2016年06月07日

芸術性とインスピレーション

「わからない」ことは、「わからない」で考えるべきである。わからないのに、そうだと決めつけることはとても危険なことであるし、もし嘘を信じてしまえば、人生が大損になってしまうかもしれない。これから話すことは、「わからない」を含んでいる。つまりは大いに警戒しなければならない内容なのである。

今から50年以上前のスペインの田舎町ガラバンダルの4人の少女たちに出現した聖母マリアのメッセージにしても、最近、動画サイトで目にしたアルシオン・プレヤデスのメッセージ(プレヤデス星人のメッセージ?)にしても、次元上昇のことを言っているように思えてならない。次元上昇とは、銀河系の配置転換により、地球が3次元から5次元に、次元が上昇することを意味する。

次元上昇(アセンション)といっても、カルトとも思えるようなぶっ飛んだ概念ゆえ、誰もがそう簡単に受け入れられるものではないと思う。とはいえ、知っていて損はない概念でもある。別に誰かに大金を払うようなことも無ければ、何か責任を負わされて大きく時間を奪われるようなこともない。自分一人でやれることなので、むしろ自分の魂との対話が重要となってくるからだ。仮に次元上昇が起こらなかったとしても、備えることで、その人は間違いなく人間性が向上するのである。

では、次元上昇に備えるポイントとは何か。

それは、「大らかに生きること」である。

大らかに生きる人は、魂の波動がとても高いので、上の次元(5次元)に同調しやすいのである。天罰とも思えるような激しい試練であっても耐え忍ぶことのできる内的エネルギーを有している人なのである。大らかに生きる人は、強運の持ち主でもある。日頃、運を貯めているからだ。

しかし、ここで言う大らかさとは、天然のおおらかさではなく、知性を土台とした大らかさにある。天然の大らかさだと、何か精神的なバランスが大きく崩れた際に、取り戻すことが難しくなってしまうからだ。知性を土台にしている人は、考え方が柔軟になっているので、豊富な知識から良い考え方を引き出すことで、多少狂いが生じてもすぐに取り戻すことができることだろう。つまりは、知性から来る揺るがない大らかさが重要なのである。

そういった知性を得るための入門として、簡単ゆえに誰にでもできるものとして、ロザリオの祈り(カトリック教会の祈りの一つ、数珠のような聖具を用いる)がある。しかし、この祈りは芸術性のある者にしか向かないのである。なぜなら、ある人は1年間続けても、毎日、同じように(無意味に)黙想課題と練祷を繰り返し唱えたに過ぎないのだが、芸術性のある者の場合は、毎日、違ったインスピレーションを得て心が豊かになっていくのである。多分、義務的に1年間『聖書』を読んだ人より、ロザリオで毎日、聖なるインスピレーションを得た人の方が、豊かな知性を築き上げていることだろう。

実は、ロザリオと秘儀(ヘルメス主義を含むエジプトにルーツを持つ知的エリートだけが外部に漏らさない誓いの儀式を段階的に経ながら学ぶことのできる神秘学を含む高度な学問)を学ぶ人が行っている瞑想とはとても近いものがあり、どちらも宇宙の法則からインスピレーションを得ているのである。ただ、芸術性に不足している人は、何もインスピレーションを得られず残念なことになってしまうのだ。

そうなると、何よりも先に、芸術性を身に付けなければならないことになる。シュタイナーは彼の教育(シュタイナー教育)の中で最も芸術性を優先している。その理由は、芸術性を磨くことは、インスピレーションを受け取りやすくするからなのである。

まずは多くの芸術作品と触れ合い、感動に多く出会うことをしなくてはならない。それは、その人が興味がある分野から始めるべきである。感動が多くなってきたなら、ロザリオでもいいし、秘儀を学ぶのでもいいと思う。次なるステップとして、インスピレーションを得るための習慣を身に着けていくのである。

誰でも学べる秘儀としては、ルドルフ・シュタイナーの難解な書籍を読むか、エジプトにルーツのある伝統的神秘学を教えてくれるバラ十字会に入会するといった選択肢もある。いずれにせよ、かなり学問的な努力を強いられることになるだろう。最近、シュタイナーを理解するためのわかりやすい解説書が多く出回るようになってきた。今こそ、シュタイナーの学び時なのかもしれない。

敬虔なクリスチャンは(私もその一人なのかもしれないが)秘儀を理解しにくい。特に、輪廻転生が引っかかってくるからだ。そういう人は、エマニエル・スウェデン・ボルグやエドガー・ケイシー関連の本を読むと柔軟に考えられるようになってくる。私の場合、イエス・キリストが亡くなってから、聖書が成立するまでのクリスチャンの歩みを研究したことも有益だった。宗教的なグループと秘儀的なグループとに分かれての論争があったことを知ったからだ。私は、結果的に敗北した秘儀的なグループ(グノーシス派に至る)の信仰について大いに興味が湧いた。

イエス・キリストが輪廻転生を問題視しなかったのはなぜか(ブッダも、ブッダのオリジナルに近い最古層の仏典になると輪廻転生を全く問題視していない)。それは、後悔と恨み妬みのうずまく過去に心を向けることではなく、地に足のつかぬ過度な期待や不安のうずまく未来に心を向けることでもなく、今に集中することを勧めているからだ。今に集中する時、真理に満ちた永遠の扉が開かれるのである。今の一瞬一瞬に心を込めて向かい合う時、魂が輝き始めるのである。イエス・キリストは(ブッダも同様に)決して輪廻転生を否定したのではなく、信仰者に最高のモチベーションを与えたかったのである。だから、安易に輪廻転生を語ると、生きるモチベーションを大きく失う人がいるので気を付けたいものである。

私の場合は、多次元的に考えて理解できた。大雑把に言うと、上の次元(天国と例えられる世界)にも輪廻転生があり、さらにその上の次元にも輪廻転生があるという考え方である。もちろん、実際はそんな単純なものではない訳だが、そのような研究をしているうちに、人生の目的が明確化してきたように思うのである。

宗教は、一般人を導くために出現した概念である。秘儀は、エリートを導くために出現した概念である。このことは不思議にも急速に出来上がった古代文明の中で、ほぼ同時進行で確立していったのである。と、私は捉えている。宗教だけやっている人は、原理や法則には疎くなる。秘儀だけやっている人は原理や原則に詳しくとも単なるエリートに過ぎない。両方を学ぶのなら、全世界を愛する人になれる。つまり、両方の視点を持った人の方が、偏りが無くなるのである。

現代において、宗教だけの人と、エリートだけの人が、現在、平和を乱す困った人になっていると感じられてならない。一方はテロリスト、一方は国際政治における陰謀論者たちである。その中にはサタニストも含まれていると言われているが、文明の出現した時代を検証してみると、そういったことも色々見えてくるのである。つまり、私たちが人間になり得たルーツと関わりがあるのである。いずれにせよ、誰かを敵視していては、私たちは大らかには生きられないのである。まだ具体策は見えてこないが、私は解決策があると信じたい。アセンションはその一つなのだ。

現代は、宗教と秘儀のどちらも学べる時代なのである。「宗教と秘儀は相反するものではないか」と言う人もいるがそうだろうか?

私は、そんなことはないと思う。キリストは「汝の敵を愛せよ」と言っているではないか。相手を敵視する人は、聖なるインスピレーションは得られていないように思う。悪魔すら敵とは思わず、ひたすら大らかに生きたいものだ。キリストが聖書の中で勧めているように、「右のほほを打たれたら、左ほほも打たれなさい」の精神で、またはマハトマ・ガンジーの非暴力の歩みのごとく、何をされても悪に従わず、いつも神(宇宙の法則)と共に生きたいものである。

私は、宗教と秘儀の両方を学ばなくては損と思ってしまう。現代を生きているからこそ、両方学べるのだと思えるからだ。もし、ローマカトリックが出来てから中世に至るまでの時代に秘儀を学ぶとなると、そのことが外部に知れたら拷問にかけられて殺されてしまうことだろう。逆に、教会(宗教)の側なら、全く秘儀を知ることが出来ないばかりか、一般人は聖書を自由に読むことすらできなかったころだろう。現代においても、宗教や政治の影響のために自由に学ぶことのできない国や地域が存在していることを考えると、私の場合、教育的両親にこそ恵まれなかったが、日本人に生まれたことはとてもラッキーだったと思えるのである。

私の信仰は、マリア崇敬から始まった。そしてロザリオで、聖なるインスピレーションを多く得ることが出来たと思う。親から離れて暮らしていた東京での学生時代、毎日、ロザリオを祈り早朝ミサに出席していた頃の私がこれまでの人生の中で一番輝いていたと思う。素晴らしい奇跡の連続だった。私は、間違いなく、高い次元の御方と交流していたのである。しかし、長い求道者生活の末、カトリックのクリスチャンになった途端、私はそれまで自分は普通のクリスチャンたちとは違う世界と交流してきたことに気が付くことになったのである。

さて、次元上昇に話を戻そう。次元上昇は、地球の人口問題と環境問題を見事に解決してくれることだろう。そこに余剰人口などという考え方はなくなるし、差別や格差の問題も無くなるだろう。市場戦争や過剰生産とは無縁となり、原子力エネルギーなど必要としなくなることだろう。

だからといえ、「本当に次元上昇など起こるのだろうか?」という疑問は、どんなに考えても、どんなに資料を集めたからと言って、決して確信に変わってくれることはないのである。ただ、私なりの小さな確信となっていることは、聖書にそのことが多く書かれていると言うことである。

もちろん、そのようなことが起こらなくても人類が幸せになれる道を考える必要があると思う。または、人類は失敗の道を選ぶかもしれない。ただ、(次元を超えた)宇宙法則は、私たちを間違いなく導いており、導かれている人に関しては何が起こっても悲劇にはなり得ないのである。悲劇とは、魂の進化を止めた者たちに当てはまるものなのである。彼らは、どんなに楽しんでいても、人生の目的を生きていないのである。意味の無い人生、それこそが悲劇とは言えないだろうか?


芸術こそが、聖なるインスピレーションをもたらし、人生に意味を与えるものである。


私は、宗教の専門家でも学者でもない。いわゆる一般人である。エリートではないが、秘儀についても研究している。つまり、片手間でこういったことを研究しているのだ。私は、こういったライフ・スタイルは人生を豊かにするものだと確信している。ぜひ、多くの人に勧めたいのである。

こういったことを研究している者同士、大いに語り合い合いたい。メジャーな人生では無いとしても、仕事では大いに不自由と屈辱を味わいつつも、心の領域においては、誰にも強いられない自由をしっかりと確保したいものだ。そういった自由を持ち、(次元を超えた)宇宙からの聖なるインスピレーションを得られる者はすでに芸術家なのである。優れた表現者としての芸術家では無いとしても、魂が芸術家としての高い波動を持っているからだ。そういう芸術家同士、お互いを称えあおうではないか。現実にめげることなく、むしろ奮起して、自分の芸術を追求し磨いていこうではないか。




その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気を付けて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。(マルコによる福音書 13章32節〜33節)

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日が来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が、「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に生みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 … 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上心に心がけなさい。(テサロニケの手紙 一 5章1節〜6節、9節〜11節)





2016.6.10
前に書いた「芸術性とインスピレーション」は、ある意味、都市伝説にすぎぬ内容であったと反省している。つまり、50歳を過ぎた大人が、こんなにも悩み苦しんむ内容なのだから、子どもがこの手のことを知ったならどんなに悩み苦しむことだろう。

やはり、この手の内容は、教育的とは言えないような気がするのである。シュタイナーの文献においても、大人が学ぶ内容と、子どもが学ぶ内容はしっかり分けなくてはならないと強く感じられる。子どもは、芸術性に繋がる基礎を学び、あまり刺激的な内容には触れさせるべきではないいと思う。そのことを肝に銘じ、基本に立ち返り、将来有望な子供たちと接していきたいと思う。




世界でいちばん貧しい大統領 ムヒカ来日緊急特番〜日本人は本当に幸せですか〜


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posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

苦悩

苦悩することは、大変辛いが悪いことでもない。良いものを見つける過程でもあるからだ。

YouTubeでのいくつかのビデオクリップを見たことで苦悩している。つまり、自分の現在のカトリック信仰が間違っているのではないかという迷いが生じたことによる。

しかし、そのショッキングなビデオクリップを徹底検証したところ、相手側にも嘘があることに気が付いた。それが完全なるプロテスタント信仰に基づいてものゆえ、そういう意図で作られたものだと確信を得た。そのビデオクリップによると私の信仰の基盤ともなった証さえも否定されてしまうからである。

もちろん、そのビデオクリップの証自体は正しいもので、間違いなく素晴らしい体験に基づいているのだと思う。問題は、ビデオクリップを制作する過程で、多くの人の手が加わり、プロテスタント思想が盛り込まれてしまったことにあると考えられるのだ。その人の体験は、もっと単純で純粋なものであった筈だったと思う。つまり、そのまま伝えて欲しかったのだ。

3年近く研究して来たシュタイナー教育の研究なのだが、ついに挫折してしまった。

私は現在カウンセリングの研究もしているが、良いカウンセラーは、カウンセラーとしての心の引き出しに、多くの手法を持っている。そして、相談者の一人一人異なる性格に応じた手法を選んで対応するのだ。

例えば、カール・ロジャースの受容のテクニックが優れているからと言って、そのテクニックは決して万能ではない。大部分の相談者には有効なものであっても、まったく上手くいかない相談者があって当然なのである。それゆえ、カウンセラーは、多くの技法を学び、伝統的なものばかりではなく最新のものにも目を向けなくてはならないと思うのだ。

シュタイナー教育は、シュタイナー教育信奉者から完全教育と受け止められていて、一から十までシュタイナーの教えに従うのである。私は、教育者としての心の引き出しの一つとしてとらえていたかったのだが、心の引き出しのすべてを明け渡渡さなくてはならない空気に耐えられなくなったのである。つまり、シュタイナー後の新しい教育理論も導入できなければ、教育の進化は有り得ない。世界のスタンダードな教育を創り出すには、一つの教育思想にとらわれ過ぎてはいけないと感じたのである。シュタイナー教育が世界のスタンダードな教育になり得ない理由は、そういう点にあるのではないだろうか。

不認可はわかるが、教育にあまりにお金が掛かりすぎるのも問題だと思う。後日書きたいと思うが、「貧乏の問題と教育」は重要なのである。

また、私の信仰心もネックとなった。シュタイナーが教えるキリストのイメージと、私がスタンダードなキリスト教を通して培ってきたキリストのイメージがあまりに異なっているからだ。いかにシュタイナーがずば抜けた天才であったとしても、鵜呑みにしていいのだろうか。自分の心を置いてきぼりにして、現実の中で決して確かめられないような知識で塗り固めていっていいのだろうか。

もちろん、そういうぶっ飛んだ思想を私は否定しないし、むしろ学びたいとさえ思う。優れたインスピレーションは、苦悩の中から生まれるからだ。大切なことは、腑に落ちないことは保留し、他の知識を学ぶことで解決できるかもしれないと考えることにある。無理して信じ込もうとしたり、決めつけてしまうのは真理を学ぶ姿勢とは思えない。


私の東京での学生時代、とある大衆食堂で、たいへん不愛想なウエイトレスさんが仕事をしていた。彼女の働きぶりを見てふと思ったことは、「きっと彼女は、他の店では勤まらないことだろう。この店の店主は何と優しい人なのだろう」と思ったことである。

そして、こういう人が働けるような社会こそが、優れた社会ではないだろうかと思ったのである。

こういう人の命を軽視してはいけない。見下げてはいけない。

こういう人たちを受け入れられる社会でなくては、世界は平和にならないと思う。しかし、利益を追求する考え方では、こういう人たちは除外されるしかない。

テロの悲劇が世界に広がっているが、貧困と差別が起こしているのではないだろうか。

本当に正しい宗教や正しい思想が人々を救うのだろうか?

お金持ちになるために猛烈な努力をしても、誰かを不幸にすることで成り立つ成功にどれほどの意味があるのだろうか?

いかなる人をも受け入れる人々の優しさこそが最も大切なのではないのだろうか。

私は、子供たちに字の上手な子になって欲しいと教えているが、助け合うことの大切さを理解できる子供に育って欲しいと願い指導している。

私は現在苦悩の中にあって、何も結論は出ていない。

優れたものを学ぼうとして飛び込んだ先には、いつも失望が待っている。しかし、そういった失望を重ねながら真理に近づいている感じを得ているのも事実である。真理が、私の数々のコンプレックスを取り除いているのだけは確かだからだ(コンプレックスを基盤としている社会に騙されてきたことにようやく気が付いてきている)。

私は、自分の心にだけは嘘をつきたくない。自分に嘘をついてまで信じることはできない。

依然わからないことだらけの状態だが、諦めないで進むのなら、きっともっと優れた世界に出会えるような気がする。生きていて、どこまで真理を見つけられるのか…

苦悩の中ゆえ、誰とも話をしたくない状態にある。とはいえ、素晴らしい時間が流れている実感はある。

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2016年02月04日

今に集中する

歴史に学ぶことは別として、後悔と恨みがうずまいている過去に心を向けるのではなく、また仕事上のプロジェクトを進めることは別として、過度な期待と不安がうずまいている未来に心を向けるのでもなく、今に集中することが、あらゆる困難を乗り越えていけるベストな生き方なのではないかと思うのです。

神様(仏様)は、過去にも存在していないし、未来にも存在していない。今にだけ存在し、今の中に永遠が存在すると思うのです。今に集中するなら、次々に課題をこなしていけるので、多くのことが出来るようになります。逆に、同時に複数のことに手を付けるやり方だと、意外と何もこなせず、返って非能率だったりします。一つのことに集中すると、何か不思議な力に繋がるのかもしれません。

さて、銀行口座の引き落としの父名義から私名義に変更する手続きと、まだお礼をしていない方への件以外は全て終了しました。昨日は、過労のために苦しくなってきたため、かかりつけの病院で点滴をしてきました。

父が亡くなってから、腰が痛いと駄々をこね全く何もしない母のことで苦しんできたわけですが、その母の車いすを引いていると、何故か強力な助け手に出会うので不思議でした。きっと、「お気の毒に、何かお力になりましょう」と思うのでしょう。いろいろと知恵を授けてくれました。そうして母の借金の件も、母の遺族年金の件も、父の死亡保険金の件も次々に解決していきました。一気に不安が無くなりました。

今日は、朝7時からやっている高松2丁目にある「おはようクリニック」に母を連れて行き、痛む腰を診てもらいました。詳しい検査結果は来週となりますが、おおよその原因と対処法が見えてきました。お医者さんも看護師さんも素敵な方で、とても優しく対応してくれたので、母はよほど安心感が得られたようで、帰宅の車内では楽しそうに話をしていました。

昨日のお稽古では、子供たちに「今に集中する」についての話をしました。その後、子供たちは素晴らしい頑張りで答えてくれて、これは小さな子供にも届きやすい話だと感じられました。



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2016年01月23日

父の死

本日、20時13分、内丸病院302号室にて、父・佐藤 勇が亡くなりました。

私はJOYFITで運動中でしたが、携帯電話をポケットに入れてやっていたので、すぐに対応できました。汗も拭かずに急いで着替え、車で自宅に戻り、腰を痛めて動けない状態の母を励ましながら車に乗せ、介護の仕事を切り上げて駆けつけてくれた妻と3人で病院に向かいました。

ぎりぎりで父の死に間に合うことが出来ました。

明日のお稽古の子供たちににその旨を電話し、1時間後に葬儀屋さんの車が来てくれて、葬儀場に遺体を運んでもらいました。新聞各紙の慶弔欄に無料で乗せてもらえるとのことなのでお願いし、通夜(26日)、火葬(27日)の日時を決めました。葬式はお寺さんの都合を聞いてからです。また、係りの方からお寺さんへのお布施の額についてのお話もありました。

ということなので、来週の滝沢教室のお稽古はお休みといたします。

30日(土)、31日(日)の盛岡教室のお稽古につきましては、後日お知らせいたします。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月22日

意識を失った父

朝食時に病院から電話が掛かってきて、母と一緒に病院に駆け付けた。妻は夜勤明けから帰ってきていなかった。

少し待たされて婦長さんから説明があった。昨夜、父が急に意識を失い呼吸困難に陥ったので、酸素マスクを着用するようになる。CT撮影をしてみたが原因が見つからなかった。主治医の説明もあるとのことだったが、外来が終わった12時半にまた来てくださいとのことだった。

母が、腰が痛いということで、妻は夜勤明けで眠いということで、私一人で医者と面談することとなった。30分ほど待たされたが、隣のベッドの奥様と話をすることが出来、父は昨日の午前中までは人と話をすることが出来るほど元気だったことを知る。

13時頃、医師と面談をすることができた。どうやら広範囲の脳梗塞の疑いがあり、片側だけではなく全身にマヒが及んでいて、そのため呼吸も困難になっているのではないかとのことだった。障害が起きた直後のCT撮影には障害の状況が映りにくいが、数日経つとはっきり映り込む場合があるので再度CT撮影を行うという。もし、最悪の場合は、人工呼吸器を用いますか。用いないで自然死を選びますかという質問も出た。また、携帯電話は、常に携帯するようにして欲しいとのことだった。

今日は仕事が休みだったので、来月、父の転院先の病院への書類群をこなそうと思っていたが、そういう状況ではなくなってきた。父の死は思ったより早くやってくるかもしれない。


待ち時間を使って、子供たちへの教育内容の見直しを考えていた。長いことやってきた国語読解力のドリル、友人と一緒に展開してきているシュタイナー教育、クリシュナムルティ教育等… 私は自分の不安を基に新しい教育システムを導入しようとしていた。しかし、浅はかなことと知る。クリシュナムルティは、自己防衛的恐怖を教え込むことは、子供たちを不幸へと導くことになると書いている。

そうなると、明るく、楽しく、元気の良いファンタジーとイマジネーションに溢れた授業を展開するしかない。まず、私の中からネガティブな思いを消し去ることから始めなくてはならない。そうでなければ、そういった授業は展開できないからだ。

子供たちが、日常の中で感じさせられている「できない」という気持ちを忘れ去ってしまうほどに、明るく、楽しく、元気の良く、まるで夢の中にいるような「いい気分」で、「幸せ」な状態にさせてあげられるか。ネガティブな言葉は一切使わない。それだけ考えてやっていこうということで方針が固まった。


ほとんど動かなくなった父の横で、そんなことを考えていたが、方針が固まったと同時に主治医の先生が私を呼びに病室に入って来たのである。





posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 20:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月18日

目を覚ましていなさい

今日は、昨日のミサの説教について書くつもりだったが、仕事が入ってしまい母だけを車で教会に送り迎えして、私はミサに出席できなかった。

とはいえ、今年の元日から教会に通い始めた母にとって、まだ友人が少なかったのだが、母を置いてきて、しかもミサが終わってから長いこと待たせてしまったのだが、一人私が車で迎えに来るのを待っていた母の周りに多くの信者さんが集まってくれて、そのことで母は多くの友人ができたようである。ある意味、母を一人で教会に行かせたことが、祝福になったように感じられた。

そこで今日の聖句は、今日の典礼ではなく、私が20代の頃には全く理解できなかったのだが、昨日、ふと理解できるようになったことについて紹介したいと思う。次の一節である。



その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして洪水が襲ってきて一人残らずさらうまで、何も気づかなかった。人が来る場合も、このようである。その時、畑に二人の男がいれば、一人は連れていかれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人が連れていかれ、もう一人は残される。だから目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである。(マタイによる福音書 24章36節〜42節)



一昨日、ティアラン著「私は宇宙人」Kindle版(電子書籍)をアマゾンから購入した。ボーっとネットサーフィンしていたら、偶然出会った本である。だから、不思議な出会いだと思えた。


作者によると、地球はすでに5次元に上昇していると言う。しかし、人間は、5次元に対応できていない。そこで、人間たちが消滅してしまわないように、地球はシールド・保護膜のようなものに覆われている状態にあるのだと言う。

しかし、その状態にもタイムリミットがある。ある時点で、人類はアセンションしなくてはならなくなるのだ。聖書で言う「主の日」なのかもしれない。アセンションとは、今の肉体を維持しながら次元上昇することなのだという。

そして、アセンションの日まで時間も残り少ない(2016年にアセンションの時がやってくるという人もいるらしい)。そこで、やれることは一つ。「愛」の度数を高めることなのである。

アセンションするということは、愛の度数の高い者が地球に残り、5次元に対応できない愛の度数の低い者は、3次元惑星に瞬間移動する(地球上から消える)という意味らしい。

作者によると、アセンション後は無駄に死ななくなるので輪廻転生はなくなると言う。つまり輪廻転生があるということを書いてはいる。私は、特別な場合を除いては、輪廻転生とは無意味なものという印象を持っている。決して魂の進化でも何でもない。キリストの言う、過去に生きるのでもなく、先走って未来に生きるのでもなく。今に永遠を感じて生きることが最も大切なことなのではないだろうか。

そして、今に永遠を感じられる魂の方向性により、「愛」の度数を高めることに全力で取り組むことができ、アセンション(主の日)に備えることができるのである。

今年は、騙されたと思ってこのことに全力で取り組んでみたいと思う。もしアセンションが起こらなかったとしても、「愛」の度数を上げることで、より優れた人間になれることだけは確かなので損なことは何もないのである。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月11日

2016年1月10日 主日ミサでの学び

主の洗礼 ルカ 3:15-16, 21-22


3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、

3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。






先週までの典礼はクリスマスの祝いでしたが、今週からの典礼は年間へと切り替わります。

ところで皆さん水族館はお好きですか。葛西臨海公園の水族館には、巨大な水槽があり、マグロを回遊させています。ところが、ご存じでしょうが、そのマグロがどんどん死んでいき、ついに1匹だけになってしまったのだそうです。その原因は、ガラスに激突したことによるものなそうです。

その話は取っておいて、クリスマスのお話をします。ある所に、絶対に神様を信じない頑固なおじさんがいました。特に、神が人になるというところが全く理解できなかったそうです。おじさんの家には大きなガラス窓があり、そこに鳥が激突しては死んでしまうことが多かったのです。おじさんは、死んだ鳥たちがかわいそうになり、何とかならないものかと考えました。おじさんは、鳥になって考えて見ました。鳥になって、どうしてガラスに激突しなければならなかったのか考えて見たのです。その時、おじさんは普段疑問に思ってきたことがふと理解できるようになったのです。私が鳥になって考えるように、神様は、苦しみ悶えている人間たちがかわいそうになり、人となって救おうとしているのではないだろうか。

神は、人となり、罪びとの仲間となり、謙虚な僕となられたのでした。人間と同じ姿になって洗礼を受けたのです。私たちを引き上げるために、こんなにもへりくだってくださったのです。そこに神の愛があります。

神が私たちに望まれていることは、私たちが同じようにへりくだり、人々に奉仕し、人々を引き上げる者になって欲しいということです。そしてキリスト様に呼びかけられたように、私たちにも「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と絶えず呼びかけ続けられているのです。

第二朗読に、恵みという言葉が数か所出てきます。この恵みとはギブ・アンド・テイクなものではありません。善い行いに対する報いというのではなく、無償で与えてくれるという意味なのです。つまり無代価の賜物なのです。神が人となって救ってくれた、その素晴らしい恵みに対し「ありがとう」と感謝の気持ちを感じられる感性を持ちたいものです。神の慈しみを感じ、神のように憐れみ深くありたいものです。




いくつか聞き逃した箇所もあり、関谷神父様には申し訳ありませんが、上記の内容が、私が神父様から受け取ったメッセージです。関谷神父は、歌手で俳優の福山雅治のようなハンサムな風貌で、話し方もとてもハンサム、そして歌声が素晴らしい美声で、声楽を専門としてきた私としては歌声で神父様に負けたと思ったことはほとんどなかったのですが、今日は全くかなわないと思い、ただ聴き惚れておりました。イケメンに弱い母は、右側の席に座っていたため、関谷神父から祝福が受けられなかったのですが、左側に座るべきだったと、かなり残念がっていました。

へりくだる信仰、つまりは神の愛について教えていただいたと思います。神の側の人は、いかに良い習慣、良い信仰に生きていたとしても、お高く留まってはいけない。自分は無代価によって許されたものであるのだから、神の望みに生きるために、神の愛に習い、へりくだり人々のために奉仕する生き方をするべきなのだと感じました。

神は世の成功は全く認めてはくれません。そうではなく、いかに人々のために自らをへりくだらせて奉仕したかを見て認めてくださいます。クリスチャンは、そこのところを大切に生きるべきなのだと思うのです。

今年から、日曜日は母と教会のミサに出席しています。今日はミサ後のブロックの集いにも参加しました。教会の人たちに本当に親切にしていただき、母は幸せを感じられているようです。教会の床はピカピカ、とても綺麗に維持されています。奉仕している信者さんたちの心がそこに感じられてなりません。私は、両親の介護もあり、時間に全くゆとりが持てないゆえ教会の奉仕活動になかなか参加できません。しかしその分、感謝の気持ちをもって信者さんたちと接していきたいと思います。



ねこカフェは、いつの間にかクリスチャンカフェになってきたようです。どうぞ、コーヒーを飲みながら、ゆっくりしていってくださいね。もちろん、ねこもいますよ。出てくるのは気まぐれですが… まあ、記事を書いている者も、くつろいでいる時はねこと変わりないですが…



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

2016年1月3日 主日ミサでの学び

主の公現 マタイ 2:1-12


2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。




 ある有名な画家が、描くための着想を得ようと、妻子を家に残し旅に出ました。
 旅先で、最初に出会ったのは、結婚式を控えている娘でした。画家は彼女に、「あなたにとって一番大切なのは何ですか」と尋ねました。彼女は「愛です」と答えました。画家は、愛をどのように描いたら良いものかと自問しながら旅を続けました。
 次に、出会ったのは兵士でした。彼にも、「あなたにとって一番大切なのは何ですか」と尋ねました。すると「平和です」と答えが返ってきました。画家は、平和をどのように描いたら良いものかと自問しながら旅を続けました。
 三番目に、神殿で一人の信者に出会いました。彼にも、「あなたにとって一番大切なのは何ですか」と尋ねました。かれは、「信仰です」と答えました。画家は、信仰をどのように描いたら良いものかと自問ししながら旅を続けました。
 画家はキャンバスに何を描くべきか一生懸命に自問したのですが答えが出ず、自分の家に帰ってきました。
 すると、妻が溢れるばかりの優しさと愛情を持って出迎えてくれました。家の中には、旅の疲れを忘れさせてくれる安心感が漂っていました。そこに、子供たちが集まってきました。彼らの清らかな目に映っていたのは信仰の輝きでした。
 画家は、描くべき題材は全て家庭の中にあったのだと気が付きました。

 マタイによる福音2章11節には、「家に入ってみると」と書いてあります。その場所は、家ではなく、汚く悪臭のする家畜小屋であった筈です。幼子イエスとマリア様とヨセフ様、つまり聖家族がそこにいます。そこは、大切にしなければならないことの全てが揃っているのです。
 家とあえて表現しているのは、すべてのことが家庭にある。家族こそが教会であり、信仰・希望・愛の共同体なのだということなのです。
 そして、外へ出ていくのではなく、自分の内に戻ること。そこに、必要なもののすべてがあるのだということをこの聖句では示しているのです。
 この教会の中に、信仰・希望・愛があります。そして、あなたの家庭の中に、信仰・希望・愛があります。教会という共同体を、そして家庭という小さな共同体を大切にすることが、私たちが歩むべき聖なる道なのです。
(盛岡四ツ家教会 司祭:インセン神父)


 いくつか聞き逃した箇所もあり、インセン神父様には申し訳ありませんが、上記の内容が、私が神父様から受け取ったメッセージです。

 1月1日の元日ミサに続いて、歩行困難な母と共にミサに預かりました。暴力の人である父はキリスト教を極端に嫌い私も随分酷い目に遭いました。または母は父方の親戚に随分いじめられてきました。昨年、その父も重病に倒れ、入院、転院、強制退院、入院、転院と何かと大変でした。今は、手足を縛られ多臓器不全のため完全寝たきり状態ですが、ある意味、そのことで我が家に平和が訪れるようになりました。
 沿岸に住む母方の親戚は、約4時間もかけて父の見舞いに来てくれましたが、父方の親戚は誰一人見舞いに来ませんでした。お互いに憎しみ合っているからです。要注意人物として、一人孤独で寝ている父は、誰からも声を掛けられずに認知症が進行し、どんどん言葉を失っています。昨年末、母が「クリスチャンになりたい」と言いました。父と歩んできたことで、人間関係が薄い母は、自分もこんなになるのではないかという不安に陥ったのだと思います。そこで、私は母に協力しようと教会に戻る決心をしました。書道塾の子供たちを説得して、日曜日の午前中は主日ミサに通える時間を確保しました。神父様にも、母の洗礼の件で相談をしました。

 私は、ここ数年、シュタイナー教育の研究をしていました。シュタイナーからさらに枝葉を広げて、頭の中がパンクしそうな程に大量の本を買っては読み漁りました。そのことで、書道塾の子供たちへの教育で良い方向性を得ることができましたが、教会はどんどん遠のいていきました。

 私が母を連れて教会に戻ると、実に多くの人が暖かく迎え入れてくれました。今日、インセン神父がご説教の中で仰っていたように、教会の中は、信仰、希望、愛に満ち溢れていました。外に探して見つからなかったことが、帰ってから見つけられたという意味が分かったような気がしました。




posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 14:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月04日

真理も悟りも

真理も悟りも天国の門に辿り着くまでは大変重要なものである。しかし、天国の門をくぐった後は、この世でのことは一切口にできない(「語ってはいけない」)のである。しかも、全て一から学び直さなくてはならない。それは平安な世界における、幸せな学びなのである。そして、この世での価値観が不要なものであることを悟り、完全に忘れ去ってしまった時には、私たちは天国の住人となっているのである。

では、天国の門に辿り着くための真理や悟りとは何か?

「自分が」という生き方(自己愛)ではなく、「苦しんでいる他者のため」(他者愛)に働くことである。東日本大震災の大津波で、高台に逃げて命が助かった人についてイメージしてもらいたい。「自分が」と考える人は、失ったものに心が捕らわれ悲しみに押しつぶされてしかめっ面でいるしかなく、中には自殺してしまう者もいた。しかし、「苦しんでいる他者のため」に働いている人は、彼と同じようにすべてを失っているにもかかわらず、笑顔を絶やさずにいられたのである。後者のような行動に移せる人は、天国の門に辿り着くために必要な真理と悟りをすでに獲得しているのである。

この世での楽しみを追求することは決して悪いことではない。人は元気でないと、良い生き方ができないからだ。ただ、こういったことは天国には持って行けないことを心のどこかで感じている必要があるということである。そして「苦しんでいる他者」を見つけたら、日頃培ってきた元気でもって、その人を励ますことに積極的であるべきなのだ。これは、イエス・キリストが語っている「最も重要な掟(愛の掟)」そのものなのである。

さて、もう一つ天国に行くために大切なことは、しっかりと秘密を守れることである。その人に「言うな」と言われたら、周りから言えとせがまれてもしっかりと口を閉ざし、言わないで通すことができなくてはならないのだ。「語らない練習」をすることも、この世での修業の重要なテーマといえるからだ。

私がこのようなことを言うのは、「刈り入れ(神の裁き)の時」が近づいているからである。輪廻転生(生まれ変わり)の考え方は私も正しいものと受け止めてはいるが、「刈り入れの時」というのが引っかかってならないのである。わからない概念に対し、無理に正しいと決めつけることこそ間違っていると言うしかないが、上記のような考え方(解脱論)も心のどこかにしまっておいて欲しいと勧めているのである。その程度に受け止めることで十分であり、それ以上でもそれ以下のものでもなく、これまでの日常を脅かす価値観など存在しないのである。

この言葉の薬は、静かに穏やかに効くもので、いつの間にか強い人へと変える効力を持っているのである。


つまり、元気が大事なことを言いたいのである。世界的人気プロレスラーのアントニオ猪木氏が、「元気ですか!!! 元気があれば何でもできる」と仰っている。世界を舞台に大活躍した元男子プロテニス選手の松岡修造氏もまさに元気の人である。「できる! できる! 君ならできる!」私も彼のメッセージに励まされている者の一人である。「苦しんでいる他者のため」(他者愛)に生きるには、とにかく元気が必要。元気を養わなくてはいけない。繰り返し述べることになるが、楽しみを追求することは決して悪ではないのである。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月31日

必ずできる

当塾でお預かりしたお子さんには、全員に良くなることの素晴らしさを実感してもらおうと思っている。

書道の得意で、すぐに上達する子もいるけど、

書道が苦手で、なかなか上達しない子こそが、将来有望な子なのだと考えている。

また書道が得意だったはずなのにスランプに陥って悩んでいる子も、将来有望な子なのだと考えている。

苦手を克服することは、教わる側も教える側も大変なことだけど、苦手を得意に変えられたなら、これからどんな厳しい試練に会おうとも、「きっとできる」と考えることができるだろう。苦手克服は、一生役立つ素晴らしい財産と言えるのだ。

人生良いことばかりではない。これからの人生、どんな厳しい試練に出会うかわからない。

得意なことばかりやっていると、壁にぶつかった時、「自分には才能が無い」と諦めてしまいやすいのだ。

そういう意味で、当塾でのシュタイナー教育は、どちらかというと書道の苦手な子に大きな効果が出ている実感がある(もちろん、できる子には、厳しい壁〈試練〉を与えることで効果を上げようと考えている)。

空間認識能力に劣る子、加減の全くわからないような子には、シュタイナーの線描(ひたすら直線を引くワーク)が、その子の芸術性の扉を開くきっかけを作るようである。

当塾は、本格的なシュタイナー学校ではないので、徹底したシュタイナー教育は展開できない。とはいえ、子供の能力開花やスランプ脱出のためにシュタイナー教育を役立てることは可能なのである。だから、シュタイナー漬けになっている子もいれば、数か月に一度しかシュタイナー教育を受けるチャンスを得ていない子もいる状態である。

教えている側としては、それが特別なお稽古ではないとしても、いつもシュタイナー教育を念頭に入れて教えているのだ。特に、お稽古の後には、必ず「教育ノート」を付けているのだが、これを書きながら、シュタイナー教育の視点から分析して、次回のお稽古の方向性を決めているのである。

お預かりしたお子さん全員が、どんな厳しい試練に出会っても「必ずできる」と考えられる人間へと育てていきたいと思うのだ。




恵翠書院 盛岡教室

恵翠書院 滝沢教室


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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