2008年07月28日

向かい合えない問題(解決編)

現在、東京で呼吸法&発声法を学んでいます。

その先生は、歌手として最高のスキルを持っている方ですが、人間としても(超越した面がありますが…)とても尊敬できる方です。

歌手としては、天性の部分が大きいので、先生には、わずかしか近づけないように思います。人間としても… 先生ほど神との深い交流はできないかもしれません。

でも、先生との交流を通して、神の側で考え、多くの人に幸せへの気づきを与えられる人間になれるかもしれないと考えています。

先日、その先生から、謝ることの大切さを教わりました。

そして、数日後、実践してみました。

謝ることで、その方と和解ができたばかりではなく、真実が見えてきて、お互いに良い方向性を得られたように思います。とても感動的な時間でした。

先生に示された、素晴らしき人生のビジョン。それを生きていくためには、人間関係のトラブルなんかで落ち込んでなんていられません。衝突したなら、謝ること。そのことで解決が早まり、時間を止めずに済むというのです。

謝ると、真実が見えてきます。お互いの理解が深まります。

ただ、

自動車事故を起こすと、保険屋さんは、こう言うと思います。

保険屋に任せて、相手方には、絶対に謝らないでください。自動車事故では、謝った方が不利になりますから。

こんなこともあり、大人になると、謝ることができなくなってしまいます。

謝ることは、本当に不利なことなのでしょうか。

確かに、時と場合によるのかもしれません。

でも、謝ることで、素晴らしい奇跡が起こることは事実なようです。

トラブルに巻き込まれて、熱くなってしまった時は、

心を静めるために、静かな場所で瞑想をして、

良い判断が得られるようでありたいものです。





その後、私が謝ったことで、その方の良い行動を引き出せたようです。そのことで、こじれていた他の方との人間関係も修復されたとのこと。良い連鎖反応が起こったことになります。

謝ることって、自分と相手の問題の解決にとどまらず、さらに良い影響が周りに広がっていくようです。

素晴らしい体験へと導いてくださった先生に感謝!

来月は、その先生の誕生日の日がレッスン日となりました。先生の教えをしっかり行動に移して良い証を築きたいと思います。(7月29日記)


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 04:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月24日

強い地震

24日午前0時26分ごろ、洋野町で震度6強、八戸市などで震度6弱を観測する強い地震がありました。しろねこの住む盛岡では震度5弱でした。

すごい揺れではありましたが、特別被害は出ていません。

今日の夜は、レッスンを受けに東京に行く予定なのですが、夜行バスに影響は出ていないとのことを確認し、ホッとしています。

震度6を超える地域の方々に大きな被害が出ないことを祈ります。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 08:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月23日

向かい合えない問題

私は、責任感の強い方なので…

というより、40代の人間の多くはそういう考え方に陥りやすいのだと思います。

20代だったら、周りも未熟者と見ていることもあり、責任に対して、そんなにプレッシャーを感じることはなかったように思います。

しかし、40代にもなると、

この問題は、何が何でも責任を持ってこなそう。この問題も…

そうやっていくつも問題を抱えてしまうので、いずれ限界がきてしまい、

いつもなら逃げずに対処できるはずの問題に向かい合うことができなくなってしまい、思いもしない敵を作ってしまうことってあります。

最近、そういうことがあって、不本意ながら、これまでお世話になった教会を離れなくてはならない事態となりました。特に、生きたキリスト様を見せてくださる、素敵な神父様の教えが受けられなくなることは一生の不覚ともいえることです。

ただ、その問題のことで悩みを深めて、他の責任をないがしろにはできません。

心にゆとりがあったなら、何でもない問題であるだけに残念なことではあります。

こういうことが二度とないようにするためには、生活基盤が安定してきたなら、あまり多くのことに手を染めずに、ゆとりのあるシンプルライフを心掛けたいと思います。そして、もっと大人な考え方、強い精神を築きたいです。

今回、向かい合えない問題が出てきたことは、反省すべきことではありますが、ことのこで、ある意味で、これまで以上に、ニュートラルな立場で物事を考えられるようになれたように思います。

そして、問題に向かい合えない人に出会ったとき、向かい合えないことを「大人げない」などと責めたりするのではなく、「それは無理をしているバロメーターだから、もっと自分の本音に向かい合って、無理をしないことを考えよう」と話してあげられるような気がします。

最近、頭がパニックして、やたら物を見失います。探し物ばかりします。こういった自信喪失が積み重なっていくと、うつ病が悪化していくわけです。

これからは、シンプルに生きるぞ!

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 10:55| Comment(3) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月15日

学びの時

この7月。しろねこは、人生にまたとないような、素晴らしい学びの時を得ています。

逃したくないチャンスゆえ、しばし記事を書くことはお休みにして、良く学び、学びを実践に移せるよう自分を鍛えています。

また、皆さんに元気でお会いできることを楽しみにしております (=^・^=)ノ
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月13日

スピリチュアルなセンスを磨きたい

最近では、テレビのコンセントを抜いて、もっぱらラジオを楽しむようになりました。

テレビを見るのをやめたら、急に時間が増えた感じがします。

さて、最近の記事を見た方は、そこに厳しさのようなものを感じられるかもしれません。

引いてしまった方もいるかもしれません。

わたしたち夫婦は現在を修行期間と考えて、規則正しい生活をするようになりました。

その効果はてきめんで、夫婦のみならず、一緒に暮らしている私の両親ともいい関係が築けるようになってきたので不思議です。

さて、

これから、どんなに苦しみの時代となろうとも、人生を最後まで生き抜いていくために、「強靭な体力」と、「強靭な信仰」を得られるよう鍛えていきたいと思います。

私は、

今まで、理屈に走ってばかりで頭でっかちになっていました。

肉体を鍛えることを軽視して健康を害し…

理屈はだけは進化しているのに、実際の信仰はまったく付いていってませんでした。

ある時は、あまりに周りに左右されすぎました。

ある時は、あまりに独りよがりすぎました。



そうして時が過ぎ、

あまりに世の価値観に妥協しすぎたように思います。

いつの間にか、どんどん自分を失っていました。

本当は自分を失っているのに、理屈だけは雄弁に語れる自分がそこにありました。

理屈で身を固め、愚かな自分を必死に守ろうとしている自分にうんざりしてきました。

それが、どんなに美しい言葉であっても、輝きに欠いてはいないだろうか。

これでは、若い頃、自分が軽蔑していたおじさんの姿ではないだろうか。


その問題の信仰なのですが、いかなる神を信ずるか。

私は、神という存在を信じることについては、そんなに苦労してはきませんでした。父親譲りの無信仰は基盤にありつつも、神を信じることに、それほど抵抗を感じなかったように思います。ある意味で、守られてきたのかもしれません。

ただ、今の時点では、その神を特定の宗教に限定することができないでいます。

正直言って、

「わからない」

もちろん、わからないからこそ信じるのだけど…

わからないからこそ、信じることは美しいのだけど…

とは言え、

まだまだ、自分は神と親しく交わっていないのだと感じています。

最近、神と親しく交わっている方に出会う幸運を得ています。

その方は、特定の宗教に属してはいないとのこと。それなのに、スピリチュアルなセンスがずば抜けていると感じられました。

考えた末、

しばらくは宗教と言う色めがね抜きで、その先生のように神の導きが得られたらと考えています。

信仰といっても、特定の信仰ではなく、ひたすら神に心を寄せる時間を多く持とうと思います。

もし、そこで、キリストこそが真実の神という実感が強まっていったのなら、聖書における最大の宣教者パウロのように、迷いのない信仰者になれるように思うのです。

なので、キリストにもブッダにも、今までどおりに学んでいきたいと思います。

その先生のご指導にもあるように、

何よりも、最も基本的なこととして、父母を敬える人間になりたいです。

そこが私の弱点でもあるのですから。

小さなことにも誠実でありたいです。

もう一人。今、学ばせていただいている、その行いでキリスト様を見せてくださる神父様のように、目の輝いた魅力的な人間になりたいです。

スピリチュアルなセンスを磨いていき、出会う人に良い影響を与えられたら何と素晴らしいのでしょう。

私の信仰とは、今までのような理屈的なものではなく、つまりは、雄弁に語ることのできぬものに変わりつつあるようです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 10:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月11日

4つの禁句

疲れた

 「疲れた」と口にすると、自分のモチベーションを大きく失ってしまうばかりではなく、その言葉を聞いた周りの人のモチベーションまでも失わせてしまう。この言葉が癖になると、ついには、何も頑張らなくても「疲れた」という言葉が出てくるようになってしまう。「疲れた」ではなく、「つい頑張りすぎた」と言うか、又はぐっと忍耐して話さないようにする。時々、瞑想(イメージング)をして、神からのエネルギー蓄えることを忘れないようにしたい。


忙しい

 相手方も決して暇ではないはず。自分だけが忙しいと思うのは利己的で高慢な態度。皆が「忙しい」と言い始めたなら、お人好しの誰かに仕事を押付けることになり、歪な人間関係となってしまう。カッコ付けずに、「できる」「できない」とだけ言うようにする。「どうしてできないの」と問われたら、「ごめんなさい」と一言。誠意を込めて笑顔で答えるようにしたい。ただ、神の導きを強く感じることなら、多少無理してでも「お手伝いさせていただきたい」という気持ちで取り組みたい。


かわいそう

 同情は、決して相手のためにはならない。むしろその逆。相手をダメにする行為であるばかりか、自分の心にも甘えが入ってくる。かわいそうに見えるようなことであっても、神が与えた、その人が乗り超えなければならない重要な課題なのだと考える。その人への重要な神の導きを遮ってはならない。むしろ、その課題を避けずに向かい合えるよう、相手のために念じながら、神から受けた勇気のオーラを送ってあげるようでありたい。


うらやましい

 私の場合は、この言葉は克服できているように思う。労をせずに、良いものを得ようなどという甘ったれた考え方は子供じみていると思えるようになったからだ。全き善の神がえこひいきをするとは考えられない。確かに労せずに良い物を得ている人がいるかもしれない。しかし、そのことで後に苦しむわけなのだから。「楽あれば、苦あり」は、まさに真理だと思う。しかし、「苦あれば、楽あり」の方は、苦に学び、苦を生かしてこそ、なのだと思う。



 私にとって、この「4つの禁句」は、まだまだ修行中の段階ではあります。でも、こうして書くことで… 時々、一人何度も繰り返し言葉にすることで、自分に定着させようと努力しています。きっと、この禁句が口から出なくなった頃、明るい未来が開けているような気がしてなりません。

 うっかり禁句が出てしまったなら。すぐに手帳に記録。自覚することで、そこで食い止めるようにするのです。手帳に、いっぱい書かれていたとしても、それは恥ずかしい証ではなく、闘っている証と受け止めたいと思います。そして、勇敢に闘っている自分を褒めてあげるようにしたいです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月06日

素晴しい導き

まず、第一朗読のゼカリヤの予言から見てみましょう。

「彼は、神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。」(ゼカリヤ書 9章より)

勝利を与えられた者なのにかかわらず、謙遜に神に従う姿。そういう私(イエス・キリスト)に学びなさい。

では、今日の福音朗読を見てみましょう。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。私の軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイによる福音 11章28〜30節)

軛とは、2頭の牛に繋いで土を耕すための道具です。伝統的に、結婚の象徴として用いられています。

ラテン語で、コン・ジュヘといい、コンは一緒に。ジュヘは軛(くびき)という意味です。

これは、力を合わせて一緒に歩きなさいという意味です。力を合わせて一緒に神から与えられた仕事をしなさいという意味です。そして、いつも主と共に歩きなさいという意味なのです。

片方はあなた。片方は奥さんまたは旦那さん。仕事を与えてくれるのは神。聖書を通し、その仕事における良い手本を示してくれているのはイエス・キリストなのです。

そうして歩んでいくのなら、辛いはずの仕事が、いつの間にか楽になっていき、安らぎを感じられるようになっていく。そして、軛の重さも感じられなくなっていくことでしょう。

疲れていて、重荷を背負っていると感じられる人は、神の導きに従った生き方に変えなさいということなのです。

そして、これは大切な点です。

神の導きとは何か。

「私に学びなさい。」という聖句。つまり、イエス・キリストと同じ姿を見せなさいということです。

皆さんの生きる姿を通して、キリストを知らない人たちに、イエス・キリストの姿。見えない神の姿をを見せるようでありなさい。これが最も尊い生き方といえるのです。



上記は、今日のミゲル神父の説教をメモしたものです。午前中に、妻と激しい喧嘩をしてしまい、ついには奇声を上げ、かつ酷い罵声を浴びせあったので、お互いに凹んでしまいました。そういった暗い気分を払拭しようと、14時からのミサに足を運んでみました。それが、何と夫婦への祝福といった内容だったので、神の導きを感じずにいられませんでした。

最近、東京で心から尊敬できる素晴しい先生から、歌の呼吸法を兼ねてレッスンを受けているのですが、私は左側のパワーがとどこおっていて、これは父親との関係。父親の血筋の問題を背負っているという意味なのだと教えてもらいました。喧嘩をして気づいたのですが、妻は私の父親との類似点が非常に多いことがわかりました。やはり、意味があってこの人と結ばれているんだなと感じられました。

そういえば、わたしの知人が、可愛らしい女性と結婚をしたのですが、二人の性格が合わなかったとのことで、数年後に離婚をしてしまいました。それから少しして、前の奥さんとはイメージの違った女性と結婚したのですが、結婚したら前の奥さんと性格がほどんど変わらないということを知り、今度はスピード離婚。そして最近、三度目の結婚をしたのですが、また同じような性格の女性であることがわかり愕然としたと言っていました。

そういえば以前聞いた話ですが、ある女性が、夫のDV(ドメスティック・バイオレンス)に苦しみ離婚し、心が優しいと思えた男性と再婚したのに、その夫でもDVで苦しみ、ついに離婚をしたという話を聞いたことがあります。

つまり、逃れれない何かがあるようです。それなら、そういった宿命から逃げるのではなく、与えられたその課題に全力で取り組んで克服した方が、自分のためにも、同じ絆を持つ人たちのためにもなるのかもしれません。私たちは、そういった使命を神から受けて生まれてきているのかもしれません。

以前、ミゲル神父から、「離婚は絶対にしてはいけないということではありませんが、離婚をすると力が弱くなる」とおっしゃっていました。力が弱くなるというのは、神様の導きを拒んだ状態なので、神の導きが弱くなるという意味なのではないかと推測しています(ということは、縒りを戻したり、再婚するなどして、与えられた試練を取り戻せば良いということなのだろうか?)。

神様の導きとは、いつも幸せいっぱいのことばかりではありません。私たちの心の成長のために、辛い試練(とはいえ、喜びを持って受け止めたい)もお与えになることもあるのです。

ミゲル神父と触れ合っていると、本物のイエス様と触れ合っているような気持ちになります(イエス様を彷彿させるような容姿の持ち主でもあります)。そして神父様は、身を持って素晴しい手本を示されています。説教のみならず、普段の行いにおいても、清らかで美しい心が感じられます。

もちろん、ミゲル神父様は素晴らしい方と憧れの気持ちを持つこともできますが、大切なことは、ミゲル神父様に習い、自分も同じように手本を示せる者となることなんだと、新たな決意の気持ちを持つことができました。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天使の波動

昨日の朝のサイクリング中、妻と激しい口論となった。

話すと話すほど、お互いの話がどんどんすれ違っていく…

そんな時、黒猫と出合った。

はじめは塀の上にいたのだが、私たちが関心を寄せると、塀から降りてきてなついてきた。

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特に、私の携帯電話の黄色のストラップが気に入ったらしく、楽しそうにじゃれていた。

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すると、他の猫たちも、やってきて、トラ猫ともコミュニケーションを取ることができた。

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トラねこは、私が持ってきた削り節を喜んで食べてくれたが、黒ちゃんは餌にはいっさい興味が無くて、私たちと触れ合うことを喜んでいるようだった。

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30分ほど猫たちと遊ぶことが出来た。

すると、お互いの心が明るくなっていた。

二人の顔に笑顔が取り戻った。


猫と触れ合って、ふと感じたのだが、

彼らには、不安や悩みがないため、とても良い波動がでていて、それで癒されたように思った。

これって、カウンセリングやヒーリングにも通じることなのかもしれない。

人を癒すこと…

カウンセラーやヒーラーのテクニックももちろん重要なことではある。

しかし、そんな知識が無くとも、猫ちゃんたちのように、不安や悩みの波動を出さずに「天使の波動」で、触れ合う人を癒すことが可能であることを知ることができた。

「天使の波動」

素晴らしいヒントが得られたように思えてならない。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:23| Comment(3) | TrackBack(0) | ねこ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月03日

決意すると…

良くなろうと決意をすると、すぐ神からのためしを受ける。

不思議にも、自分が最も断ち切りたい誘惑が次々に襲ってくるのだ。

決意する前は、そんなにでもなかったのに、何故だろう?

もし、そのためしに失敗したとしても、また決意すればよいだけの話。

自分を責めることなど、どこにも無いのだ。

気を取り直して、再度決意すると、すぐまた神からのためしを受ける。

そして、また失敗…

そうやってくり返していると、もうこれは逃れられないという気持ちになってくる。

神がとても身近に感じられてくる。

そして、いつの間にか、「確信を持った決意」へと変わっていくのだ。

だから、はじめは貧弱な決意だって構わないと思う。

神を感じるための第一歩なのだから…

諦めることさえしなければ、ぐいぐい導かれていくのだから…


良くなろうと決意すると、喜んで良い習慣へのルールを受け入れる。

規律とは、本来、人生を楽しむためにある。奴隷で惨めな状態から、真の自由を得させてくれる。自分の殻を乗越えて、喜びを得ることへと導いてくれる。

規律と正しく向き合っている人は、規律に厳しい嫌味な人間になるのではなく、その喜びへと導く者へとなっていくのだと思う。


最近の私は、高橋洋子さんの「AUN(あうん)」というCDを聞くことで、あらゆる邪気から守られているように思う。

心の修行中の音楽というと、どこか古臭いイメージが付きものだけど、この音楽は、とても新しくてハイセンスなので、修行している自分が素敵と思えるようになってくるので不思議だ。

その音楽をMP3プレーヤーに転送し、いつも胸ポケットに入れて聴いている。

新しい自分を築くためのスピリチュアルなパワーをそこから得られているように思う。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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