2008年09月26日

神と対話しよう

自分のやりたいことにチャレンジしてみてダメだったなら、

自分の生きる道が全く分からなくなったなら、

自分の望みに生きるのはやめて、神の望みに生きることをしてみよう。

では、どうしたら私に対する神の望みを引き出すことができるのだろう。

まずは、一人静かに神に心を向けて祈ることが基本なのだと思います。

小高い山に登って一人神と対話するのも良いのかもしれません。休火山の山なら、地下にマグマがあり、生きている大地といえるので、それだけ多くのパワーが受けられるかもしれません。

また、

例えば、1万円で大ファンのアーティストのコンサートのプレミアムチケットが手に入ったとします。ところが、その日に、重要な仕事が入ったとします。嘘をついてでもなんでも、そのコンサートに行きたいのが本音です。

しかし、これは神がコンサートに行くな。重要な仕事をしろというのが、神の望んでおられることと考えるのです。

または、特別スケジュールの入っていない日に、自分が嫌いに思っている人から助けを求める仕事が入って来たとします。その人とは顔を合わせるのも嫌なので、できることなら、「忙しい」といって断りたいのが本音です。

しかし、これは神が嫌な人のために助けてあげなさいと望んでおられると考えるのです。

または、ある現場に向かおうとしたら、時計が止まる、パソコンが突然フリーズする、シャツのボタンが取れてしまうなど、次々に困ったことが起こったなら、そのことに腹を立てるのではなくて、神が気をつけろと教えてくれると考えるのです。

そういう感覚を大切にしていくなら、神様との交流が可能となっていき、道を示されるようになっていくことでしょう。

神様と交流するとなったなら、異性と遊ぶことができなくなるとか、心配する人もいるようです。


真面目に生きたい。でも遊んでいる人が羨ましい…

真面目に生きるということは、何か損をしているような気がする…


そういう中途半端な気持ちでは、残念ながら良い方向性は得られません。

だったら、有り金をはたいて、または借金をしてでも、好きなことをやったらどうでしょう。そのことで病気になるなど、苦しい思いをすることになるかもしれませんが、その方が迷うことなく神に立ち返ることができると思うのです。

痛い思いをすればする程、もう自分のやりたいことへの欲望に嫌気が差してくることでしょう。

ですから、

「罪」とは、単純に悪いものと決め付けてはいけないのです。

この世に存在理由があるのは、「罪」が存在していることなのです。「罪」が存在しない神の許(天国)においては、悩みや苦しみの無い分、そこでは「愛」を見出すことが難しいのです。

なので、天使や、子供のままで亡くなった霊たちが、神から使わされて、罪と闘っている私たちの近くで見守りながら、「愛」を共に学んでいるのです。

「罪」は、私たちの心の成長の過程にとって避けて通れないものなのかもしれません。

そうして、神に立ち返ることができるなら、もう何も心配することはありません。

例え乞食になろうとも、恥ずかしい生き方をしようとも、神とともに生きる人生を歩むのです。

小さな者になるとなるほど、神の祝福は増していくからです。こんなに惨めになっても、神に生かされているという感謝を持てるようになることでしょう。そこには、「結婚」という祝福も含まれることでしょう。


神は、最も小さき者に、素晴らしい使命(派遣)を与えてくださいます。


神は、この世の価値観における成功者に、素晴らしい使命を託すことは、きわめて稀です。

むしろ、傍目から見て最悪な人生を歩んでいたような人が、選ばれて、後に素晴らしい神の証人として輝いた人生を歩むようになっていくのです。

私は、そういう人生を歩んでいる人を何人も知っています。

それこそ、正に神業なのだと思うのです。

人生につまずいて歩めなくなったなら、もう生きていけないという所まで追い詰められたなら、神と対話するチャンスなのかもしれません。


せっかく神に生かされているのだから、安易に自殺しないで!

まだまだ、幸せの道が開かれているのだから…
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:41| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月25日

無視(BlogPet)

きょうはコロと無視する?
それとも三振する?

*このエントリは、ブログペットの「コロ」が書きました。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:10| Comment(1) | TrackBack(0) | BlogPet | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月23日

大失敗?

今日は、バッハ・コンサートの本番でした。

私は、バスソロの歌い始めの部分で、音程を激しく外す大チョンボをしてしまいました。フィギュアースケートに例えれば、しりもちをつく転倒に等しいミスなのかもしれません。頭が真っ白になりましたが、あとは開き直って、ひたすら練習通りに歌いました。お客様には、ミスとは気づかれなかったようでした。

はっきりしたミスは、一旦ステージの袖に退場してからから、自分の定位置に戻る際、うっかりステージ中央に出てしまい、お客様の笑いを受けてしまったことです。一時、ボロボロ状態に陥りましたが、アンコール曲のコーラス「主よ人の望みの喜びよ」では立ち直って頑張ることができました。

2時間前のリハーサルの出来が良かっただけに、本番は納得がいかない演奏でした。とはいえ、今日は、とても大切なことを学んだ日でした。

私と同様、オケの人の中にも大チョンボをした人がいたのですが、皆さん、楽屋では「やっちゃった」と底抜けに明るいんです。特に、テノールの先生の明るさには、尊敬しちゃいました。彼も、絶対に悔しかった筈です。さすが大物と思いました。

私は、悔しさばかりに心が支配されて、涙が出てきてなりませんでしたが、彼らの笑顔に学ばされたように思います。私は、どうも負けず嫌いな性格が強すぎて、周りの人への気配りできる心のゆとりに欠けていました。こんなことでは、いけないのだと思いました。

今度は、さらに大きな失敗をしたとしても、自分の心にしっかり納め、顔には出さない心の強さを養いたいと思いました。先月、軽い脳梗塞となったのですが、こうしてステージに立つことができました。38度の熱を押して、前日までパートの就職活動を続けていたのだから、自分でも良く頑張ったと思います。そして、ふらふらの状態となりながらも、最後のアンコールまで歌えたことに感謝しなくてはと思います。

これからは、そういった言い訳も一切言わないような強い人間になりたいです。

応援に駆けつけてくださった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。




♪リハーサルの録音








posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月13日

罪と愛

人と人との信頼の絆を大切にすることこそが、「人間として」最も大切なことのような気がします。

誰もが、そば屋さんに入って、毒が入っているかどうか心配する人などいないことでしょう。

しかし、私の住む街で実際にあったことなのですが、スーパーのパンに縫い針を入れた人がいました。よほど世の中に嫌気をさしたのでしょうか?

多くの人が、不安のため、パンを買うことができなくなりました。

このように、人と人との信頼を失わせることが罪の原点といえることだと思うのです。

しかし、『聖書』によると、そこから先があるのです。

聖書の神が招いているのは、単なる善人ではないようです。

むしろ、人と人との信頼を失わせた罪びとたちを歓迎しているのです。

その理由が、

「多く許された者が、多く愛することができる」

からなのだそうです。

逆に言うと、

罪を犯さない人生を歩んだ人は、許されたという実感も少ないゆえ、多く愛する(感謝する)ことができないということになります。

多くの人は、決まりごとだから掟(社会のルールに置き換えても構わないと思います)を守るという考え方ですが、許された罪人なら、神への感謝の気持ちを込めて掟を守ることでしょう。

実感のこもった感謝。実感のこもった愛。

大麻の尿検査で陽性反応が出て日本相撲協会を解雇された3人のロシア人力士。相撲協会が彼らを許すことは絶対に無いとのこと。罪は罪と教えることは、筋の通ったことではあります。

ただ、何らかの形で、彼らが罪を許されて、その許しに対し実感の伴う感謝の気持ちが芽生えたとするなら、彼らは「人間として」大きく成長できるように思うのです。

これは、仏教で言う「悟りへの道」と一致した真理であるのだと信じています。「和とは一様にあらず、他者との違いを認識した上に成り立つもの」ゆえ、罪を犯した人の言い分も十分に聞く価値はあるのです。

人間同士で「非難しあう社会」ではなく、「人を育てる社会」であって欲しいと私は思います。

罪人が回心することほど素晴らしい感動は無いように私は思います。

クリスチャンを激しく迫害する立場から、回心して初代教会の礎を築く宣教活動を行った聖パウロのように、テロリストのリーダーも回心してくれないかな…
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月07日

焦って仕事をしないこと

私は、焦った状態では良い仕事ができない。

だから、常に心の中で、こう考えよう。


「ゆっくりと、冷静に」

「ゆっくりと、冷静に」


これは、できるだけ避けたいことではあるが…

急がなくては遅刻しそうなら、ちょっとだけ遅刻すれ良い。

時間に間に合いそうにないのなら、ちょっとだけ遅れれば良い。

そのことで恥をかいても、もし評価が下がったとしても、別の形で取り返せば良いだけの話。さらに上の者から評価されれば良いのだから…

ニュースに目を向けると、焦ったことにより、大事故や大惨事を引き起こした例は少なくない。私の無二の友人も、出勤途中に車の事故で亡くなってしまった。スピードの出し過ぎだったようである。


これまで、忙しい時に、パソコンのトラブルが起こったりすると、対処できる知識や経験があるのにかかわらず、焦りから冷静さを欠いてしまうことが多かった。

「もっと冷静に考えられたなら…」

そう思っても、あとのまつり。

焦ってやった結果、つい悪い判断をしてしまい、膨大な時間を失ってしまったことがあった。

幸いパソコンが使用不能となるほどのことには至っていない。だが、直すのに長い期間の掛かったものもある。そのことで失った時間は膨大である。時間だけでなく、健康にも悪い影響が出たばかりではなく、人間関係にも悪い影響が出てしまった。

医者なら、死亡事故には至らなくても、患者に大変な苦しみを与えたことになるだろう。やはり、このことは避けたい。


焦って悪い判断をしないために、そういう時は「ゆっくりと10秒数える」ようにする。

又は、リスクの伴う作業は一旦保留とし、安全な作業の方を先に行うようにする。


その焦った判断が、上の者からの指示の場合は、できるように思っても、「できません」とはっきり言う。被害を拡大させるよりましである。そのとき恥をかいたとしても、別の形で取り返せばよい。上の者の評価が下がったとしても、さらに上の者から評価されれば良いのだから…

また忙しい時に、客からやっかいな難題を突きつけられた時は、やはり、できるように思っても、「できません」とはっきり答える。「○○さんは、できたのに」と皮肉を言われても、真実は神がご存知なのだから恥じることはない。そのとき恥を書いたとしても、別の形で取り返すことができるのだから心配することはない。それに、これから、もっと優れた客に出会うのだから…


あとは、時間にゆとりを持とう。

約束の時間がある場合は、かなり多めに時間を取って行動すること。そうすれば、遅刻することもないし、少し早めに取り組むことで、締め切りに間に合わないこともなくなることだろう。

それゆえ、約束事が多いと、自分のことが何もできなくなるので、お人好しにならないこと。最も基礎となる人間関係。つまりは、家族との交流の時間も取れないことになってしまう。

スケジュールを見ながらじっくり考える。即決できることであっても、できるだけ即決しないこと。少し時間を置いてから、答えるようにすること。どんなにレスポンスが良くても、そのことで仕事の内容が劣るくらいなら、レスポンスを落としても、仕事の質を向上させた方が良いと考える。

時代は、人々に敏速なレスポンスを求めてくるが、これは良い傾向とは思えない。冷静さが欠けるということは、結果的に良い仕事とならない。仮に、急いだことで成功が得られたとしても、それは車で追い越しをして走るようなもの、ちょっと集中力が狂うと大事故を起こしてしまう。ハイレスポンスには、無理があり安定性が伴わない。決して美徳ではないと思う。

これは、私個人の場合ではあるのだが…

「ちょっと待って」の言葉は、できるだけ使わない。

これは、自分で自分を焦らせる言葉だからである。この言葉から、墓穴を掘ることが多いように感じられるからだ。多めに待ってもらえないのなら、「できない」としっかり断りたいと思う。

とにかく、ハイレスポンスは、ハイリスクであると肝に銘じたいと思う。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

現代における宗教の位置関係と私

日本人は宗教心が薄いと考えることには問題があると思う。

というより、ニューヨークにおいても、パリにおいても、経済大国と呼ばれる国の街中でインタビューをしたなら、信仰に興味を持っている人は、ほとんどいないというのが現状なようである。最近のNHKの特集番組を見て、そのことについて考えさせられた。

特別日本人が劣っているわけではなく、これは世界が抱える問題なのではないだろうか。

とはいえ、それを嘆く必要は全くないと思う。宗教を信じていないからといって、その人を悪人と決め付けてはならない。人間は、無意識で幸せを求めて生きるもの。そういった人々も、職業人として、家庭人として、幸せになるための生き方を追求しているのだから。

もちろん、不幸にして幸せを遠ざけている例外の人たちがいたとしても、それは現実として受け止めなくてはならない。

聖書のパウロなどの書簡には、「クリスチャンであることを公で宣言しなさい」と書いてある。当時は、迫害を受けることは、キリスト教徒の信仰を高め、信者同士の団結心を高め、残酷な殉教は、むしろキリスト教の存在を多くの人に広めていったのだ。ただ、2000年を経た今も、そのように迫害される考え方が必要なのだろうかは疑問である。

王政当時のヨーロッパでは、クリスチャンである事は当たり前のことだった。かつての日本においては、天皇陛下は神と等しい存在だった。日本人のほとんどが当たり前に神道の氏子であったのだ。

しかし、王政は崩壊し、日本は戦争に負けて、天皇陛下は人間宣言を行った。そして、ヨーロッパにおいても日本においても、それ以外のの宗教を信じる者が増えていった。そして、それと同時に宗教を信じない者も増えていった。

封建社会でも帝国主義でもない、国民のだれもが等しく歴史を学べる、教育の行き届いた現代社会において、「迫害」による方法では人々の心に響かない。

先進国における宗教観は、混沌としたものとなり、そうなると特定の宗教により語ることは、エチケットに反するものとも考えられる。異なる宗教の誇りを尊重し合い、寛容の心をもって接することが国際化社会においての暗黙のルールとなっているように思う。

今は今と受け止めて、「寛容な心」で受け止めた方が、むしろ宗教の本質から外れないような気がする。争うことに情熱を傾けてしまっては、宗教がらみの紛争やテロの悲劇を生み出してしまい、宗教の本来の役割から大きく逸脱してしまうからだ。

パウロの時代から、もうすでに2000年を経過し、初代教会の価値観のままではどうかと思うのだ。あの頃は、それが求められていたことだと思うが、現代も、まったく同じであるとは思えない。

私は、クリスチャンとして、クリスチャン同士においては、熱く聖書を語り合っている。しかし、それ以外のところでは、言葉では一切語らず、聖書で学んだ行いにより、良い空気を伝えていきたいと考えている。神の愛を空気感染させたいものと考えている。

とはいえ、一信者としては、神の掟は何一つ軽んじてはならないと考えている。神の掟はすべて神の愛と一致していると考えているからだ。その点は、妥協してはいない。

宗教で教えている良心については、宗教を外したとしても価値が落ちるものではないと思う。私は、キリスト教を一切語ることなく、他の宗教を信じている者と分かち合える良心について語り合いたい。

ただ、どうしても「神」とか「天」という言葉だけは外せない。

その言葉も外してしまうと、良心について何も語れなくなってしまうからだ。

私は、宗教を信じない現代社会を決して嘆いてはいない。これも、人類の進化の方向性であり、何らかの意味のあることだと考えている。

さて、先進国におけるキリスト教会においても、信者が激減していることが問題となっている。焦りの色も隠せない状態にある。だからといって、口で伝道して成果が得られるとは思わない。

仮にキリスト教が廃れてしまったとしても、それでも嘆くことは無いのだと思う。キリストが伝えた良心は、そうであっても生き続けていくからだ。私たちの遺伝子に、そして無意識の中に刻まれ消える事はないと思う。

全知全能全善の神が存在している限り、何も不安に思う必要はないのである。

何より、信者が家庭において、「行い」でもって信仰を伝えていく地道な活動が基本なのだと思う。特に親子関係は、心理学においても人間の人格形成において最も重要なものと考えられている。

次に重要なことは、自分が触れ合う人にとって、人間として魅力的であることだと思う。つまり口で語ることのない、「行い」による信仰表明をすることにある。

関心が持たれるのなら、家族以外の人たちにも信仰を伝えることは可能だと考えている。それが、現代における、最も自然な形の伝道活動なのではないだろうか。宗教を信ずる者は、宗教を信じない者を決して差別の目で見てはいけないのだと思う。

混沌とした宗教観に生きている私たちが、信じる宗教を守るということは、そういうことではないだろうか。

宗教をいかに口で伝えるかと言うことが重要なのではなく、いかに宗教で学んだ良心に従った「行い」に生きられるかが最も重要なことなのではないだろうか。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:26| Comment(4) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月03日

どんなに意志が弱くても

意志が弱いからこそ人間なのではないだろうか。

人間、意志が弱くて当たり前。

それはごく普通のこと。

強そうに見える人でも、本当は弱いのだ。

強い面があったとしても、間違いなく弱い面もある。

だから、弱さを必死に隠そうとして他者に厳しく接するのだ。

そういうわけだから、

意志が弱いことは、決して恥じることではないのだと思う。

でも意志が弱いことで、人間は破滅へと向かってしまう。

夢や希望を失ってしまう。

愛を失ってしまう。

健康を失ってしまう。

ついには、幸せを感じられなくなってしまう。

でも、強くなろうと自分の殻を破ることは、とても苦痛が伴うこと。

頑張ろうという決意だけでは、決して前には進めない。

何度も何度も挫折しては、自分に幻滅していくのだ。

では、どうしたら意志を強く持つことができるのだろう。

それは、基本となる人間関係を良くすること。

絆を大切にすること。

何よりも親子関係。

家族関係。

それに準ずるものとして、師弟関係、集団・組織における上下関係…

そこが良くなれば頑張れるようになれるのだ。

不思議と力が湧いてくる。

なぜか奇跡が起こりやすくなる。

神から与えられた祝福された運命に乗ることができる。

確かに、自分一人の力だけで頑張って成功できる人もいるのかもしれない。

でも、その成功に幸せが付いてくるかどうかというと疑問となってくる。

周りの人を幸せにできるかというと疑問となってくる。

一人よがりな生き方…

独善的な生き方…

その先に、幸福の伴う成功があるのだろうか。

それはともかく、

闇雲に頑張ったところで何ともならないのだ。

まず、足元を固め、愛の絆を確立した上で、

強い人間へと成長していきたい。

「ありがとう。感謝します。愛しています。」

の言葉が、当たり前に日常に溢れていること。

まずは、この言葉をお題目のように唱えることから始めよう。

このことは、

遠回りのように見えても、最も近道といえるような気がする。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がない ブログに表示されております。