会が無くなってしまったら… もし、カトリックが廃れてしまったなら…

もしそうなったとしても、何も心配することはないのです。私たちの体の中に、大自然の中に、そして宇宙に、真理(恒常性/自然の法則)は存在しているのですから、廃れることを心配することなど全くないわけです。

仮にキリスト教が廃れたとしても、人間、自然、そして宇宙が存在する限り、真理は存在し続けていくわけですから、違う形になるかもしれませんが、何度でも復活し続けられるのです。

私たちの体の中にはミクロコスモス(小宇宙)が存在し、そこには恒常性(ホメオスタシス)という素晴しい秩序が保たれています。私たちの心がどんなに乱れ、破壊的な方向性を持とうとも、私たちの意志とは全く別に、私たちが死ぬ寸前まで、その恒常性は働き続けようとします。つまり、私たちの体の中に、すでに「自然の法則」は組み込まれていて、触れ合おうと思うのなら、こんなにも近くに存在しているのです。私たちの身体に組み込まれているミクロコスモスは、大宇宙の秩序とも繋がっている真理でもあるのだと思います。

大自然の中にも、広い宇宙にも存在する「確かなるもの(something great)」の声に耳を傾け、全てをゆだね、あるがままの自分を生き、そして死んでいけばよいのだと思うのです。

大金持ちとして生きようと、貧乏人として生きようと、そんなことはどうでもいいことなのです。そこには、成功の人生とか、失敗の人生といった価値観など存在しないからです。どんな形であれ、ありのままに生きることこそが最も優れた進化の道といえるのだと思います。

キリスト教では、伝道することを重視しています。これは組織を維持するためにやむを得ないことではあります。しかし、本当に真理は多くの人に伝えなくてはいけないものなのか、広めなくてはいけないものなのか、と言えば、そうでもないようです。

真理とは、口で話したことで伝わるようなものではないからです。その人が、ありのままの自分を受け入れて、自然の法則にすべてを委ね、自然の法則と一体となって呼吸し、自然の法則と対話しながら生きることさえできれば、そこには人間としての素晴らしい進化があると思うのです。

私の隣人となる人の中に、私の生きる姿に共鳴できる人がいるとするならば、真理に触れさせることができるというように考えています(私が、真理に生きていることが前提となるので、かなり無謀な表現ではあります)。そういった形で自然に受け継がれていくというのが理想的な形だと思います。仮に、その受け継ぎが途絶えたとしても、前に話したように、真理はすでに存在しているものなので、何度でも復活し続けることができます。

そんなら、私でなくたって、私がいなくても別にいいのではないかと受け止めてしまう人もいるかもしれません。

真理とは、幸せと結びついてこそ輝くものです。私たちが、お互いに「喜んでもらう」人間関係を築いていくのなら、そこには必ず幸せが存在します。その幸せを知るものだけが、真理の旅(進化し続ける旅)をさらに進めていくことができるのだと思います。

とはいえ私は、それでもキリスト教を大切に考えています。なぜなら、もしキリスト教を学ばなかったなら、間違った価値観に囲まれて自分の生きる場を失いかけていた時代、「それでも自分は間違っていない」と自分の存在への自信を失わずに済んだのは、聖書の教え無しには考えられません。当時の私には、自然の中に真理の息吹を見出す能力はありませんでした。

私の魂の進化の過程において、キリスト教は、命の恩人と言えるもの。必要不可欠なものだったと思えてなりません。また、ある人にとっては、仏教が、命の恩人と言えるもの。必要不可欠なものであるのかもしれません。

とはいえ、ここで語ってきた真理については、宗教とは少し意味合いが異なるものと考えています。すでに出来上がっている歴史的価値観ではなく、科学の世界同様に、これからも解明されつつある永遠の価値観を指しているからです。

そう考えると、人類は、まだその一部しか見出していないと言えるのです。

もちろん宗教は人間にとってとても重要なものであり、どこの宗教に属そうとも構わないのだと思います。その人その人の尊い誇りを否定することなどできないからです。宗教とは、人類の歴史的遺産でもあり、人々の生活から切り離して考えることは困難なものとなっているのです。それだけに私は、ここで言う真理(自然の法則)とは切り離して考えるようにしています。
posted by 盛岡のしろねこ at 23:10| 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

今年最後の記事(多分?) 「教師の資質について」

自分は、教師として未熟者の一人ではあるが、教師として歩んでいくための目標を掲げてみたいと思う。

まず教師は、児童生徒に対し、心の感度を良くする必要があると思う。

特に、教える教科以外の「人間として」の指導においてこのことは重要になってくると思う。

ここで重要視しているのは、「察する力」である。

言葉にしなくても、児童生徒の心の叫びを感じ取る力。

とはいえ、甘やかす事ではない。すぐに助けることでもない。

その児童生徒が克服しなければならないことに関しては、簡単に手を貸してはならないと思う。しっかり見守ることも重要なのだ。

そこに判断力が必要となる。

正しい判断とは、自分の経験や価値観だけで決めるようなことではない。「自然の法則」にも心を傾ける必要があると思う。

私たちの身体の中にもミクロコスモス(小宇宙)が存在し、そこには恒常性という素晴しい秩序が保たれている。私たちの心がどんなに乱れ、破壊的な方向性を持とうとも、私たちの意志とは全く別に、私たちが死ぬ寸前まで恒常性は働き続けようとするのである。つまり、私たちの身体の中に、すでに「自然の法則」は組み込まれていて、触れ合おうと思うのなら、こんなにも近くに存在しているのである。私たちの身体に組み込まれているミクロコスモスは、大宇宙の秩序とも繋がっている真理でもあると思う。

残念ながら、このことについては宗教は少し意味合いが異なる。すでに出来上がっている歴史的価値観ではなく、科学の世界同様、これからも解明されつつある永遠の価値観なのである。

人類は、まだその一部しか見出していないのである。

もちろん宗教は人間にとってとても重要なものであり、どこの宗教に属そうとも構わない。その人その人の尊い誇りを否定することなどできないからだ。宗教とは、人類の歴史的遺産でもあり、人々の生活から切り離して考えることは困難なものとなっているのである。しかし、ここで言う「自然の法則」とは切り離して考えるべきだと思う。

不完全な人間ゆえ、自力で完全なものに触れ合うことなど到底できない問題ではあるが、今できる最善を見出すことなら十分に可能ではないだろうか。

その最善を引き出すことが、教師の資質として重要な点となってくる。もちろん、わかりやすくアイディアに富んだ指導スキルや、教えることに対する知識や技能の習得は基本的に欠如してはいけないことではある。ただ、知識や技能、指導スキルだけでは、片手落ちとなってしまうことは否めないのだ。

「自然の法則」に敏感になるためには、自然と親しむ心も必要となってくると思う。花を育てたり、できることなら農業を行うことなども有効な手段であると私は感じている。

心の感度を最大限に高め、「自然の法則」を敏感にキャッチできるためには、心の曇りを拭い去る必要があると思う。

そのために生活の中に瞑想する時間を組み入れることは、かなり意義のあることだと考えている。瞑想において、知性とは、さ迷うもの、妨げるもの、でしかない。心の曇りそのものと言っても過言でないかもしれない。瞑想は、脳の活動を休め、霊的感度を高める効果があると思う。

そのことを実践する前に、心の感度を悪くするものをことごとく捨て去ること、思い切って処分するべきなのだと思う。

つい「べきである」と書いたが、このことは強制されて行うことではない。自分で気がついて、自分の意思で行わなくては意味をなさないからである。どうしても捨てきれないマイナスの欲求があるのなら、そのことを解決するまでは教師にはなるべきでないのかもしれない。いや、優れた教師になろうという熱い思いがあるのなら、必ず克服できるものと信じたい。ある意味、独身よりは結婚して家庭を築いた方が理想的なのかもしれない。とはいえ、克服の仕方はそれぞれ異なることなので、理想論を語っても仕方ないことではある。

瞑想をしながら身に付けていきたいことは、「裏表の無い生き方」である。

経験の少ない児童生徒にとって、裏表のある大人の価値観など到底理解できないし、そのことを見せ付けられても消化不良を起こしてしまうしかないのだ。

それゆえ、児童生徒の信頼を得ることとは、裏表の無い生き方を示すことなのだと思うのだ。そこでは、ごまかしは全く効かない。

さて、ここまで書いたが、教師といえ、誰もが始めは経験に乏しく未熟者である。私自身未熟者の一人ではあるのだが…

こんなことを書いてしまうと、教師の資質のある者など稀にしかいないということにもなりかねない。

しかし、そんなに大袈裟に考える必要などないと思う。

ここに書いたことは、あくまで教師が目指すべき目標であるからだ。書いている私にとっても、目標であっても、まだまだ到達していない境地なのだ。幸運にしてその境地に到達しているお手本がいるので、そのお手本にしている方の生きる姿が、大きな指針となっているように思う。自分もいつか、そういったお手本になるべく進化をしていきたい。

目標を持つこととは、最も重要なことと言える。目標を持たずに進むことは、生まれっ放しの考え方に陥りやすく、正しい判断ができなくなる。そのような教師と出会う児童生徒は不幸である。しかし、目標を持って進むことにより、目標に達するために必要な人との出会いや幸運といえる奇跡的出来事が引き寄せられていき、より良い進化をし続けられるのである。

目標さえしっかりしていれば、どんなに今の現状が情けないもであったとしても、必ず何とかなるものである。

航海をする際、行き先が決まっていれば、途中嵐に出会うようなことがあったとしても何とか乗り切って、最終的には目的地にたどり着くことができる。しかし、行き先が決まっていなければ、どうだろうか。その航海は不安の多いものとなり、その不安に引き寄せられて、悲惨な航海になっていくことだろう。

特に、教える教科以外の「人間として」の指導においては、メッキの剥がれるような口先だけの説教ではなく、教師の全人格を通して、道を示す者でありたい。さらには、心の感度最大限に高め、スピリチュアルともいえる「察する力」により、常に最善の判断を引き出せる者でありたい。

教師の心が幸せならば、児童生徒たちの心に幸せな気持ちが伝染していくものである。双方で共に幸せを感じ合えるようになった時、さらに大きな幸せを体験できるのである。その幸福体験は、児童生徒たちがその後の人生を歩んでいく上での大きな財産になっていくのである。そういう意味では、教師は心にいつも幸せを感じられる者でなくてはならないと思う。

小さなことにも幸せを感じられるセンスを身に付けたい。

良い教師になることと良い親になることとは、どこか似ている。ぜひ、「教師」を「親」に、「児童生徒」を「わが子」に置き換えて読んでみて欲しい。

これは、あくまで私の目標であり、教師は誰もがそうであるべきというようなものではない。



それでは皆さん、しばらくの間、留守にいたします。
(今日は、日本中が今世紀最長といわれる皆既日食で話題となった日でした。)

posted by 盛岡のしろねこ at 18:09| Comment(5) | TrackBack(0) | 起業家として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする