2008年12月10日

アメージング・グレース

Amazing Grace

大いなる恩寵


Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.

アメージング グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる


'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved,
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.

神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから私の心を解き放つ
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか


Through many dangers, toils and snares
I have already come.
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

これまで数多くの危機や苦しみ誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった


 【参考】 世界の民謡・童謡 worldfolksong.com:http://www.worldfolksong.com/songbook/masterpiece/amazing.htm



今年一年、歌の応援ありがごうございました。
これは、「お歳暮」というわけではありませんが、
皆様への感謝の気持ちを込めての録音です。


♪Amazing Grace



♪Schubert Ave Maria (Latin)



♪千の風になって
http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/40697733.html


♪U.Giordano "Nemico della Patria" Opera 《Andrea Chinier》
http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/25944672.html


♪J.S.Bach BWV78 (5)Recitativo (6)Aria
http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/107029020.html#comment


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:40| Comment(6) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月09日

人間、本来無一物

「本来無一物」という言葉は禅語である。

人間、生まれた時は何も持っていない。

同じように、

人間、死ぬ時は何も持って行けない。


昨夜、偶然、「東京大空襲」をテーマにした番組を見た。

そこで、惨状を撮影した、たった一人の男。警視庁カメラマン 石川光陽(当時41歳)が命を掛けて守り抜いた33枚の写真を拝することができた。

その写真には、まるで聖なる預言書を目にするような凄いインパクトがあった。

「人間とは何か?」

長年抱き続けてきた疑問への答えとなるような貴重な体験となった。

人間が… 数え切れない人々が黒焦げになって死んでいる。

東京は、まさに火の海となったのだという。逃げ場所など存在しないのだ。衣服も燃えて、黒焦げの人々は、まさに無一物の状態となっていた。

長年築いてきた幸福も、地位も名誉も、努力して得た卓越した技能も、そして成功も、わずか2時間ほどの空襲で一瞬にして失われてしまったのだ。

黒焦げになった人を見ながら、私の頭によぎった言葉が、「本来無一物」という禅語であった。

私たちは、生まれてきて、そして、いつかは死ぬ存在である。


私たちは、一体どこに向かうために存在しているのだろう。


嫌な言葉。というより、真理の本質から逸れている言葉。

「勝ち組」「負け組」

そして、定職につけない時代。

せっかく仕事を見つけても、いつ失うか分からぬ不安に包まれた時代。

実は、私も経済的に苦しい状況に生きている者の一人である。

こういう時代にあっては、仕事を選んでなんていられないと考えている。

プライドを捨てなきゃ生きてはいけないのだ。

外貨を稼がなきゃ、明日に繋がらない。

「お仕事」なんて綺麗な表現などもう存在しないのだ。「外貨稼ぎ」に出かけるのだ。

「求人」の仕事は酷い現実だけど、「人脈」を築くことにより自分の未来を切り開いていく道は、まだまだ残されている。

日々の修行テーマを持ち、自分を磨き、その上で骨のある人物に近づくこと。そして、どんな小さなチャンスでも与えられたなら、仕えて。仕えて。そして、引き上げてもらうのだ。

だから、現実はどうであれ、明るい未来は残されているように思う。

その日に繋げるためにも、

まずは生きるためにも、「外貨」を稼ぐのだ。

でも、何のために努力するのか?

何を得たとしても、一瞬で失なわれてしまうものなのに…

そう考えると、意味のあることに努力したい。

私としては、これまでのような自分の望みに努力することより、神に望まれていることに努力したいと思うようになった。

不確かなものではなく、確かなものに生きたいからだ。

これから、どんな境遇となろうとも、すべて受け入れるのだ。

苦しくても、不幸なことなんて考えない。それぞれの境遇から、学ぶこと、真理を見出すことを得たいと思う。

がむしゃらに生き、生き抜くことで見えてくる、真理に触れていくのだ。

そう生きていくのなら、一瞬で全てを失うことになったとしても(死ぬ日が来ても)、迷うことなく、神の望みの方向へと導かれていくことができるのではないかと思えてきた。

私は、人類が文明に裏切られる日は、そう遠くないと予測している。文明を手放さなければ、人類が滅びる危機が近づいているのだ。高度に発達した文明といわれるアトランティスが消えたように、全ては消えてなくなってしまうのだ。

それでも、消えてなくならないのは、たとえ「無一物」となっても光を失わない形なき真理と、真理と繋がっている精神ではないかと思うのだ。


あの日、心優しき人ほど多く死んでいったのだという。子どもたちを助けようと、町の人たちを守るのだと…

その愛すべき方々の魂は、真理と繋がって生き続けているのだと、私は信じたい。

また、自分だけが助かりたいと人をはねのけ、そしてはねのけられ死んでいった人も多かったいう生き残った者の証言もあった。

ただ、石川光陽の写真には、前者の姿が多く写し出されていた。

東京大空襲で亡くなった人々の「真実の写真」を拝したことで、多くのことを学ばされたように思えてならない。そして、これからも度々、学ばせてもらいたいと思っている。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月08日

依存症

子供の頃(もちろん、大人になっても本質は変わらない)

悩み事を

親に相談すると、「忙しいのに困った子ね」と怒られ、

先生に相談すると、「ちょっと待ってね」と言われて結局忘れられ、

友人に相談すると、「馬鹿じゃない」とあっけなく無視されて…


そういったようなことが溜まりに溜まり、ストレスとなり、不安が募る原因となっていったように思う。


世の中、思ったようには行かない…


その点、コンビニ行くと、欲しいものが気持ちよいほど簡単に手に入る。

また、吉野家に行って牛丼を注文すると、出てくるのが驚くほど早い。

このレスポンスの良いことの気持ちよさ。快感とでも言うのだろうか。

ある時、コンビニで、客が店員に突っかかっていた、以前、売っていたものが最近売っていないのだと言う。

頭に描いていた欲しいものが、楽しみにしていた確実に得られる筈の快感が得られなかったからなのだろうか?

また、ファミレスで、客がウェイトレスに突っかかっていた、対応が遅いということなようだ。

頭に描いていた、対応の良いウェイトレスのイメージが、新米のウェイトレスにより裏切られてしまったからなのだろうか?

多分、店員が憎いというのではなくて、普段の思うようにいかないストレスが、そこで爆発してしまっているのではないだろうか。つまり、単なるあてつけだと思うのだ。

私の知人には、コンビニやファミレスで店員をしている人がいる。こういう人たちは、カウンセラーではないけど、当たり前の対応をする限りにおいては、ストレスの溜まっている人々の心を間違いなく癒しているお仕事をしているのだと思う(本人にとっては、ストレスが溜まるのだろうけど…)。

つまり、ある意味で、人助けとなっているのだ。

私は、仕事で思うように行かないと、決まってコンビニで美味しいものを買っては食べた。そのことが肥満の原因になったように思う。

肥満にはなったけど、自殺しないで済んだ。

あの頃、それほど追い詰められていた。

コンビニに感謝である。

まさに、

「開いててよかった!」

その行き付けのコンビニがある日、閉店してしまった。

心にぽっかり穴が開いたような気分だった。仕事帰りにもう寄れない。

仕事帰りの明るい気分が、暗い気分に変わってしまった。

これからどうやって、満たされない思いを解消したら良いのだろう。

あの「安心感」は、どうやって得たら良いのだろう。

でも、身体が求めているわけでもないのに、

一時の「安心感」のために買って食べるということは、よく考えてみると健康に良くないことなのだと思うようになった。


少し話は変わるが、

以前に私はブログの記事の中で、ハイレスポンスは、ハイリスクと書いた。焦って悪い判断をしないために、そういう時は「ゆっくりと10秒数える」ようにする。

私の性格上、それはとても重要なこと。そう言いながら、他者にハイレスポンスを求めている矛盾…

ハイレスポンスだからこそいいこと? 絶対にハイレスポンスで考えるべきでないこと?

レスポンス(反応)が遅いと、他者をイライラさせることは否めない。レスポンスが良いことで、相手に安心感を与えられるのは確かだと思う。

しかし、急ぐことがハイリスクとなってしまうことがあるのも事実。事故を起こしては返って多くの人に迷惑を与えることとなってしまう。

そういったことの判断ができることが、優れた大人ということなのかもしれない。


さて、

最近の私は、コンビニに「安心感」を求めなくなった。求める安心感が、別のものへと変わったのだ。

今、一番の安心感は、血圧測定をして血圧が安定していること。血圧計が友となりつつあるようだ。裏を返せば、血圧にいつも不安を感じてきたからなのかもしれない。東京の心の師の助言により、身体と向かい合うようになった。

それまで、健康に不安があるから身体を無視して、返って「不安」を募らせていたような気がする。身体と向かい合ってみると、なんとなく「安心感」が得られるから不思議だ。

身体の声に耳を傾けるようになってから、生活が大きく変わってきた。身体の声を重視して生きていくのが、人間にとっても(他の動物達は本能的にやっている)、本来、最も自然な生き方と言えるのかもしれない。これは、神と触れ合うような感覚ではある。

身体は、私がどんなに投げやりになろうとも、怠ることなく聖なる秩序に従っている。その聖なる秩序に神(確かなるもの)を感じるのだ。


あなたは、どうやって「安心感」を得ていますか?
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

歴史に学ぶ

「この難局を○○だったら、どう考えて乗り切るだろう」

そういう発想を持てる人は逆境に強いのだと思います。

今年のことです。私は、お世話になっているある方の肩を持とうとして、その方が最も嫌っている人と派手にトラブルを起こしてしまうことがありました。

そのことを東京の心の師匠に相談したところ、「すぐに謝りに行きなさい」と、言われ、トラブルを起こした相手方と和解することとなりました。すると、私がお世話になっている方の方が偏った考えであったことに気づきました。

相手方を悪い人と決め付けてしまい、あれこれ対策を考えた結果、逆に悪い判断をしてしまったことに気づきました。むしろ、相手方とよく語り合い、相手の言い分も知っておく必要があったのです。腹を割って話してみると悪い人でもないことに気づくものです。

現在、大ヒットしているNHKの大河ドラマ「篤姫」での篤姫の名セリフであり、彼女が数多くの難局を乗り切ってきた人生哲学でもある言葉、

「一方を聞いて沙汰するな」

は、私の座右の銘となりそうです。

篤姫は歴史書が大好きで、少女時代、歴史書をむさぼり読んだとのことです。

私も、篤姫に習い、歴史と人物について詳しく学びたいと思うようになりました。

そして、逆境の時、「○○だったら、この状況を、どう乗り切ることを考えるだろう」といった視点を持ちたいと思います。

現在の私は、かなり厳しい状況下におります。

経済的にも、健康的にも、さらには学歴や能力的壁にも苦しんでいます。

とはいえ、悲観もせず、諦めてもいません。

ただ、ここを乗り切るためには知恵が必要となってきます。

実は最近、素晴らしい知恵と導きに出会い、まだまだ先のこととはいえ、乗り切れる予測と自信を得ています。

そのことは、証を得ていないゆえ、まだ書くわけにはいきませんが、数年後、きっと書けると信じています。

これからも「温故知新」ではありませんが、目先のことばかりに捕われずに、古きものに学ぶ姿勢を大切にして生きていこうと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 10:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月02日

確かなるもの

このことは、少々乱暴な言葉に受け止められるかもしれない。


しかし、冷静に考えてみると、

親の言葉は確かなるものではない。

先生の言葉は確かなるものではない。

まして、友人の言葉は確かなるものではない。

それどころか、宗教の言葉も確かなるものとはいえないのかもしれない。

聖書は、キリストの証人が書いたものではあるが、その書いた者が確かなるものというわけではない。

マタイ伝を書いたマタイは、確かなるものを見た者であっても、彼自身が確かなるものではない。つまり、不完全な人間が書いたのだ。

マルコ伝を書いたマルコも、確かなるものを見た者であっても、彼自身が確かなるものではない。つまり、彼も不完全な人間なのだ。

つまり、キリストが確かなるものであったとしても、あくまで不完全な彼らの頭で考えられる範囲で書かれたキリスト像に過ぎないのだ。

その証拠に、キリストを語る者。つまりはクリスチャンの語る言葉に矛盾や疑問が払拭できないのはそこにある。

それは、人間が確かなるものを完全に理解した者になれないからで、仕方ないことではある。

確かなるものと、そうでないものとの違いを見極めることは、きわめて難しい。

とはいえ、確かなるものに触れた者とそうでない者には、人生の価値観に大きな差が出て当然なのだと思う。

では、聖書を通して確かなるものに触れ合えるかというと、そうとは言い切れないところがある。確かに知識は増すかもしれないが、人の心から矛盾や疑問を払拭する力は、その時点においては得られないのだ。

聖書に詳しくても、聖書に生きていない人がいかに多いことか。

聖書は、そういったヒントの宝庫ではあるが、あくまでヒントに過ぎないのだ。

確かなるものは、そういった書物ではなく、直接、確かなるものに触れ合わない限り知ることはできないのではないだろうか。

そして、確かなるものを見つけたとしても、それは確かなるもののほんの一部分に過ぎないのである。とはいえ、確かなるもののほんの一部に触れただけでも、間違いない良い方向性が生まれてくるのだ。

つまり、確かでないものを見て満足しているより優れているということなのだ。

私たちは、普通に生きていて、確かでないものしか目から入ってこない。確かでないものしか耳から聞こえてこないのだ。それは、確かでない者たちによって社会が成り立っているからである。

確かでないものの考え方に左右され、確かでない矛盾と疑問を胸に抱いて生きなくてはならないのが、人間という存在なような気がする。

人間とは、確かでない価値観に囲まれ、矛盾を感じ、嫌悪感を抱き、苦しんでいるのではないだろうか。

ところが、間違いなく私たちの身体は、それとは全く逆で、確かなるものにより成り立っているのである。私たちが望まなくても、心臓は規則正しく動き、細胞たちはその役割を確かなる秩序により果たしている。

それは、地球が、そして宇宙が成り立っているのと全く同じことである。

そこには、確かなる秩序が存在している。

確かなるものは、私たちと共に、間違いなく存在しているのだ。

私たちは、

親に確かなるものを求めるから得られないのではないだろうか。

先生に確かなるものを求めるから得られないのではないだろうか。

まして、友人に確かなるものを求めても得られるわけがないのだ。

それどころか、宗教に確かなるものを求めても得られるとは限らない。

私は、「伝統的に伝えられてきた神を疑っている」と言うと、ある人はこう言うことだろう。

「では、あなたは神を信じていないのですか」

その質問には、こう答えたい。

「それが本当の神なのかは分からないと言うしかないけど、確かなるものは、間違いなく存在していると確信を得ています」

だから、もしかすると人間の都合で生み出されたのかもしれぬ宗教という物差しで、人を裁くことだけはしたくないのだ。

私個人の方向性としては、キリストの教えを愛してはいるけど、誰かに教え込まれたことを覚えるような形ではなくて、自分の心に納得がいく、あくまで確かなるものを見出したいのが真の目的なような気がするのだ。

自分の心に嘘をついてまで信じ込む気持ちはさらさらない。

そうではなく、宇宙の秩序と同じ完全なるものを見出したいと願うのだ。もしかすると、キリストを知らない人でも、その完全なる宇宙の秩序を別の方法で見出すことができるような気がしてならない。

だから、

一番良い方法とは、完全な秩序を与えている確かなるものに目を向け。

その確かなるものに耳を傾けることではないかと思うのだ。

つまり、確かなるものは、私たちを決して裏切らない。

確かなるものに目を向ける第一歩は、身体と対話することではないだろうか。

不確かな人の(自分の)心と対話しようとするから困惑してしまうのだ。

そうではなく、身体の細胞たちと語り合うのだ。

その小宇宙に目を向けるのだ。

自分の身体の中にある、その小宇宙は、大空の大宇宙とも繋がっている真理でもあるのだ。

「しろねこさんはどんな人」と私の母に聞くと、私の母の感じ取ったしろねこさん像をそこから知ることができるだろう。

私の友人に「しろねこさんはどんな人」と聞くと、その友人の感じ取ったしろねこさん像をそこから知ることができるだろう。

では、本人に「しろねこさんはどんな人」と聞くと、一番正しいしろねこさん像を知ることができるかというと、そうではないような気がする。多分、自分を過大評価しているか、過小評価しているなど、歪んだしろねこさん像がそこにあることだろう。

一番正しい方法は、確かなるものに、「しろねこさんはどんな人」と聞くことではないだろうか。

多分、そういった方法で人物像について教えてくれる人が、某局の人気テレビ番組「オーラの泉」のスピリチュアル・カウンセラー、江原啓之さんのような人ではないかと思う。といって、私は、江原さんを疑いの目で見てはいるが…

私自身が、その確かなるものから聞いたわけではないからである。

でも、江原さんに聞かなくても、私たちはすでに確かなるものと触れ合っているのだ。

自分の心に聞くのでもなく、他人の心に聞くのでもなく、確かなるもの直接聞くのが最も優れているのではないだろうか。

その確かなるものを人々は神と言うのかもしれない。あるいは仏のようなものなのかもしれない。とはいえ、人間が勝手に付けた名前ではある。

人類は太陽に、太陽と名前と付けたとしても、太陽に名前が書いてあるわけではないし、太陽にとっては、それはどうでもよいものなのだと思う。

太陽は太陽として、ひたすら役割を果たしているのだから。

人間だけが、自分の役割を見失った存在ではないだろうか。

完全な秩序のある宇宙にあって、そういうマイナスの存在があるということは注目するに値するのだが…

自由意志(愛を見出すためのもの)

それは、人間が人間であることを示すもの。そして不確かで矛盾があり、悩みの源ともいえる価値観とも受け止めることができる。

確かなるものは、自然のあらゆるところに見出すことができると思う。人間に目を向けさえしなければ…

うつ病は、心の病ではない。

脳の病気、つまりは身体の病気なのだ。

だから、心の持ち方を変えることで治るものではない。

良い考え方を良いと理解できる心があったとしても、治らないのがうつ病なのだ。

うつ病は、不確かな心に目を向けたら、ますます泥沼にはまってしまう。確かでないものに矛盾を感じ、嫌悪感を抱き、苦しみを深めていくのだ。

そうではなく、身体に目を向けるのである。身体に教えてもらうのだ。

身体が何を求め、何を望んでいるのか。

あるいは、自由意志を持たぬ人間以外の秩序ある存在に目を向けるのでも良いのかもしれない。大自然に心を向けるのだ。

旧約聖書に登場するモーセや預言者たちのように、山に登り、直接、神と向かい合ったように…

朝の聖なる時間に自分の身体の声に耳を傾け、そこから神と、直接、向かい合うことも可能なのかもしれない。

だから、何よりも、

「確かなるもの」に聞くのが一番なのだと思うのだ。

そこに、うつ病を治す薬が存在するように思えてならない。

確かなるものに触れ合うには、心を静かにして、確かなるものへひたすら耳を傾けるしかない。

うつ病は、アドバイスで治る病気ではない。


■「うつ病」の人に、これだけは言ってはいけない、やってはいけないワースト5

1.「がんばれ」と励ます
うつ病になりやすいタイプは、そもそも完ぺき主義できまじめ。がんばった結果、心と体を壊しているのに、さらに「がんばれ」と言われると「がんばれない自分」を追い詰めてしまいがちです。


2.さぼっている・怠けていると判断する
元気に振る舞いたくてもそうできないうつの人にとって、さぼっている、怠けていると判断されるのは苦しいものです。「いつもの自分に戻りたいのに、戻れない」という気持ちを察してあげましょう。


3.「心配しているよ」と伝える
ふだんから人に気を使うことが多いので、「自分のせいで、相手に心配をかけている」と思わせるのは、負担になります。気にかけていることを明らさまに伝えるのではなく、できるだけふだんと変わらない接し方をしてください。


4.行動や判断をせかす
うつ状態のときは、判断力や注意力が鈍ります。また、頭痛や肩こり、腰痛といった身体症状もあり、体が思うように動きません。いつもより時間がかかるのは仕方がないと思って、焦らせないようにすること。


5.相手の言い分や言動を否定する
「自分には価値がない」「自分がいないほうが周囲は幸せだ」などと思いがちなうつの人は、他人に否定されるとなおのこと自己否定をします。「ふうん、そうなんだ」と相づちをうち、ありのままを受け入れるのがベストです。

 参考文献: ”なんとなく”を払拭! 「うつ病」を正しく理解する 監修 : 医療法人社団慈雲堂内科病院副院長 丹生谷晃代先生。  MSN ビューティスタイル 2008 Microsoft



うつ病は、考え方で克服できるものではない。良い考え方は理解できても、それができないことで苦しんでいる。

うつ病は、もちろんせかされたり責められて苦しむのだが、同情されたり心配されても苦しむものである。

自分の身体と異なる者からのアドバイスは、マイナスになることはあってもプラスになることはない。自分に起こっている異常な感覚は、、まったく同じという者はいないからだ。100人いたら、100人違った身体の異常に苦しんでいるのだ。誰かの、それまでの経験で理解できるということはあり得ないと考えるべきである。

つまり、「言葉」で救える病気ではないのだ。では、薬で治るかというと、そういう簡単な問題ではない。薬は、依存性があり抜け出せない泥沼となるゆえ、返って苦しみを深めることにもなりかねないからだ。

「うつ病」の人との一番良い接し方は、「そっとしておくこと」である。自分の身体と対話しながら、自分の中から治す方法を見つけていくのが一番良い治療法なのだと思う。

美しい自然に触れ合うことで、脳内に快の物質があふれ、優れた薬として働くこともあるかもしれない。

「自分の身体と対話する時間のゆとり」を持つことが最も効果的な治療法となるのだ。自分の身体が最善の方法を教えてくれる。そして、自分ならではの治し方を見つけていくのである。

「確かなるものに触れ合うこと」

しかも、強制されてではなく、自分の意思で、確かなるものへ心を向けること。

私が感じるには、確かなるものは、決して優しい方とは思わない。完全なる調和を受け入れるには、それ相応の修行を覚悟する必要があるように思えるからだ。聖書で言う「固い食物」かもしれない。入門者に与えられる「柔らかい食物」とは違う。

多くの人は、厳しい修行をすると、それと引き換えとなる素晴らしい未来が手に入ると信じている。しかし、確かなるものが与えようとする修行とは、この世でご利益を得ることではない。宇宙を動かしている真理(聖なる調和)にひたすら生きる者になるためだからである。意味が無いようでいて、意味があるのだ。そのことを言葉で表現することは難しい。

でも、心から納得し、矛盾や疑問が感じられないものならば、そうであっても受け入れるに値すると思うのだ。

そういった感性を大切にキリスト教を見直してみるとき、真のキリストと向かい合えるような気がする。

聖書を読む際、自分の希望や期待を込めて読むようなことはするまいと思う。また、できるだけ正しい歴史的背景も学ぶ厳しさも持ちたい。異文化によって歪められた考え方は、間違ったものとして冷静に受け止めたい。とはいえ、それを正そうとも思わない。あくまで自分に与えられた修行のようなものであり、正そうとする行為自体に妥協があるからだ。真理は、極めようとして極められるものではないのだ。真理の前に人は言葉を失うしかないのだ。

真理は、決して裏切らない。だから、確かなるものを見つめる値打ちがあるのだと思う。

うつ病は、ふさぎ込む病気ではあるが、ふさぎ込んで考える時間は、もしかすると恵みの時間へと変わる可能性を秘めているように思えてならないのだ。


この文章は、「うつ病」について思いめぐらしていて、ふとインスピレーションを得て書きなぐったものである。それゆえ、まとまりのない酷いものがあるが、時間のある時に、じっくり考えて良い形にまとめてみたいと思う。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月01日

今日から師走

プライドを持って生きてきたことが裏目に出て、自分を見失っていた。

立派に生きようと思うと苦しくなるだけ。

生きていれば、良いこともあると楽天的に考えることにした。

生きていればこそ。

だから、自分のメンテナンスを忘れないようにしようと思う。

身体が健康になれば、好転していくような気がする。

今月は、とにかくゆとりを持って時間を過ごしたい。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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