今日は、朝起きるとノートパソコンのキーボードのキーの一つが取れていました。
修理業者のMr.コンセントさんに診てもらったところ、キーボードごとの交換になるとのことで、1万2千円ほど掛かるのだそうです。ちょっと痛い出費になりそうです。
もっと痛かったのは、せっかく作った教材の音質が悪いことで、原因は、今年1月に買ったWカセット CDラジカセの性能にありました。購入したケーズデンキさんの修理コーナーの店員さんに尋ねたとこ ろ、スピーカーから音を再生した状態で録音をとると酷いノイズがはいるので、ヘッドフォンを付けて作業をした方が良いとのことでした。
帰ってきてやってみたのですが、やはり本格的なオーディオ機器でないと良い音は期待できないことがわかりました。
CD-Rに焼いた教材は、再生機によっては再生できないものがあり断念。カセットは手軽でお年寄りでも使い やすいのですが、メーカも作らなくなっていて、家庭用の機種では酷い性能のものしか売っていないようです。テープも以前のようなクロームやメタルはなく、ノーマルテープのみ。ドルビー機能も無 くなりました。しかも、カセットはダビングに時間が掛かり、生産性が良くありません。
そこで、今はやりのデジタルオーディオプレーヤーでやろうと思っているのですが、これから購入して使い方を覚えなくてはならない状態で、年内に教材として販売することは難しいものがあります。 これなら、生産性は、格段に向上できることでしょう。ただ、お年寄りには、使いこなすことは難し いように思います。
ということで、時間を掛けて作成した教材の品質を上げるために、設備投資をしなくてはならない事態となり、頭が痛いです。
しかも、今朝のしろねこの家庭は修羅場でした。妻が、「しろねこの仕事に夢も希望も持てない」と言い出したからです。
しろねこが確信していることは、「心に夢しか実現しない」ということです。明確な目標が、成功を 現実のものにするのだと思います。心に美しいイメージがなくては、美しい絵は描けません。歌を歌 う時においても、イメージにしたがって歌っているので、良いイメージが持てないと良い歌は歌えません。逆に、「失敗のイメージ」を描くことは、失敗を確実にするための愚かな考え方なのだと思うのです。
ただ、金欠状態が長く続くと、逃げ出したくなるのは当然なのだと思います。良いイメージが湧かなくなってしまうのも、わからないわけではありません。
ノーベル賞を2度も受賞(ノーベル物理学賞とノーベル化学賞)したキューリー婦人は、実験(ラジウムとポロニウムの精製、発見)を成功させるために、気の遠くなる年月、失敗の連続だったわけで す。大学側も、あきれて雨漏りのするような実験室しか提供してくれませんでした。つまり、成功と は、「成功するまで失敗し続ける勇気」のある者だけが得られるものではないかと思うのです。
生活が苦しいから、一旦中断して、資金を得るために仕事をする。その考え方も悪くないとは思います。しかし、研究へのモチベーションが切れてしまう恐れは否めません。生活は厳しい状態にありますが、幸い、全くお金に困っているわけではありません。踏ん張ろうと思えば踏ん張れる筈なのですが …
今月20日に長い歴史の幕を閉じた、東池袋のつけ麺・ラーメンの『大将軒』の最後の日をテレビで見ました。お弟子さんたちは、1ヵ月3万円の小遣いのみで、集団で生活していた様子が紹介されていました。 一見貧しい生活です。でも、彼らは、日本一のラーメン職人の技術を得て、それぞれに素晴らしい夢があるのです。オペラ「ラ・ボエーム」で描かれている、屋根裏で暮らす青年達のようです。家賃もろくに払えない彼らは、実際のお金は無くても心の中ではすでに大金持ちだったのです。
しろねこは、長いこと肉体労働をやってきました。全身埃まみれ、油まみれ、傷だらけになって働いていました。でも、未来に「明確な目標」が無く、家に帰るとテレビを付けて酒を飲み寝るだけの生活が続きました。近所の人からも軽蔑の眼差しを受け、知らず知らずのうちに、自分の価値が下がっていく感覚を受けました。そこで、思い切って退職し、夢のの持てる人生を切り開いていこうと決意したのです。退職した当時、パソコンはおろかワープロすら触ったことがありませんでした。FAXも使ったことも無く、携帯電話でメールを打つことすらできませんでした。
24日の記事に書いた汚いしろねこは、私たちに、ひたすらに生きることの大切さを教えてくれました 。神様が、生きなさいと言われている限り、生き続けているのです。神は、より小さきもの、より貧 しきものを愛されると聖書にも書いていますから、あのねこは、神々しいほどに神の祝福に生きているねこなのだと思いました。
しかし、人間は、身勝手なもので、生きるのが辛いからと死のうと考えます。死ぬまで考えなくても、 逃げ出そうとする。これは、のらねこにも劣る考え方なのだと思います。本当に食べていけなくなったなら、その時考えればいいのです。
今は見えなくても、その時になれば最善の解決策が見えてくるものです。本当は、大丈夫なのに、神様の愛を無視して不安に駆られてしまうのです。「あの、しろねこのひたむきさを合言葉に頑張ろう」ということで、どうにか修羅場は 神の祝福へと変わっていきました。
もう一つ、しろねこの親と彼女との問題もほぼ解決できました。「常識」とは、親が子を縛ろうとする呪いの言葉。「常識」とは、会社が社員を縛ろうとする呪いの言葉。「常識」なんて、所が変われば「非常識」なのだから…
だから、「基本」を大切にしても、「常識」などに振り回されない。そういったことも確認し合うことができました。
タイトルは、「散々な日」と書きましたが、今日は「祝福の日」だったのかもしれません。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:58|
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