2008年08月30日

命の水

3日前に、東京で歌のレッスンを受けてきた筈でしたが、私の体調がものすごく悪いこと(脳梗塞の一歩手前の状態だったとのこと)を察知された先生は、歌のレッスンではなく、食事療法講座に変えたレッスンをしてくださいました。また、人生相談にも乗っていただきました。それは、素晴らしいレッスンでした。

先生は、私が一番に尊敬する歌い手ですが、人生の師としても心より信頼を置いています。先月のレッスンで受けた指導には家族の問題もありました。言われた通りに実践したところ、寝たきりになりかけていた母が元気を取り戻しました。家族の絆も目に見えて回復しました。

今回の先生のご指導による、盛岡に帰ったら一番最初にやることは、水の問題でした。水道水の水ではなく、天然水を汲んできて、それを飲むようにとのことでした。スーパーなどはペットボトルに入った天然水が売っていますが、そういうものは熱処理されていて、生きたままではないとのこと。何が何でも、生きた水を汲んできなさいとのことでした。

せっかく食事療法をしっかりやっても、水が悪いと片手落ちと言えるのだとか。確かに私は、水のことは軽く見てきたかもしれません。

人間の体の約70パーセントは水ということを考えると、確かに疎かにはできません。昨日、盛岡に帰ってきて朝食を取るとスグ、妻と共に天然水を求めてのドライブに出ました。いくつかの情報は、前日、東京・高円寺のインターネットカフェで調査済みでした。

目的の場所へは、目印の鳥居をくぐり、舗装されていない割と急で、まっすぐに続く細い坂道を車で登って行きます。何か、過去世にへとタイムスリップしていくような歴史の感じられる道です。

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そして、坂の上にある駐車場には、「熊出没注意」の看板が… 

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駐車場のすぐ目の前に、水を汲む場所がありました。さらに、上に上っていくと、神社があります。その周辺には、天然記念物のスギの大木が生い茂り、天然水が勢いある音を立てて流れています。まるで屋久島の風景のよう(行ったことはありませんが、屋久島の自然音のCDや風景の写真集を持っています)。その神秘的な風景に圧倒されました。

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まるで清水を守る主のような大きな蛙がわたしたちを出迎えてくれました。

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平日なのに、切れ目なく水を汲みに来る人がいることにも驚きました。千年以上も前から、万病に効く奇跡の水として伝えられている名水です。現在では、地元の保存会の人によって、手厚く守られているとのことです。

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今日は、20リットルのポリタンクを4つ買いました。昨日、汲んできたのは、7.7リットルのキャンプ場などで使用するようなジャグタンクです。先生からは、5つのタンクには、黒いゴミ袋をかけて冷暗所で保存し、残り一つになったら汲みにいくようにと指導されまた。数日後、家族で汲みに出かける予定です。

この場所をインターネットで詳しく紹介したくない理由は、千年以上も守られてきた環境を悪い人によって汚されたくないからです。心から求める人には、きっと神様が導いてくださることでしょう。

同じような理由から、先生の素晴らしい歌声とスピリチュアルな感性は、守って差し上げたいと思っています。決して、迷惑は掛けまいと思い、レッスン以外で接することは全くありません。電話連絡も、マネージャーさんを通してだけです。

ではありますが、まだ4度しかお会いしていないのに、先生の教えと共に生きているので、毎日お会いしているような気がしてなりません。家族の会話の中に、先生のお名前が出ない日はありません。私も、先生のようなポジティブなパワーを持った人間へと成長していきたいです。いつも、「先生だったら」と考えて、自分の心の壁と闘っています。

また先生からは、約一ヶ月は、主食(白い食品)を断ちなさいとの指導も受けました。このことで、水効果がさらに上がるのかもしれません。頑張って、取り組んでいこうと思います。

食事療法についても多くのヒントを与えられてきたので、そのことにも着手していこうと思います。そして、健康的な生活を土台として、先生から与えられた、素晴らしい未来へと繋がる重要な課題に取り組まなくてはなりません。来月のレッスンでは、さらに素晴らしい報告をしたいです。

まだまだ、意識がもうろうとした状態が続いていて、本当のところは辛いです。しかし、新しい航海が始まったような静かな感動により、前向きな心の状態を取り戻しつつあることを実感しています。


しばらく、インターネットの方はお休みすることにしました。


良い証を皆様にお伝えできるように、基礎固めとなる1ヶ月を過ごしていきたいと思います。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月25日

自分ではない自分の存在?

ここ数日、血圧がそれまで経験したことがないほど上がってしまい、たいへん苦しみました。

それまでも高かったのですが、さらに40も跳ね上がってしまいました。体が熱くなり、脂汗をかいていました。

その結果、何が起こったかというと、激しいイライラから、精神をコントールできずになり、ついにとある集まりにおいて数人の人に暴言を何度も吐き、さらには自分の責任を投げ出す大失態を起こしてしまいました。昨日のことではあります。現在は、どうにか落ち着いています。

まるで自分が自分でないような感覚でした。そして、大失態を起こしたことに、酷く落ち込みました。その時は、小さなことにも腹が立ち、暴言を吐かずにいられない、もの凄く込み上げてくるものになすすべがありませんでした。

精神的病のため、ある日突然不機嫌な態度を取ったり罵声を浴びせてきた友人たちのことを思い出していました。

また、昨年、うつ病の原因になった、原因不明の事故についても思い出していました。あの時は、幸い駐車中の無人の車に激突したため、互いの車の被害で済みました。私は普段から安全運転を心掛けており、ゴールドカード所持ドライバーでもあったことゆえ、自分の引き起こした大失態に激しく落ち込みました。そして、抗うつ薬を飲まなくてはならないほど動けない状態に陥ってしまいました。

また、今年6月に起こった、死亡者7人、負傷者10人を出した秋葉原通り魔事件の加藤容疑者のことも思い出していました。昨日のことを考えると、私は加藤容疑者を責めれないと思いました。彼は、悪人ではなく、ごく普通の人間だったからです。何かが、彼に衝動的な犯罪へと導いたように思うのです。

私は、長いことクリスチャンとしての信仰生活を送っていたこともあり、暴言を吐こうと思うようなこともなかったし、仮にそうであっても理性で押さえることができていました。ところが、その日は、自分の意に反して、暴言が出てきたのです。自分でない自分が暴れていた感じでもありました。

私は、高血圧ぎみではありましたが、食事療法と運動療法をしながら、ここ数ヶ月、何も薬を飲まない生活をしていました。抗うつ薬も漢方に変えてもらい、いつの間にか飲まなくても良い状態となっていました。今回のことで、妻から、病院に行って薬をもらって飲んだ方がいいのではといわれました。自分としては、運動療法と食事療法に、漢方薬(「釣藤散」を検討中)を加えて、治療をしていきたいと思っていますが…

多分、限界値近くまで血圧が上がってしまうと、理性のコントロールが利かなくなるのかもしれません。それにしても、自分の心の底に、恐ろしい感情が眠っていたことを知り呆然としています。あるいは、先祖から受け継いだ遺伝子の中の悪い情報が目を出してしまったのでしょうか。

それまで他人の問題と思っていたことが、自分の問題となってきました。

そして、

自分ではない自分の存在…

そのことを理解できたら、そして、そのことへの対策が得られたなら、不幸な大失態を起こすことなく、より良い人生が送れるのかもしれません。

今後このことは、天から与えられた課題と思い、こだわって追求していきたいと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:16| Comment(3) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月19日

31.リラックスする

そもそも、人はどうして疲れるのだろうか。

あることを成し遂げるため、友人との義理を欠き、家庭のことに背を向け、作った時間。そういう時間で、良い証を得たことは意外と少ない。

逆に、友人との約束を果たし、家族との約束を果たし、少ない時間で集中してやった時の方が、よい証を得ているように思う。

なぜだろう?

前の記事に書いたことだけど、前者は1馬力での仕事。後者は10馬力での仕事なのかもしれない。

できない人は、あれもこれもできないし、できる人は、あれもこれもできるのが現実なような気がする。

その分かれ目は、自分のためにやることか、他者のためにやることかの違いなのだと思う。

自分だけのためにする仕事は、神の祝福を得られにくい。他者のためにする仕事は、神の祝福が得られやすい。

そう考えると、他者の喜ぶ姿をイメージして仕事に取り組んだ方が、良い結果が出そうな気がする。

さらに、自分のために仕事をする人は疲れやすく、他者のために仕事をする人は、疲れにくい。どうせ仕事をするなら、「共に働く人のために」と考えてしたいものである。

と書いている私は、情けなくも疲れやすい方なので、よくリラックスをしに行く。日帰り温泉に行ったり、指圧に通ったりもしている。

しかし、なかなか疲れが癒えない。

最近になって、大切なことに気が付くことができた。他者のために生きることが、疲れないことなのだと。そして、愛する人たちの笑顔が、何より一番癒されるということを。

最高のリラックスとは、愛によって癒されることではないだろうか。それは、利己的な愛ではなく、ひたすら与える愛。神の使命(祝福された運命)からくる愛。そういった愛に生きていると疲れにくいし、疲れが癒される。

私利私欲のみに生きることはもうやめよう。

神に祝福された生き方へと、少しずつチェンジしていきたい。


他者のために生きること。神の愛に生きることで、疲れにくい体質を築いていこう。
神の祝福を得た生き方は、強い癒しの得られる生き方なのだと信じていこう。





■潜在意識(無意識)をクリーニングするために■

現代は、テレビやインターネット等を通して、無意識のうちに心を汚す言葉が入ってきてしまいます。これは、逃れられない現実でもあります。無意識が汚れると、意識の力だけでは自分をしっかり保つことが困難となってしまいます。

そこで、

信号待ちの数十秒でもいいです。ちょっとした空き時間を見つけたなら、

「ありがとう。感謝します。愛しています。」

の言葉をひたすら心の中で繰り返し唱えるのです。潜在意識(無意識)の中にその言葉が満たされていき、明るい考え方ができるようになります。唱えると唱えるだけ、元気を取り戻す力が湧いてくるので不思議です。 私は、100円ショップで売っているカウンターで、唱えた回数を手帳に記録しています。記録を付けると、励みになっていいですよ。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 16:54| Comment(4) | TrackBack(0) | アファメーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月17日

十分の一の自分

私の能力は一馬力。

天から与えられている使命(祝福された運命)を生きるには、あと9馬力足りない。

では、天から残る9馬力もの力を授かるために、何をしたらよいのだろうか。

それは、全力で心の内側を清め、その行いを清めることなのではないだろうか。

このことは、どんなに知恵に不足している人でもできること。

とはいえ、私のように劣等感の強い人間にとっては、愚かなことと分かっていても、劣等感を埋め合わせようと神に背を向けた価値観を選んでしまいがちになる。

いや、これは自分ひとりの劣等感ではないのかもしれない…

幼いころに刷り込まれた親の価値観。さらには、遺伝子に刻まれている先祖伝来の劣等感、妬み、恨み、ひがみ、などもあるのかもしれない。

どうしても、反対の力に負けてしまう。

そのまま一馬力のままで、やがて枯れていく人生を歩むか、天からの力を得て10馬力の祝福された運命を生きていくか。

これは究極の選択といえるような気がする。




と、書いている本人は、足踏み状態。まだまだ、1馬力のままである。

何度も決意して立ち直してはいるものの、ちょとしたことで崩れてしまう。

こうなると、自分の能力の不足感や、踏み外しぎみの自分の運命を呪うことはできなくなってくる。

良い方法を見出しているのに、自分の意思の弱さから、力を呼び寄せることができないでいるのだから。

情けないことではあるが、それでも、諦めずにチャレンジしていきたい。



※ここでの「馬力」とは、馬の仕事率(または、七五キログラムの物体を一秒間に一メートル上げる仕事率)による仕事の単位とは関係ありません。自分には、10の潜在能力を秘めていながら、十分の一の力しか出せていないことを「馬力」という言葉で表現したものです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月16日

お盆に考えたこと

幸福への道のり
(ここでは宗教は一切問わない。信じている宗教があれば、何でも構わないので、自分を律する価値観として大切にすること)


@ 父母に聞きながら、まずは「口伝系図」を作成する。系図の人物について、詳しく取材する。

A 菩提寺を回って、戒名等(洗礼名やそれに代わるものでも良い)を調べる。

B 不明な点は、親族を回って完成させる。

C 父母・親族の知人・友人を通して、系図の人物の人間像について浮き彫りにしていく。

D ここまでの作業で、家系(血筋)のしがらみについての理解がかなり深まる。無意識で働いている先祖からのマイナスの精神エネルギー(負の導き)や、「何を受け継いでいるのか」を理解できるようになる。同時に、天から与えられている自分の使命(運命=天から期待されている本当の生き方の意)が見出されていく。

E 家庭内の問題に取り組む。(単に口先で伝えるのではなく、良い行いを示しながら伝える⇔心の浄化:「ありがとう」「感謝します」「愛しています」のアファメーションの内的実践) ※これは、同時に先祖の霊への浄化として働く。

F 親族内の問題に取り組む。(単に口先で伝えるのではなく、良い行いを示しながら伝える⇔心の浄化:「ありがとう」「感謝します」「愛しています」のアファメーションの内的実践) ※これは、同時に先祖の霊への浄化として働く。

G 天から与えられている運命に生きる(心を静かにして、瞑想を通して、天との交流を持つ。天からの良い導きが得られるようになっていく)⇒親族内への波及⇒社会への波及(プラスの精神エネルギーがどんどん拡大していく)

H 幸福の伴う成功への実現(幸福の伴わない利己的成功ではない)。

I 良い死への実現(天から与えられた使命を果たし、喜びを持って迷わずに帰天できる)



人生の学びの課程において、生まれ故郷を離れて都会に出て、あるいは海外に出て学び活躍の場を得ることもあることだろう。大切なことは、ある時点で、生まれ故郷心を向け、自分に与えられた使命(本当の運命)を生きることで、人生の意義が深まっていくのだと思う。これは、元お笑いタレントで、現在、宮崎県知事として大活躍している東国原知事の生き様が参考になると思う。

ちなみに私はキリスト者である。『聖書』の「福音書」によって示されているキリストの生き様を手本として、キリストのように生きたいと考えている。これは、それなりの深い縁があってそうしているのであるから、口先で人に勧めたいとは思わない。ただ、私の信仰心を支える大きな基盤になっていることだけは確かである。これまでの人生の過程では、父母から離れ、親族達からも離れたこともあった。とはいえ、それぞれの時に意味があったと思う。離れたことで、先祖伝来のしがらみを断ち切り(完全ではないが…)、精神の自立ができたことと、客観視するための目も養われたように思うからだ。そして、これまで学んできたことを通して、家系(血縁)に生かされる時が来たのだと考えている。自分がそうだったように、父母や親族を離れて学びの課程を生きている者にも寛容な気持ちで接することができると思う。親族との関係と異なる特定の宗教を出して、こういった問題をまとめようとしてはいけないのだと思う。あくまで、親族との接点を大切に考えていきたい。

何の宗教が正しいといったことではなくて、自分の信じる宗教によって自分の霊性を高めながら、運命的に繋がっている人間関係を大切に、自分の信じる宗教によって培われたことを生かす場としていけたらと思う。つまり、分をわきまえず、縁もゆかりも無い他人を変えようとすることに時間を費やすのではなくて、まず自分から、身内から、地元から固めていき、プラスの精神エネルギーを拡大しながら、より良い社会のために貢献していけたらと思う。

こういった血縁による人間関係は、土地に例えることができると思う。荒れた土地に種を撒いても、根付くことがない。仮に根付いたとしても、根がはっていないので、強い風が吹くと倒れてしまう。まず、土地を耕し、しっかりと根をはる基礎固めをすることが先決なのだと思う。そのためにも、親族間で一切の批判(悪口)が起こらないよう良い取次ぎをすることが重要であると考えている。批判をするのではなく、その問題に共に取り組んでよい解決を引き出していくのだ。親族間での足の引っ張り合いは醜いものがあり、避けたいことである。

こういった問題は、自分の力だけでやろうとすると100年も掛かるかもしれない。一生かけても終わらない問題である。ただ、天の力を借りて行うなら、数年できることと考えている。このことを達成できたなら、血縁を超えた他人の人生にも良い影響を与えられる力が備わっていくのかもしれないと考えている。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月13日

30.間違いから教訓を学ぶ

トラブルに出会ったとき、そこをどう切り抜けるか。

これは、間違いを犯さないことより重要な気がします。

例えば、パイロットがフライング中にトラブルに出会ったとき、医者が、手術中にトラブルに出会ったとき、パニックしてしまい最悪の判断をしてしまったなら犠牲者が出てしまう。こんなパイロットや医師に命を預けることはできないと、誰もが思うことでしょう。

何もパイロットや医師でなくても、トラブルが起こったときに、助けに来てくれて見事に解決してくれる職場の先輩を見ると、自分もそうなりたいと憧れの気持ちを抱いたこともあります。

優れた仕事をするには、もちろん、間違いを起こさないという姿勢も大切ですが、間違いから逃げずに、トラブル処理のノウハウを身に付けることは、もっと重要なことだと思うのです。

そのためには、自分の間違いに対して責任を持つことが重要で、間違いを犯した現実から逃げずに直視する勇気が自分を成長させるのではないかと思うのです。

私は、不器用な正確なもので、やたら間違いが多いのですが、メモ魔なもので(単に記憶力が弱いゆえ…)、メモから間違いを分析したりします。はじめは、大目玉を食らってばかりの問題児でも、数年経つと、新人の教育係を任されたりしました。間違いを犯すまいと緊張して仕事をすることよりも、間違いに大いに学び、いざというとき頼られる仕事が出来る方が楽しく、かつ充実した仕事ができるように思うのです。


自分の間違いに対して責任を持とう。
他人任せにせず、そういった自覚をもってこそ、トラブルを切り抜けられる能力を身に付けることができる。



参考文献:『自信の法則』 ジェリー・ミンチントン=著 弓場 隆=訳 (ディ スカバー)




■潜在意識(無意識)をクリーニングするために■

現代は、テレビやインターネット等を通して、無意識のうちに心を汚す言葉が入ってきてしまいます。これは、逃れられない現実でもあります。無意識が汚れると、意識の力だけでは自分をしっかり保つことが困難となってしまいます。

そこで、

信号待ちの数十秒でもいいです。ちょっとした空き時間を見つけたなら、

「ありがとう。感謝します。愛しています。」

の言葉をひたすら心の中で繰り返し唱えるのです。潜在意識(無意識)の中にその言葉が満たされていき、明るい考え方ができるようになります。唱えると唱えるだけ、元気を取り戻す力が湧いてくるので不思議です。




さて、お盆のシーズンですね。しろねこは、連日4時起きです。昨日は、お墓の掃除。今日は、お墓参りでした。明日は、遠方の親戚回りです。盛岡は内陸なので海が見られませんが、明日は、海の風景と、海の幸を堪能できそうです。

自分は、なぜここの土地に生まれたのか。先祖達から何を受け継ぎ(プラスの遺産。マイナスの遺産)、天から与えられた課題とは何なのか。そういうことを考えて過ごしております。親戚の方々と触れ合うと、そういったものが見えてくるように思い、大切な時間と考えています。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | アファメーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月10日

29.感謝の気持ちを持つ

神様を愛することってなあに。

ある人は、祈ることと答えました。

ある人は、立派な人間になることと答えました。

神様って、目に見えないお方だし…

本当にいるかどうか確かめられないし…

何をしたらいいのだろう。

もちろん、祈ることは、神様と交流するために大切なことです。立派な人間になろうと努力することも神様の愛にこたえる尊い考え方です。

でも、ここでの答えとは、「感謝すること」です。

自分は、決して一人で生きているわけではありません。日ごろ、あるのが当たり前の水道水、食料、衣料、住居など、これも多くの人の働きによって得られていることなのです。

さらに、私たちが生きていくには、その環境があってこそです。空気がなくなっては、もう生きてはいけません。

ハイテク社会に生きる私たちにとって、見失っていることは、「感謝の心」なのだと思います。その結果、地球の温暖化や環境汚染の問題が深刻化されるようになってきました。物質的に豊かになったのに、自殺者の多い社会を作り上げてしまいました。

個人の幸せを無視した利益追求の社会。親子の絆は薄れていき、「自分さえ良ければいい」という考え方がはびこっています。

神から与えられた運命(使命)に生きることをせず、自分のための人生を生きようとして、お互いに傷つけ合っては苦しんでいるのです。

私たちは、基本に立ち返り、本来、無力な存在である自分に恵みを与えてくださっている神に感謝する気持ちを持ちたいものです。そして、お互いの心に愛がなくては幸せになれないことを悟り、すべてのことに感謝をする姿勢を持ちたいものです。

さらに、良いことのみでなく、悪いことにも意味があると考えて、「感謝」と受け止める。

悪いと思えるようなことにも、尊い導きが隠されている場合があるからです。

感謝の心を取り戻した時、私たちは、神様から与えられている尊い運命(使命)に生きることができるのだと思うのです。


日ごろ当然のことと思っていることを見直そう。
感謝の心を取り戻していくのなら、神から与えられている尊い運命(使命)が開けてくるのだと考えよう。




参考文献:『自信の法則』 ジェリー・ミンチントン=著 弓場 隆=訳 (ディ スカバー)


■潜在意識(無意識)をクリーニングするために■

現代は、テレビやインターネット等を通して、無意識のうちに心を汚す言葉が入ってきてしまいます。これは、逃れられない現実でもあります。無意識が汚れると、意識の力だけでは自分をしっかり保つことが困難となってしまいます。

そこで、

信号待ちの数十秒でもいいです。ちょっとした空き時間を見つけたなら、

「ありがとう。感謝します。愛しています。」

の言葉をひたすら心の中で繰り返し唱えるのです。潜在意識(無意識)の中にその言葉が満たされていき、明るい考え方ができるようになります。唱えると唱えるだけ、元気を取り戻す力が湧いてくるので不思議です。
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2008年08月08日

28.チャンスを見つける

私の乏しい経験ではありますが、チャンスは、ピンチの中に多く存在したように思います。クレームを受けた相手に誠意ある対応をした結果、返って相手方の信頼を得るようなこともありました。

それゆえ、ピンチの時に滅入ってしまったり、投げ出してしまうと、チャンスを逃すように考えています。

アインシュタインも、「困難の中にはチャンスが隠されている」という言葉を残しています。困難の伴わない人生とは、チャンスに乏しい人生とも考えることができます。

とはいえ、ピンチの時は、やはり辛いです。たじろいでしまいます。私も、厳しい口調で怒鳴られたりすると、動けなくなってしまうことがあります。

でも、そのような人はどこにでもいるはず。自分が間違いのない良い仕事をやったとしても、それでも、逃れることのできない現実なのだと思います。逃げるのではなく、しっかり受け止めるための知恵を神から引き出せるよう祈り求めるのです。

逃げると追ってきます。逃げると逃げるほど、激しく追われます。これは法則のようなものです。反対に、嫌な相手でもしっかり受け止めると、良い解決ができるかどうかはわからないとしても、少なくとも追われずに済みます。これも法則のようなものと受け止めています。

失敗のことを頭に描くと、失敗のイメージに引っ張られてしまいます。

スキー場でスキーをしている時、「人にぶつかってはいけない」と人の方ばかり気にしてすべると、なぜか人の方に向かってしまい、衝突して大変なことになってしまします。しかし、人のいないところを気にしてすべる分には人と衝突することはありません。

イチロー選手が、三振するイメージを持ってバッターボックスに入るとは思いません。きっと、良いプレーが常に頭に描かれていて、瞬時に最適の良いイメージを引き出すことができるのではないかと思うのです。

チャンスが到来するのをじっと待っているのではいけないと思うのです。チャンスとは、あらゆる場面に隠れていて、それを見出すものだと思うからです。


チャンスは、どんな人にでも必ず近くに存在するもののように思います。ただ、多くの場合、困難な時、ピンチの時にあるものです。

ダメでもともとと考えて、失敗のことなど考えず、あくまで成功のイメージを心に描いて、困難やピンチに挑んでいこう。



参考文献:『自信の法則』 ジェリー・ミンチントン=著 弓場 隆=訳 (ディ スカバー)


■潜在意識(無意識)をクリーニングするために■

現代は、テレビやインターネット等を通して、無意識のうちに心を汚す言葉が入ってきてしまいます。これは、逃れられない現実でもあります。無意識が汚れると、意識の力だけでは自分をしっかり保つことが困難となってしまいます。

そこで、

信号待ちの数十秒でもいいです。ちょっとした空き時間を見つけたなら、

「ありがとう。感謝します。愛しています。」

の言葉をひたすら心の中で繰り返し唱えるのです。潜在意識(無意識)の中にその言葉が満たされていき、明るい考え方ができるようになります。唱えると唱えるだけ、元気を取り戻す力が湧いてくるので不思議です。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | アファメーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月07日

自由に生きる

自分の思うがままに生きることが、自由なのだろうか。

「そうせずにいられない」

という性質の中に、遺伝子の中に刻まれたしがらみのようなものを感じる。

そういった、しがらみに振り回されている自分に、最近、ふと気が付いた。

本当に、神から与えられた運命(使命)に生きているだろうか。

自分とは何者なのか。

私は霊能者で無いので、神と対話できない。ではどうやって、神から与えられた運命(使命)を見出したらよいのだろう。

自分の思いの方ではなくて、自分と触れ合う人の声に耳を傾けてみよう。

自分は、周りから何を求められているのだろう。

または、自分のこれまでの歩みをじっくり振り返ってみよう。瞑想してみよう。

自分は、何をやった時、他者のために役に立ったのだろうか。

確かに、自分の思うがままに生きても成功者になっている人はいる。

でも、成功は手に入れても、幸せまで手に入れているようには見えない。

しがらみという奴隷になっていきているのには変わりないし、神から与えられた運命(使命)に生きていないので、そこに神の祝福がないのだから。

神に祝福された、本当の自由を得たい。

自分だけが幸せになりたい。

自分だけが特別でありたい。

そういった気持ちを捨てて、

自分と触れ合う人たちと共に、幸せのキャッチボールをしていきたい。

真の自由とは、そういうものではないのだろうか。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月03日

スピリチュアルな世界?

今日の話題は、スピリチュアルな内容なので、付いて来れない人もいることでしょう。また、価値観の異なる方が読まれると憤慨されるかもしれません。どうか、寛容な心で受け止めていただけると助かります。


どうしても人を許せない。分かっているけどやめられない。

手放してしまえば成長できるのに、頑固に手放せない。

どうしてだろう?

それは、先祖の霊が憑依しているからとも考えられています。

この世に未練を持って亡くなった先祖は、死んで体を失っているがゆえ、生きている子孫に取り付いて、自分がやったことを繰り返させることで自分を慰めているのだそうです。

死亡事故の多発現場なども、この世に未練を持って亡くなった人が、生きている人に憑依して、自分と同じような事故を繰り返し起こさせることで自分を慰めているのだそうです。

そうなると、無意識で悪い方向性を選んでいることは、こういった霊たちとの関係もあるのかもしれません。

もし、私が勇気を持って、悪い考え方を手放そうと「決意し実行する」のなら、それは、私だけが良くなるのではないのです。

私に憑依している霊たちも、悪い考え方を手放すことが出来るので、救われることができるのです。ある意味で、亡くなった先祖の霊たちの救いは、生きている子孫に掛かっているのかもしれません。

実際の親子同様に、そこには絆があるがゆえに、言葉で言いくるめようとしなくても、絆を通して相手を清めることができるのだそうです。

死んでしまうと、そこで終わりです。神から離れた心で死んだ人は、いつまでも神から離れた状態に留まるのです。

生きているからこそ、神と繋がっていられるのです。生きているからこそ、魂を成長させることができるのです。神と繋がった心で死んだ人は、いつまでも神と共に生きることができるのです。

だから生きていることは素晴らしいことなのです。

そこに、生きている意義があるように思うのです。

私にも、なかなかやめられない悪い癖があります。やめられないことに屁理屈を付けて、他のせいするなどして自分を正当化しては、しがみ付いています。

最近、そういう自分に気づくことができました。

「勇気」を持って、そのようなしがらみを捨て去る「決意」をし「実行」に移したいと思います。とても自分の力だけでは出来る問題ではないので、神に力を求め、神と共に取り組んでいきたいテーマではあります。


さて、絆について書いたので、そのことについてもう少し詳しくお話してみようと思います。

どうやら人は生まれた場所に大きな意義があるようです。日本に生まれる人、フランスに生まれる人、中国に生まれる人、東南アジアに生まれる人。そして、良いものを学び吸収してくるために、田舎から東京の学校で学んだり、海外の学校や、優れた先生のもとで学ぶこともあるでしょう。それは、自分の見識を広げるために素晴らしいことだと思います。

だからといって、生まれ故郷なんかより、ニューヨークで暮したい。となってしまうと、与えられた運命が輝かなくなってしまいます。

というのは、親子や親族といった絆が切れてしまうからです。その絆を通して、多くの人に神の愛が伝えら得る筈だったのに、その人だけの思い通りの人生を歩んでしまう。あくまで自分の思いによる理想実現というわがままな考え方の人生となってしまう…

それでは、神の祝福を受けた人生とはいえないのです。

私と1年位前から交流している方なら、私が生まれ故郷の盛岡を嫌っていたことをご存知と思います。東京での生活がとても祝福されていたことと、盛岡ではあまりに、心が傷つくことが多すぎました。いつか盛岡から脱出して、他県で生活することに憧れを持っていました。

しかし、このことを知ってから生まれ故郷を大切にしなくてはならないと考えを改めるようになりました。

それは、私が神から与えられている運命(使命)に生きるためです。

毎朝、心を静かにし、神と対話する時間を大切にしたいと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月02日

優しさの裏側にあるもの

これは自己分析なのですが、私の優しさにはかなり問題があると、最近になって感じられるようになりました。

というのは、私の場合、20代の前半と30代に、何人もの女性たちから、心が痛むような存在を否定する言葉を浴びせられたからです。

何度も自殺を考えました。また自暴自棄に陥りそうにもなりました。自分ながら良く耐え抜いたと思います。

その結果、私は、他人に優しく接するようになりました。正しくは、優しくせずにはいられないという感じでしょうか。

しかし、残念ながら、それは本当の優しさではありません。

心の中に存在し根を張っている恨みが、「自分はこうして欲しかった」という心の叫びがそうさせているからです。

この優しさは、相手のためにも自分のためにもならない優しさです。

本当の優しさには、相手が良くなることを願う気持ちが中心にあります。それゆえ、時には厳しいことも言わなくてはなりません。または、相手のために、あえて手を貸さずに見守ることもあることでしょう。

私の心の中には、そういった恨みの念があり、それゆえの優しさゆえ、本物とはいえないのです。その恨みを完全に手放してこそ、本当の優しさを得ることができると考えています。

では、どうしたら、恨みを手放せるのか。

私は、アファメーションの技法を用いています。つまり、繰り返し繰り返しポジティブな言葉を唱えて、潜在意識をクリーニングするやり方です。

朝に、瞑想をするのですが、16分間、「ありがとう。感謝します。愛しています。」という言葉をひたすら唱えます。その言葉以外のことは、頭に浮かばないようにします。ある意味で「無」の境地と言えるのかもしれません。時間を忘れてしまうので、携帯電話のタイマーをセットしてから瞑想に入ります。

この行によって、本当の優しさを得たいと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | アファメーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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