確かに、3年以上のトレーニングを積むことで、優れた瞑想ができるようになるかもしれません。
そのことで、健康を取り戻し、安定した精神を養えるかもしれません。
しかし、優れた精神を築いた人と、まだトレーニングする前の人とに、優劣が生じるとは思えないのです。
私は、悟りなんて、たいしたものではないと考えています。その場、その場ではとても必要なものでも、古くなるとウジが湧き悪臭を放つようなものと同じで、使い終えたら片っ端から捨て去るべきものであるとさえ思います。
大怪我をして、身体の自由を失っている人が、身体の自由を取り戻すために、猛烈なリハビリをするのとも似ています。
つまり、あくまで自分のためなんです。
私の尊敬する歌の先生のマネージャーさんは、多分、本人は意識しないで話されていることだとは思うのですが、私が何かを克服した話をしてもあまり褒めてくれないのに、人を喜ばせたという話となると、とても褒めてくださいます。そのことがふと心をよぎりました。
誰かに喜んでもらうこと…
できる人、できない人、悟れる人、悟れない人。常識的な人、変人といえる人…
みーんな仲間と考えて、とにかく出会う人に喜んでもらうことをしよう。
そっちのチャンネルも必要なのではないかと思いました。
残念ながら、どんなに努力しても、喜んでくれる人ばかりとは限らない。妬みひがみから、敵意を振りかざしてくる人もいることだろう。その場合、マイナスの方向に引っ張られないように注意して、明るい気持ちをキープしたい。
私は、歌うことで人を喜ばせられるかもしれない。書道や勉強を教えることを通して、子どもたちを喜ばせられるかもしれない。
自分の名誉のためではなく、みんなの幸せのために…
瞑想の方は、自分の心と身体の健康のために、これからも続けようと思います。
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