自分の生きる道が全く分からなくなったなら、
自分の望みに生きるのはやめて、神の望みに生きることをしてみよう。
では、どうしたら私に対する神の望みを引き出すことができるのだろう。
まずは、一人静かに神に心を向けて祈ることが基本なのだと思います。
小高い山に登って一人神と対話するのも良いのかもしれません。休火山の山なら、地下にマグマがあり、生きている大地といえるので、それだけ多くのパワーが受けられるかもしれません。
また、
例えば、1万円で大ファンのアーティストのコンサートのプレミアムチケットが手に入ったとします。ところが、その日に、重要な仕事が入ったとします。嘘をついてでもなんでも、そのコンサートに行きたいのが本音です。
しかし、これは神がコンサートに行くな。重要な仕事をしろというのが、神の望んでおられることと考えるのです。
または、特別スケジュールの入っていない日に、自分が嫌いに思っている人から助けを求める仕事が入って来たとします。その人とは顔を合わせるのも嫌なので、できることなら、「忙しい」といって断りたいのが本音です。
しかし、これは神が嫌な人のために助けてあげなさいと望んでおられると考えるのです。
または、ある現場に向かおうとしたら、時計が止まる、パソコンが突然フリーズする、シャツのボタンが取れてしまうなど、次々に困ったことが起こったなら、そのことに腹を立てるのではなくて、神が気をつけろと教えてくれると考えるのです。
そういう感覚を大切にしていくなら、神様との交流が可能となっていき、道を示されるようになっていくことでしょう。
神様と交流するとなったなら、異性と遊ぶことができなくなるとか、心配する人もいるようです。
真面目に生きたい。でも遊んでいる人が羨ましい…
真面目に生きるということは、何か損をしているような気がする…
そういう中途半端な気持ちでは、残念ながら良い方向性は得られません。
だったら、有り金をはたいて、または借金をしてでも、好きなことをやったらどうでしょう。そのことで病気になるなど、苦しい思いをすることになるかもしれませんが、その方が迷うことなく神に立ち返ることができると思うのです。
痛い思いをすればする程、もう自分のやりたいことへの欲望に嫌気が差してくることでしょう。
ですから、
「罪」とは、単純に悪いものと決め付けてはいけないのです。
この世に存在理由があるのは、「罪」が存在していることなのです。「罪」が存在しない神の許(天国)においては、悩みや苦しみの無い分、そこでは「愛」を見出すことが難しいのです。
なので、天使や、子供のままで亡くなった霊たちが、神から使わされて、罪と闘っている私たちの近くで見守りながら、「愛」を共に学んでいるのです。
「罪」は、私たちの心の成長の過程にとって避けて通れないものなのかもしれません。
そうして、神に立ち返ることができるなら、もう何も心配することはありません。
例え乞食になろうとも、恥ずかしい生き方をしようとも、神とともに生きる人生を歩むのです。
小さな者になるとなるほど、神の祝福は増していくからです。こんなに惨めになっても、神に生かされているという感謝を持てるようになることでしょう。そこには、「結婚」という祝福も含まれることでしょう。
神は、最も小さき者に、素晴らしい使命(派遣)を与えてくださいます。
神は、この世の価値観における成功者に、素晴らしい使命を託すことは、きわめて稀です。
むしろ、傍目から見て最悪な人生を歩んでいたような人が、選ばれて、後に素晴らしい神の証人として輝いた人生を歩むようになっていくのです。
私は、そういう人生を歩んでいる人を何人も知っています。
それこそ、正に神業なのだと思うのです。
人生につまずいて歩めなくなったなら、もう生きていけないという所まで追い詰められたなら、神と対話するチャンスなのかもしれません。
せっかく神に生かされているのだから、安易に自殺しないで!
まだまだ、幸せの道が開かれているのだから…