このことは、少々乱暴な言葉に受け止められるかもしれない。
しかし、冷静に考えてみると、
親の言葉は確かなるものではない。
先生の言葉は確かなるものではない。
まして、友人の言葉は確かなるものではない。
それどころか、宗教の言葉も確かなるものとはいえないのかもしれない。
聖書は、キリストの証人が書いたものではあるが、その書いた者が確かなるものというわけではない。
マタイ伝を書いたマタイは、確かなるものを見た者であっても、彼自身が確かなるものではない。つまり、不完全な人間が書いたのだ。
マルコ伝を書いたマルコも、確かなるものを見た者であっても、彼自身が確かなるものではない。つまり、彼も不完全な人間なのだ。
つまり、キリストが確かなるものであったとしても、あくまで不完全な彼らの頭で考えられる範囲で書かれたキリスト像に過ぎないのだ。
その証拠に、キリストを語る者。つまりはクリスチャンの語る言葉に矛盾や疑問が払拭できないのはそこにある。
それは、人間が確かなるものを完全に理解した者になれないからで、仕方ないことではある。
確かなるものと、そうでないものとの違いを見極めることは、きわめて難しい。
とはいえ、確かなるものに触れた者とそうでない者には、人生の価値観に大きな差が出て当然なのだと思う。
では、聖書を通して確かなるものに触れ合えるかというと、そうとは言い切れないところがある。確かに知識は増すかもしれないが、人の心から矛盾や疑問を払拭する力は、その時点においては得られないのだ。
聖書に詳しくても、聖書に生きていない人がいかに多いことか。
聖書は、そういったヒントの宝庫ではあるが、あくまでヒントに過ぎないのだ。
確かなるものは、そういった書物ではなく、直接、確かなるものに触れ合わない限り知ることはできないのではないだろうか。
そして、確かなるものを見つけたとしても、それは確かなるもののほんの一部分に過ぎないのである。とはいえ、確かなるもののほんの一部に触れただけでも、間違いない良い方向性が生まれてくるのだ。
つまり、確かでないものを見て満足しているより優れているということなのだ。
私たちは、普通に生きていて、確かでないものしか目から入ってこない。確かでないものしか耳から聞こえてこないのだ。それは、確かでない者たちによって社会が成り立っているからである。
確かでないものの考え方に左右され、確かでない矛盾と疑問を胸に抱いて生きなくてはならないのが、人間という存在なような気がする。
人間とは、確かでない価値観に囲まれ、矛盾を感じ、嫌悪感を抱き、苦しんでいるのではないだろうか。
ところが、間違いなく私たちの身体は、それとは全く逆で、確かなるものにより成り立っているのである。私たちが望まなくても、心臓は規則正しく動き、細胞たちはその役割を確かなる秩序により果たしている。
それは、地球が、そして宇宙が成り立っているのと全く同じことである。
そこには、確かなる秩序が存在している。
確かなるものは、私たちと共に、間違いなく存在しているのだ。
私たちは、
親に確かなるものを求めるから得られないのではないだろうか。
先生に確かなるものを求めるから得られないのではないだろうか。
まして、友人に確かなるものを求めても得られるわけがないのだ。
それどころか、宗教に確かなるものを求めても得られるとは限らない。
私は、「伝統的に伝えられてきた神を疑っている」と言うと、ある人はこう言うことだろう。
「では、あなたは神を信じていないのですか」
その質問には、こう答えたい。
「それが本当の神なのかは分からないと言うしかないけど、確かなるものは、間違いなく存在していると確信を得ています」
だから、もしかすると人間の都合で生み出されたのかもしれぬ宗教という物差しで、人を裁くことだけはしたくないのだ。
私個人の方向性としては、キリストの教えを愛してはいるけど、誰かに教え込まれたことを覚えるような形ではなくて、自分の心に納得がいく、あくまで確かなるものを見出したいのが真の目的なような気がするのだ。
自分の心に嘘をついてまで信じ込む気持ちはさらさらない。
そうではなく、宇宙の秩序と同じ完全なるものを見出したいと願うのだ。もしかすると、キリストを知らない人でも、その完全なる宇宙の秩序を別の方法で見出すことができるような気がしてならない。
だから、
一番良い方法とは、完全な秩序を与えている確かなるものに目を向け。
その確かなるものに耳を傾けることではないかと思うのだ。
つまり、確かなるものは、私たちを決して裏切らない。
確かなるものに目を向ける第一歩は、身体と対話することではないだろうか。
不確かな人の(自分の)心と対話しようとするから困惑してしまうのだ。
そうではなく、身体の細胞たちと語り合うのだ。
その小宇宙に目を向けるのだ。
自分の身体の中にある、その小宇宙は、大空の大宇宙とも繋がっている真理でもあるのだ。
「しろねこさんはどんな人」と私の母に聞くと、私の母の感じ取ったしろねこさん像をそこから知ることができるだろう。
私の友人に「しろねこさんはどんな人」と聞くと、その友人の感じ取ったしろねこさん像をそこから知ることができるだろう。
では、本人に「しろねこさんはどんな人」と聞くと、一番正しいしろねこさん像を知ることができるかというと、そうではないような気がする。多分、自分を過大評価しているか、過小評価しているなど、歪んだしろねこさん像がそこにあることだろう。
一番正しい方法は、確かなるものに、「しろねこさんはどんな人」と聞くことではないだろうか。
多分、そういった方法で人物像について教えてくれる人が、某局の人気テレビ番組「オーラの泉」のスピリチュアル・カウンセラー、江原啓之さんのような人ではないかと思う。といって、私は、江原さんを疑いの目で見てはいるが…
私自身が、その確かなるものから聞いたわけではないからである。
でも、江原さんに聞かなくても、私たちはすでに確かなるものと触れ合っているのだ。
自分の心に聞くのでもなく、他人の心に聞くのでもなく、確かなるもの直接聞くのが最も優れているのではないだろうか。
その確かなるものを人々は神と言うのかもしれない。あるいは仏のようなものなのかもしれない。とはいえ、人間が勝手に付けた名前ではある。
人類は太陽に、太陽と名前と付けたとしても、太陽に名前が書いてあるわけではないし、太陽にとっては、それはどうでもよいものなのだと思う。
太陽は太陽として、ひたすら役割を果たしているのだから。
人間だけが、自分の役割を見失った存在ではないだろうか。
完全な秩序のある宇宙にあって、そういうマイナスの存在があるということは注目するに値するのだが…
自由意志(愛を見出すためのもの)
それは、人間が人間であることを示すもの。そして不確かで矛盾があり、悩みの源ともいえる価値観とも受け止めることができる。
確かなるものは、自然のあらゆるところに見出すことができると思う。人間に目を向けさえしなければ…
うつ病は、心の病ではない。
脳の病気、つまりは身体の病気なのだ。
だから、心の持ち方を変えることで治るものではない。
良い考え方を良いと理解できる心があったとしても、治らないのがうつ病なのだ。
うつ病は、不確かな心に目を向けたら、ますます泥沼にはまってしまう。確かでないものに矛盾を感じ、嫌悪感を抱き、苦しみを深めていくのだ。
そうではなく、身体に目を向けるのである。身体に教えてもらうのだ。
身体が何を求め、何を望んでいるのか。
あるいは、自由意志を持たぬ人間以外の秩序ある存在に目を向けるのでも良いのかもしれない。大自然に心を向けるのだ。
旧約聖書に登場するモーセや預言者たちのように、山に登り、直接、神と向かい合ったように…
朝の聖なる時間に自分の身体の声に耳を傾け、そこから神と、直接、向かい合うことも可能なのかもしれない。
だから、何よりも、
「確かなるもの」に聞くのが一番なのだと思うのだ。
そこに、うつ病を治す薬が存在するように思えてならない。
確かなるものに触れ合うには、心を静かにして、確かなるものへひたすら耳を傾けるしかない。
うつ病は、アドバイスで治る病気ではない。
■「うつ病」の人に、これだけは言ってはいけない、やってはいけないワースト5
1.「がんばれ」と励ます
うつ病になりやすいタイプは、そもそも完ぺき主義できまじめ。がんばった結果、心と体を壊しているのに、さらに「がんばれ」と言われると「がんばれない自分」を追い詰めてしまいがちです。
2.さぼっている・怠けていると判断する
元気に振る舞いたくてもそうできないうつの人にとって、さぼっている、怠けていると判断されるのは苦しいものです。「いつもの自分に戻りたいのに、戻れない」という気持ちを察してあげましょう。
3.「心配しているよ」と伝える
ふだんから人に気を使うことが多いので、「自分のせいで、相手に心配をかけている」と思わせるのは、負担になります。気にかけていることを明らさまに伝えるのではなく、できるだけふだんと変わらない接し方をしてください。
4.行動や判断をせかす
うつ状態のときは、判断力や注意力が鈍ります。また、頭痛や肩こり、腰痛といった身体症状もあり、体が思うように動きません。いつもより時間がかかるのは仕方がないと思って、焦らせないようにすること。
5.相手の言い分や言動を否定する
「自分には価値がない」「自分がいないほうが周囲は幸せだ」などと思いがちなうつの人は、他人に否定されるとなおのこと自己否定をします。「ふうん、そうなんだ」と相づちをうち、ありのままを受け入れるのがベストです。
参考文献: ”なんとなく”を払拭! 「うつ病」を正しく理解する 監修 : 医療法人社団慈雲堂内科病院副院長 丹生谷晃代先生。 MSN ビューティスタイル 2008 Microsoft
うつ病は、考え方で克服できるものではない。良い考え方は理解できても、それができないことで苦しんでいる。
うつ病は、もちろんせかされたり責められて苦しむのだが、同情されたり心配されても苦しむものである。
自分の身体と異なる者からのアドバイスは、マイナスになることはあってもプラスになることはない。自分に起こっている異常な感覚は、、まったく同じという者はいないからだ。100人いたら、100人違った身体の異常に苦しんでいるのだ。誰かの、それまでの経験で理解できるということはあり得ないと考えるべきである。
つまり、「言葉」で救える病気ではないのだ。では、薬で治るかというと、そういう簡単な問題ではない。薬は、依存性があり抜け出せない泥沼となるゆえ、返って苦しみを深めることにもなりかねないからだ。
「うつ病」の人との一番良い接し方は、「そっとしておくこと」である。自分の身体と対話しながら、自分の中から治す方法を見つけていくのが一番良い治療法なのだと思う。
美しい自然に触れ合うことで、脳内に快の物質があふれ、優れた薬として働くこともあるかもしれない。
「自分の身体と対話する時間のゆとり」を持つことが最も効果的な治療法となるのだ。自分の身体が最善の方法を教えてくれる。そして、自分ならではの治し方を見つけていくのである。
「確かなるものに触れ合うこと」
しかも、強制されてではなく、自分の意思で、確かなるものへ心を向けること。
私が感じるには、確かなるものは、決して優しい方とは思わない。完全なる調和を受け入れるには、それ相応の修行を覚悟する必要があるように思えるからだ。聖書で言う「固い食物」かもしれない。入門者に与えられる「柔らかい食物」とは違う。
多くの人は、厳しい修行をすると、それと引き換えとなる素晴らしい未来が手に入ると信じている。しかし、確かなるものが与えようとする修行とは、この世でご利益を得ることではない。宇宙を動かしている真理(聖なる調和)にひたすら生きる者になるためだからである。意味が無いようでいて、意味があるのだ。そのことを言葉で表現することは難しい。
でも、心から納得し、矛盾や疑問が感じられないものならば、そうであっても受け入れるに値すると思うのだ。
そういった感性を大切にキリスト教を見直してみるとき、真のキリストと向かい合えるような気がする。
聖書を読む際、自分の希望や期待を込めて読むようなことはするまいと思う。また、できるだけ正しい歴史的背景も学ぶ厳しさも持ちたい。異文化によって歪められた考え方は、間違ったものとして冷静に受け止めたい。とはいえ、それを正そうとも思わない。あくまで自分に与えられた修行のようなものであり、正そうとする行為自体に妥協があるからだ。真理は、極めようとして極められるものではないのだ。真理の前に人は言葉を失うしかないのだ。
真理は、決して裏切らない。だから、確かなるものを見つめる値打ちがあるのだと思う。
うつ病は、ふさぎ込む病気ではあるが、ふさぎ込んで考える時間は、もしかすると恵みの時間へと変わる可能性を秘めているように思えてならないのだ。
この文章は、「うつ病」について思いめぐらしていて、ふとインスピレーションを得て書きなぐったものである。それゆえ、まとまりのない酷いものがあるが、時間のある時に、じっくり考えて良い形にまとめてみたいと思う。