2008年10月13日

心に優しい音楽 身体に優しい音楽

心に優しい音楽とは、「十二平均律」で書かれた音楽だと思う。

中でもバッハの音楽は優れていると考えている。そこには転調の妙があると感じている。それゆえバッハの音楽は、不思議と飽きがこない。また、それぞれの調の持つ色合いを見事に生かされた音楽でもある。聴く分には全くわからない聖数で書かれており、神への捧げものとしての音楽でもある。犯罪を助長するような現代の調和を失った音楽とは大きく異なっている。


次に、身体に優しい音楽とは、「純正律」で書かれた音楽だと思う。

日本人作曲家で、演奏家の玉木宏樹氏のCDを通して、その音楽の世界に触れることができることが有難いことである。ただ致命的なことは、転調が自由にできない点にある。転調が自由にできないと、音楽が単調になりやすく飽きやすい欠点は否めないように思う。もしかすると、この音楽は心に聴かせる音楽ではなく、身体に聴かせる音楽なのかもしれない。そういう意味で、私は大変注目している。

純正律は、ギリシャの時代ににピタゴラスによって発見された物理学的にも完璧な和声原理による音楽である。その音色の美しさは、私たちの身体にある小宇宙ともいえる細胞たちの秩序を保とうとする性質「ホメオスタシス(恒常性)」や、惑星の規則正しい軌道にもみられる大宇宙の原理とも一致するように感じられる。そういった宇宙の秩序、つまりは「確かなる」ものとの触れ合うことが、身体の不調を治す働きがあるように感じられるのである。今後、医療現場等で大いに役立つものと期待している。

しかし、私たち人間は、実に複雑な心を持つ存在である。そういう意味では、心を癒すことも重要なのである。そういった観点では十二平均率で書かれた音楽は重要なのだと思うのだ。というより、一般的に音楽とは、十二平均率で書かれたものなのであり、純正率の音楽はかなり珍しい部類に入る。ただ、心に優しい音楽を選ぶことは素人には難しいことなので、フランス料理のその日のメニューに適したワインを選んでくれるソムリエのように、その人の心の状態を考慮した最適の音楽を選んでくれる音楽療法士は、現代のように心の病んでいる時代に求められている職業といえるのかもしれない。

私としては、健康維持のために、心と身体の両面から音楽と親しんでいきたいと考えている。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 08:10| Comment(3) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月08日

ブータン市民に学ぶ

数日前、NHKのテレビ番組で、ブータンという国について紹介されていました。

ブータンという国を知っている人は少ないと思います。インドと中国にはさまれている国で、面積は日本の8分の1ほど。総人口は日本の地方都市の岡山市よりも少ない約68万人。世界唯一のチベット仏教を国教とする王国です。

子供たちへの環境教育が徹底していて、国土に占める森林の割合が60%を下回らないこと、環境を劣化させ、野生の動植物の生態を脅かす工業・商業活動の禁止などが法律で定められ、国民が喜びを持って、その実現に協力しています。

どう見ても物質的において貧しそうな国なのですが、国民の90%以上の人が幸せだと答えているのだそうです。

そこには、1972年に、ブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクが提唱した「国民全体の幸福度」(Gross National Happiness GNH)に基づいた思想があります。国民総生産(Gross National Product GNP)で示されるような、金銭的・物質的豊かさを目指すのではなく、精神的な豊かさ、つまり幸福を目指すべきだとする考えから生まれたのだそうです。


ブータンの市民へのインタビューは、とても驚きでした。

「あなたは幸せですか?」

の質問を受けた市民たちは口々に、


「幸せです」…

「幸せです」…

「だって、素晴らしい命をいただいているのですもの」

「私たちは、十分に足りているのですから」…


私は、考えさせられました。

それまで、「不足感」に苦しんできたからです。


今や現代病ともいえる、うつ病や自殺。

これも間違いなく、「不足感」が原因となっているのだと思います。


また、ブータンには失業という概念がありません。自給自足の生活が基本となっているからです。

先進国においては利益を追求しなければ経済が成り立ちません。企業同士の競争も激化しています。国際化社会となり、不安定な市場の煽りを受けやすくなっています。それゆえ、失業者が増える一方なのです。

ブータンのように、利益を追求しなくても成り立つ国があるということを知り、とても考えさせられています。


「もし、この土地の下に高価な地下資源が眠っていたとしたらどうしますか? あなたは、お金持ちになれるかもしれませんよ」

というインタビューの質問に対し、市民の一人は、


「お金持ちになりたいとは思いません。それより、自然を守ることが大切ですから、地下資源を掘り起こすことは絶対にしないことでしょう」


私は、2000年からパソコンを始めて、いろいろできるようになりました。以前の自分からは考えられないほどに、可能性が広がったようにも思えました。

しかし、「不足感」が募る一方の自分がそこにありました。

できることは確かに増えている筈なのですが、幸福感はどんどん無くなっているように感じられてなりません。

新しいスキルを得るために、あれが欲しい、これが欲しい。そして、成功したいとか、有名になりたいとか。どんどん、欲求だけが募っていき、今の自分に満足できなくなっていったのだと思います。

いつの間に驚くほどの機械に囲まれて、それらに完全に依存している惨めな自分がそこにありました。最小限の物で満足して、幸せに暮らしているブータンの市民が羨ましくも思えてきました。

私は、本当に必要なものは何かを考え、要らないものは捨てていくようにしなくては、まずいのではないかと考えさせられました。

もしかすると、パソコンも要らないものの一つに数えられるのではないかと思います。

とはいえ、パソコンをやっていたからこそ、ブログやSNSを通じて全国のいろいろな方々と語り合えて有益だったと考えています。ブログをはじめて約3年の間に、多くの人と触れ合い、自分のキャパが大きく広がったように思います。また、インターネットを通して得た情報があったからこそ、高橋洋子先生という人生の師匠にめぐり会えたように思います。

これは先生の教えなのですが、心静かに神様と語り合うことをしながら、自分の願いに生きるのではなく、神の願いに生きていこうと考えられるようになりました。

先生のアドバイスで、カウンセラーへの道は神様の願いとは違っていることに気づかされました。最先端のカウンセラーになるのだと随分お金を投じて勉強をしてきました。でも、それは、自分の願いに過ぎなかったのです。先生との出会いから、新しい道が少しずつ見えはじめてきました。今は、こうして記事を書いている時ではない…


そして、テレビを通じてのブータンの市民との出会い。

これは決め手となりました。


ブータンの女性たち、質素で素朴ながら、とても美しいと思いました。精神的な美しさに溢れていたからです。

外見的な女性美が目立ち強調されている現代日本の社会は、むしろ狂っているのだと気づくことができました。

「もう、惑わされないぞ」

と強く思いました。

これからは、シンプルライフに生きたいと思います。


残念ながら、これからも機械を使うことがあると思うけど、

「本来、機械なんてどうでもいいもの」

と考えて、パソコンを含む機械に振り回されないようでありたいです。使えなくて不便をしたとしても、本来無いものと考えて、ブータン市民のように「知恵」を使って乗り越えていこうと思います。


一週間ほど前なのですが、教育系の求人に応募して次々に失敗した私を励まそうと妻から誘われて見たマザー・テレサのドキュメント・ビデオのとある場面が頭に浮かびました。

それは、マザーがニューヨークに支部を構えるようになった際、教会側が用意していた備品の多くを必要ないと処分してしまったことです。給湯器や扇風機という電気製品はもちろん、高級なカーペットも剥がして処分してしまったのでした。

そこには、ブータンの市民と同じ思想が流れていると感じられました。中世のカトリックの聖人、アッシジの聖フランシスコの思想とも通じているものだと思います。


もっともっと、自然を愛する方向性を持ちたいです。

多分、ブータン市民のようにはいかないけど、自分なりの最小限の持ち物で、「食べたり着たりすることで、明日のことを思いわずらわずに生きていこう」と思います。


参考までに、これはブータン市民が信奉しているチベット仏教の重要な訓戒です。

@正しい見解 欲にふけらず、貪らず、怒らず、損なう心のないこと。

A正しい思い 思慮深いこと。

B正しい言葉 無駄口をきかないこと、嘘をつかないこと。

C正しい行い 殺生、盗み、邪な愛欲を行わないこと。

D正しい生活 人として恥じるような生活はしないこと。

E正しい努力 怠ることなく努力すること。




ここでは、最後の質問になるかもしれません。

皆さんは、ブータン市民の生き方をどう思われますか?
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 16:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月06日

幸福の原理

罪は大きく分けて、二つに分類することができると思います。


その一つは、世の中から何らかの形で制裁を受ける罪。

もう一つは、人の目を逃れた隠された罪。


問題なのは、隠された罪の方です。

なぜなら、この罪は、人からは制裁を受けませんが、

神から制裁を受けることになるからです。


自分は、何も悪いことをしている覚えがないのに、なぜか不幸がつきまとう…

確かに、その人が罪を犯していることは誰にも知られていません。

もし知っている人がいたとしても、隠してくれていることでしょう。


それゆえ、

表向きが良いイメージの人なら、人々からは善人と思われることでしょう。

そうしているうちに、隠れた罪を罪と思わなくなってしまうのです。

だからこそ、隠れた罪により苦しむことになるのです。


人の目を逃れることができても、神の目を逃れることはできなせん。

犯した罪は、どんな小さなものでも、必ず報いを受けます。


良くなりたいと一生懸命努力しているのに、全く実を結ばない。

こんな苦しみからは、早く脱出したい。

どうしたら、自分も幸せになれるのだろうか…


そこで、回心が必要となってきます。

回心とは、罪を悔いることなのでしょうか。

「もう二度と隠れたところでも罪を犯すまい」

と、誓うことなのでしょうか。


実は、そんな甘いものではありません。

誰かを憎んでいるのなら、その相手を「許すこと」なのです。

どんなに嫌なことがあっても、神からの許しを得たいのなら、

不平不満を口に出さず、妬み僻みを口に出さずに、

すべて感謝の心に変えることです。


許すことでしか、真に悔い改めることはできません。

許すことでしか、神から許しを得ることはできません。

許すことでしか、日々の努力が良い実りとなっていかないのです。

そして、許しのあるところに、真実の愛が生まれるのです。

許し合うところに、幸福感と安らぎがあるのです。


まずは、家族の中からはじめよう。

家族の愛を見つめ直し、基本としよう。

隣人に愛を伝えるのは、それからでも遅くないのだと思います。


【アファメーションの言葉】

私は、幸せになるために積極的に人の過ちを許します。

許すことで、自分の隠れた罪が許されるからです。

まず、家族から許すことをはじめよう。


※このフレーズを10回声に出して唱えると、アファメーション(ポジティブな言葉を繰り返し唱えて潜在意識をクリーニングすること)の効果がありますよ。



(この記事は、師匠の高橋洋子先生に学んだことからインスピレーションを得て書きました。感謝!)

私は、しばらくこのテーマに取り組んでいこうと考えています。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:55| Comment(2) | TrackBack(0) | アファメーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月01日

日本人として生きる

生命の輪廻転生を考えると、

前世が欧米人の日本人がいるだろうし、

前世が日本人の欧米人もいるかもしれない。

私は、なぜ日本人なのだろうか?

なぜ自分が、こうして親の元に生まれてきたのだろうか?

ある人の説によると、記憶が消されている自分の前世について学ぶために親の元にうまれてきたというのである。

親を見ると、過去世で生きてきた自分の姿が浮き彫りになるというのだ。

そう考えると、いかなる理由であろうと、親を避けてしまうということは、自分が今ここに存在している意味を見失うことになるように思う。

では、日本人に生まれてきた理由とは?

ここまでの考え方でいうなら、日本人として生き、日本人に学ぶことが必要だからなのだと思う。もし、日本人は嫌いと避けてしまい、欧米人のように生きることでは、自分が存在している意味を見失うのではないかと思うのだ。

輪廻転生を肯定的に受け止めるのなら、この世には、輪廻の途上の人と、輪廻から解脱するための最終段階の人が同時に生きていることになる。

そして、輪廻の途上の人、つまりは後の世も人生をやり直す運命を生きている人は、最終段階の人を鍛えることが人生の役割なのかも知れない。意地悪な人がいたとしても、それは役割でやっていると考えるのだ。その人の考え方を変えようとすることなど野暮なのだ。

最終段階の人とは、前世のさらに前世では、鍛える側の人だったのかもしれないし、すぐ前の世では、惜しいところまで達していた人なのかもしれない。

つまり、この世は、輪廻の途上の人や最終段階の人が混在し、学びの場となっていると考えるべきなのかもしれない。この世は、決して天国ではなく、学びの場なのである。だから人間は、病気もし、怪我もし、死ぬ存在なのだ。

非人間的な考え方をする人がいたとしても、その人を批判したり、恨んだりするのではなく、

「輪廻する人がここにもいる」

と醒めた目で見つめられるのなら激しく心を乱すこともないように思う。テレビのニュース番組等で、評論家たちの批判が耳に付くのだが、人間同士で批判しあうことが野暮なことに思えてならない。憎しみや妬みの念を持つことにどれだけの意味を持つのだろう?

キリスト教では前世について語られていない。また、仏教においても最古層のものになると前世について語られていないのだという。どちらも、輪廻することは考えずに、ひたすら解脱を目的とした教えだからなのかもしれない。最終段階と考えるのは、どうかと思うのだが、輪廻は考える必要がないのだ。

キリストは十字架につけられて亡くなったのだが、その際、二人の犯罪人もキリストの両側に十字架につけられた。一方の者は、キリストを酷く罵ったのだが、もう一方の者は、自分の罪を回心し、キリストを救い主と認めた。キリストは、回心した犯罪人に「はっきり行っておくが、あなたは今わたしと一緒にパラダイスにいる」と亡くなる前に言われたのだった。

その許された犯罪人は決してクリスチャンではない。選ばれた民のユダヤ人でもなさそうだ。では、なぜ救われたのだろう。それは、キリストの十字架とは、洗礼を受けたクリスチャンを贖うためではなく、「人類全ての人の罪を贖う」ことを意味しているからなのだ。つまりそこには、宗教という枠をはるかに超えた救いが存在するのだ。

では、洗礼とは?

それは、その救いを伝える者として「派遣された者」を意味しているのだ。洗礼とは、救われるためのプラチナ・チケットではないのである。

そのことでいうと、この世に未練を残さず、この世に恨みを残さず、空の手のまま(何も持つことなく)回心できた者はパラダイスに行ける(解脱できる)ということではないだろうか。

かなりキリスト教に傾いてしまったので、軌道修正したいと思う。

結局、何を言いたいかというと、私は日本人に生まれてきたということを大切に考えたいと思うのだ。日本人であることを避けるのではなく、日本人に生まれてきたことの意味を見出すべく、日本人に大いに学び、生きていきたいと思うのだ。

そして、死ぬ時、日本人であることも何もかもすべて白紙とし、この世に未練を残さず、恨みを残さず、空の手となって、「確かなるもの」の許に帰りたいと考えている。

日本の大企業は、派遣労働者の人権をまったく無視して理不尽に解雇しているというニュースがこのところ続いている。そこには、働いた者への感謝が微塵も感じられない。大企業とは、何が偉いのだろう…

本来、日本人とは、宗教の教えや戒律に縛られることがなくとも、自然の内に人を慈しむことのできる国民であったと思う。宗教の教えをバックに良心を築いている欧米人とはそこが異なる。そういった本来の素晴らしい特質が、社会システムの欧米化とともに狂ってきているように思えてならない。

欧米化ばかりに目を向けずに狂わされずに、本来、日本人が持ってい美意識や慈しみ深い感性に目を向けて欲しい。

そのためにも、日本人同士で批判し合うのは程ほどにして、お互いを慈しみ合う方向性へと変えていく(取り戻していく)努力をしていきたいものである。

私事だが、今年から私の家族では水道水の水を飲むのをやめ、天然水を汲んできて飲み水としている。なぜか、そのお世話になっている天然水は、「紫波の水分け神社の湧水」にしても、「繋の藤倉神社の清水」にしても、神社のご神木から溢れ出る有難い水なのである。私の母方の祖父は神主であったのだが、そういった不思議な縁についても無視できないことと考えている此の頃である。

大いに日本人であることを大切にしたいと思う。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:50| Comment(5) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もうひとつの生きる道

すべてが振り出しに戻ってしまった。

昨日まで見えていた筈の道が跡形なく消えうせてしまった。

残念ながら、

自分の生き方が完全に間違っていたことを認めるしかない。

完全に打ち砕かれてしまった。

それまで自信を持ってやってきたことも、

単なるエゴにすぎなかったことに気が付くことができた。

自分とは一体何だったのだろう。

これまで努力してきたことは一体何だったのだろう。

あまりに愚かで惨めな自分と向かい合うこととなり、

愕然とするしかなかった。

一時、空しい思いに心が完全に支配されてしまった。

とはいえ、

これも、まぎれもない現実。

苦しいけど、現実と向かい合う以外に何の方法も見出せなかった。

こんな惨めな自分に何が残されているのだろう。

こんな私が、何で生きているのだろう。

いや、何で生かされているのだろう。

自分に何の価値も見出せなくなったのに、なぜか生かされている。

消えて無くなりたい思いなのに、なぜか生かされている。

何で生きなくてはならないのだろう。

・・・

それは、もう一つの生きる道が残されているからだと、

以前に耳にしたある言葉が、ふと頭をよぎった。

「自分の望みに生きるのではなく、神の望みに生きること。」

その時、

私は、神に招かれているのだと気が付いた。

神に愛されているのだと気が付いた。

世に見捨てられるという形で、神は最高の道を示されたのだ。

それまで、信仰的知識を多く得て、

信仰について、誰よりも熱く語ってきたように思う。

実に高慢な人間だった。

しかし、ここまで激しく打ち砕かれなくては、

真の神の御心に触れることはことはできなかったような気がする。

最悪の日は、実は最善の日でもあったのだ。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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