2009年01月29日

大須賀君

しろねこは、10歳の時にスキー事故で、左腕の関節を複雑骨折する重傷を負いました。左腕の切断手術は免れましたが、3度の大手術をし、半年近くも入院しました。

退院後も毎日午前中にはリハビリに通わなくてはなりませんでした。左手に脈が打つようになるのに1年近く掛かりました。また、左腕の機能が回復し、指が動くようになるのに、まる2年の時間を費やさなくてはなりませんでした。あとで親から聞いたのですが、医者は一生障害が残ると宣告したとのこと、回復したのは奇跡なのだそうです。

クラスメートにとって、しろねこは「午後からの人」でした。

退院後まもなくの算数のテストの成績は、わずか8点でした。他の科目も20点以下だったと思います。何といっても、入院中は寝たきりで何もできない状態でしたから。

いじめっ子のイジメのターゲットになったこともありました。あまりに辛い状況に耐え切れず、2階の教室から飛び降り自殺を図ろうとしましたが、クラスメートたちに止められて思い直すといったこともありました。

そんなしろねこに、「一緒に勉強しよう」と、優しく声をかけてくれたお友達がいました。
クラスメートの大須賀君です。

その日から、毎日放課後に、大須賀君の家で勉強をするようになりました。

理科のテストでのことです。なんとクラスで、しろねこと大須賀君の二人だけが100点を取りました。

その時の嬉しいことったらありませんでした。しだいに、他の科目でも良い成績が取れるようになっていきました。

しかし、その喜びもつかの間。大須賀君は、仙台に転校していきました。

お別れの盛岡駅で、しろねこは大須賀君に一番大切にしていたプラモデルをプレゼントしました。別れた後、涙が溢れて止まらなくなりました。

今考えると、しろねこが、出会う人にやさしく接することができるようになれたのは、この時の大須賀君の影響なのだと思います。それより、彼に出会わなかったなら、しろねこは勉強の遅れを取り戻す事ができず、大怪我も克服できず、暗い人生を歩んでいたのかもしれません。

もし、大須賀君に出会わなかったなら…

わずか数ヶ月だけのお付き合いだったけど、大須賀君の事を思い出すと、いい思い出しか浮かばないんです。

今、どうしているのだろう…

彼は、しろねこにとって、まさに天使のような存在でした。
きっと神様が出会わせてくださった人なんだと思います。

ほんとうに苦しい時の出会いって、そういった神様の愛が注がれているように思えてなりません。他には見逃してきたばかりだったように思います。でも、この時だけは…

感謝を込めて!

(2006年12月1日記)


※しばらく記事の更新はお休みしますが、コメントへのお返事は書きたいと思います。バックナンバーをお読みになってのご意見・ご感想・アドバイス等、どしどしお寄せください (=^・^=)ノ


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:20| Comment(6) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月28日

キリスト教一致祈祷会に出席して

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昨日、カトリックやプロテスタントという宗派を超えた祈祷会に出席する機会を得ました。

場所は、日本基督教団 盛岡松園教会で、19時から、その祈祷集会が始まりました。司牧された牧師さんは女性の方でしたが、ご説教も含め、感動的な礼拝へと導いてくださいました。終了後、私は黙っていられずに、牧師さんにその感動を伝えました。

盛岡市内のほとんどの教会から、運動に関心のある方が集まり、共にお祈りしました。1教会に集まる小さな集会ではなく、いつの日か、大きなホールに集まるような集会へと発展できるよう、これからも係わっていきたいと思いました。

牧師さんの素敵な説教からのメモを下記に記します。残念ながら、私のつたない文章では、牧師さんの熱いハートまでは伝えることはできません。礼拝堂内は、彼女の美しい心から発せられる神聖なるオーラに包まれていました。


エゼキエル書には、分裂からの回復の預言が書いてあります…

新しいイスラエル、2本の木が1本の木になるのは、人間の力ではなく、主ご自身によるものです。福音の恵みの力、十字架の贖いによるものなのです。

そのために重要な2つのこと。民の清めと、平和の契約を結ぶこと。そして、私たち兄弟姉妹が、民族、国籍、伝統、身分の違いを超えて、神の許に一致することを求めることによって実現するものなのです。

ヨハネの福音書には、キリスト者が一つになることは、この世に対する効果的形です。「私が彼らの内におり、あなたがたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と書いてあります。

悲しいことに、私たちには、同じ聖書を学ぶ者同士で、互いにいがみあってきた悲しいた歴史があります。昨年末においても、イスラエルにおいて、祈りあうのでなく、互いの違いを受け入れることができずに、感情をむき出しにして殴りあう聖職者の姿がテレビで放映されました。これ実には悲しむべきことです。

これは、私たちの(政治的な)力、そして努力では、乗り越えられる問題ではありません人間の力ではなく、主ご自身による一致なのです。

ですから、すべての人が神の許に一つになるように祈り合いましょう。この一致とは、祈り合いによって実現するものなのです。

互いに愛し合うことで実現する一致なのです。

悪に勝利する道は、他にありません。神様と愛に従順に従うことによる一致なのです。

この世は決して安全な場所ではありません。しかし、互いに励まし合い、愛し合い、厳しい苦難を乗り越えて、その使命に生きる時、私たちは主に聖別された者となれるのです。

神様に私たち自身を捧げて生きていきましょう。


(ここからは私の文章です)

初代教会においては、キリストが亡くなって、わずか50年も経ずにクリスチャンたちの間に亀裂が起こっていたようです。最も遅く書かれたと言われる『ヨハネの福音書』や『ヨハネの手紙』(使徒ヨハネの弟子の長老ヨハネによる)を読むと、その嘆きが伝わってきます。古い方の福音書には見られない「互いに愛し合いましょう」という呼びかけのフレーズが随所に見られます。

私たちの教会の中でも、派閥というかお友達?グループのようなものができており、互いにいがみあっているところがあります。そこに人間の弱さが感じられてなりません。聖書を読んでキリスト教に感銘を受けた人が、教会にやってきてつまずくことも少なくないようです。そういった人間関係に失望して教会を離れていく人が絶えないのも事実です。

このことは、宗派を超えて、あらゆる教会が抱える問題であると思います。自由意志における大きな課題ともいえます。

信仰による自由を掲げるキリスト教は、初代教会以来、常にそういった危機と背中合わせで続いてきたように思います。ですから、教会内の空気がマンネリ化しないよう、今回のような集まりは大切なのではないかと感じられました。

互いの違いを認め合い、共通の福音に立ち返り、共に真の一致を願い祈り合う時、真のキリストの教えに近づけるように思うのです。

キリストの教えとは、口で語るだけのものではありません。そのことを行動に移し、愛を伝えることにあります。つまり、キリスト教の枠をも超えて、全ての人と愛の絆を築くことが重要なのです。

互いの違いを認め合うことは、単にキリスト教の宗派にとどまらず、全ての宗教、さらには全ての人が持つ人生哲学も含めて大切にするべき問題です。

私の場合、親戚付き合いを大切にするためにも(自分の魂のルーツを知るためにも)、仏教の檀家を守る者としての責任もあります。幸い、仏教の教えとキリスト教の教えはリンクしやすい面があるので尊重し合えるものと考えています。

神や仏を受け入れられない人でも、私たち身体の中にもあり、宇宙全体にも及ぶ、完全なる秩序を与えている確かなるもの(Something Great)の存在は否定することが難しいと思います。人間、誰もが、それぞれ違いつつも良心へのチャンネルを持っているのです。それを批判したり否定することは、人類全体の成長を妨げるものであると思うのです。

私は、誇張された独善的な正義等に惑わされず、宗教の枠を超えて、人々を愛の絆で結ぶための活動ができるような人間へと成長していきたいと思います。

人類が神の愛により一致することを考えない限り、利益を優先する考え方を捨て、文明をある程度捨てない限り、私たちがこの地球で生きられる限界がすぐそこまで来ているように思います。

私は、人類滅亡のシナリオから脱する奇跡を信じたいです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 15:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月25日

(13)生物の8対2の法則

とある幼稚園で次のことを実験したのだそうです。

「皆でお掃除をしよう」

でも、お掃除に参加したのは、約2割の園児だけで、約8割の園児は怠けて何もしなかったのだそうです。

翌日、昨日お掃除をした約2割の園児をお休みさせて、昨日おさぼりしていた約8割の園児にお掃除をさせたのだそうです。

すると、昨日さぼっていた筈の園児達のうち約2割がお掃除をし、やはり残る約8割の園児は怠けて何もしなかったのだそうです。

翌日、さらに、前日と前々日にお掃除した園児をお休みさせて、昨日おさぼりしていた約8割の園児にお掃除をさせたところ、やはり同じ結果が出たのだそうです。

これは、何も園児たちだけの問題ではなく、働き蜂やアリにも同じように見られる現象なのだそうです。

つまり、働き蜂といっても、8割は怠けているんですね。

そう考えると、頑張れないことは、実は異常なのではなくて、当たり前のこと考えられるのではないでしょうか。

「何で皆、頑張らないんだ」なんて怒鳴っている上司は、「生き物の性質」をわかっていないというか、愚の骨頂の人といえるかもしれませんね。どうして、「頑張らせ方」の方を考えないのでしょうか。

この世に生を受けた動物たちの多くは、「怠け者」が基本なようです。「頑張れない」ことを深刻に考え悩む必要なんて、本当はナンセンスなことなのです。現代社会が、できる人ばかり求めて、あまりに優しさに不足していることにこそ問題があるように思います。他の動物たちのように、もっと助け合って生きたいものです。

それでも、「愛する人に認められたい」とか、頑張らなくてはならない理由ができたなら、8割の側の人でも、きっと頑張れるのだと思います。

必ず、「自分ならでは」という時がやってきます。その時のための「心構え」だけでも、今からしておいて損はないと思うのです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

(14)「嘆く人」「訴える人」「非難する人」になるのではなく、「学ぶ人」になりたい

最近の世の中は、派遣切りの問題など、労働者には恐ろしく厳しい時代に突入しました。職ばかりか、住むとこまで失ってしまうワーキングプアーの人口も激増しています。自殺者も年間3万人以上が11年連続で続いています。

いつの間に、利益優先、市場原理主義、即戦力、能力主義、成果主義、病人排除、リストラといった人間性を排除した考え方が社会の主流となってしまいました。

私も、昨年から、パート労働を探しているのですが、ことごとく不採用の通知を受けています。「そんなに私は価値のない人間なのか」などと考えたりもしました。

しかし、冷静に考えてみて、現在の会社の考え方は、利益が優先されます。社員の幸福など二の次なのです。つまり、新規採用者に求められていることは、交換可能な会社と言う機械の一部となって働いてくれることだけであり、会社の都合で切り捨てることができることも条件にあるのです。つまり、「不幸な人間になれる人」が求められているといっても過言ではないのです。

私のように、未来への夢を持って細々と会社を運営しながら、独自の研究活動を進め、収入の不足の分をパートで働くというのは、言語道断、他の労働者に示しの付かない邪魔な考え方と受け止められて当然なのかもしれません。

これからも、パート探しは続きますが、厳しい状況でも何とか頑張って生きていこうと思います。パートの方は、これからも不採用の連続なのかもしれません。しかし、その現実は、しっかり受け止めて、厳しいながらも今ある細々とした収入の道を足がかりに未来に繋いでいこうと考えています。

私は、東京での学生時代、杉並区高円寺のアパートで暮していました。何度も金欠に陥り、授業で用いる楽譜が買えないような事態に陥りましたが、大家さんや東京の母としてお世話になった喫茶店のママさん、さらには近所のおじさん、おばさんたちから、お金を貸してもらい助けられました。お金が無くても食べることで困ることはありませんでした。この方々の中には、あの恐ろしい東京大空襲(1942年3月10日午前0時過ぎ B29爆撃機による焼夷弾爆撃で東京が焦土と化した。約10万人もの人が亡くなったという)を助け合うことで生き延びてきた方々もおりました。私の歌声は、高円寺の暖かい人間関係に育てられたものでもあります。

ところが、盛岡に帰ってきて、そういった人間関係がなかなか築けないでいます。というより、私の両親が、「他人の世話になってはならない」考えることにも原因はあるのかもしれません。

そのことを分析して考えてみて、ふと気が付きました。


「人間、誰かにしてもらったことのあることしか、他人にしてあげれない。」


お金を貸してもらい助けられた人であるがゆえに、お金で困っている人にお金を貸すことができるのです。

苦しんでいる時、悲しんでいる時に助けられたことのある人であるがゆえに、苦しんでいる人や悲しんでいる人を助けることができるのです。

つまり、どんなに大金持ちであったとしても、お金を貸してもらい助けられた経験が無い限り、お金で困っている人を助けようと考えることはできないのです。

また、

愛された経験に不足している人は、他者を積極的に愛することはできないのです。

その原理を考えると、社会がどんなに良くなったとしても、それだけでは人は幸せにはなれないということになります。

以前のように、終身雇用制度や週休二日制、週40時間労働等が復活したとしましょう。始めは、そのことで幸せが取り戻ったかに思えることでしょう。しかし、人間、すぐマンネリ化し、平和ボケが起り、そんな中でも不満を抱き、つまらぬイジメなどが横行し、やはり不幸な人はなくなることはないのだと思います。

政治による変革はもちろん大切です。政治家による交通整理がしっかりしていないと、目先の欲望に駆られやすく、お互いに潰し合い、ついには自分の生き場所すら失うような愚かな行為に走りやすいのが一般的な民の性質だからです。特に、政治さえしっかりしていれば、農業や漁業などの生産者の立場は、かなり変わってくる筈です。優れた指導者は、いつの時代にも求められているのです。

しかし、政治の力にも限界があります。

人間の幸福という視点で見るならば、政治のあり方よりも、隣人とのあり方の方が大きいものがあるからです。

今日出会う人と、いかに良い交流ができかどうか。共に笑い、共に悲しみ、共に幸せを共有し合えるかどうか。

良い社会を築くとは、そういう小さなことの積み重ねによるものではないかと思えてなりません。

もし、この世が神から与えられた学びの場であるなら、次のように考えたいと思います。


「嘆く人」「訴える人」「非難する人」になるのではなく、「学ぶ人」になりたい。


どんなに酷い世の中であっても、学ぶことはある筈です。そして厳しい現実の中から学んだこと、見出したことが、次の世に伝えていく大切な財産になるものだと私は堅く信じています。

あの恐ろしい東京大空襲を助け合うことで生き延びてきた方々の優しさのように…
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月21日

(15)「かわいそう」という言葉は、禁句にしよう

私の左腕には、醜い手術傷があります。左関節の前の方は傷を縫わずに、ふた付きのギブスで、術後も傷が開いた状態で治療を続けたため赤くケロイド傷になっています。関節の後ろの方は、Uの字に激しい縫い傷になっています。

小学校4年生の頃ですが、夏場はどうしても半袖になり傷が目立つので、私は傷を隠すためにサポーターをしていました。

とある日曜日、私の家族が養護学校の先生をしている近所の叔父さんの家に招かれた時の話です。そのおじさんから、「サポーターを取れ、でないと弱虫になるぞ」と厳しい口調で言われました。

私は泣きそうになりましたが、そのおじさんの真剣な眼差しに、意地悪から言っているのではないと感じ、勇気を振り絞ってその場でサポーターを取りました。

翌日、私はサポータをしないで学校へ登校しました。案の定、皆の注目を浴びてしまいました。優しい言葉を掛けてくれる友達も数人いましたが、多くの子の視線は、見てはいけないものをみるかのような冷たい視線でした。そのことで、いじめっ子のイジメのターゲットにもなりました。

しかし、その日から、私のリハビリに熱が入っていったのでした。その頃の私の腕は、関節が石のように全く動かず、指もほとんど動きませんでした。そのため、自分で着替えをすることもできませんでした。

家の裏庭にタイヤを吊るして、バットで叩く運動や、横になって、左腕にビール瓶を乗せて動かす運動など、いろいろな運動を試みました。当時の私は、酷い運動音痴で、水泳では水の中で目を開けることすらできませんでした。病院のリハビリに来ている人の情報で水泳が良いと聞いたので、市内の温水プールで水泳を習いたいと親に習いたいとせがみました。

私はカナヅチだったため、小4なのに幼稚園のクラスに入れられました。帰りのロッカールームでは、そのことで同級生たちから酷く馬鹿にされました。私は、恥ずかしさと悔しさの気持ちから、猛練習をするようになりました。左手が思うように動かないため、まっすぐ泳ぐことができず、かなり苦労しました。

小6の夏、小学校の水泳記録貝では、私は50メートル自由形で挑みました。隣のコースには、スポーツ万能で人気者の山崎君がいました。私より背が高く、スタートで飛び込んだ直後は、彼は私よりずっと前にいました。25メートルプールだったのでターンする必要がありましたが、その日は、かなり壁近くでのターンができたので思いっきり蹴ることがけきました。ふと横を見ると、前にいる山崎君が、すぐ横にいます。そこからは、私は狂ったように泳ぎました。

まさか私が一番になるとは夢にも思いませんでした。そして、いつの間にか私の左腕は動くようになっていました。左手の指の動きもほとんど回復していました。

重い障害を克服するには、健常者より強い気持ちを持たなくてはなりません。そのためには、現実から逃避せずに、現実をしっかり直視しなくてはならないのです。


人をダメにする言葉は、「かわいそう」という言葉なのだと思います。


この言葉は、人の心から厳しい現実を直視し、立ち向かっていく気持ちを失わせるからです。

世の中には、確かにかわいそうと思える人は多くいます。でも、その場限りの同情では決してその人の助けにはなりません。一生、その人に付き添ってあげられるのなら別ですが…

同情の言葉ではなく、その人が現実と闘っていけるように、やる気を引き出してあげることの方が、本当の親切なのだと思うのです。恥ずかしい、みっともないと隠して、引っ込み思案になるのではなく、むしろ堂々とさらけ出して、現実と闘っていくのです。

同じ、尊い命を持つ人間同士、励まし合い、尊敬し合う、良い人間関係を築くことが、人生に奇跡を生み出すのです。

私は、今でも数々のハンデと闘って生きています。これからも、多くの友人達と、励まし合いながら、克服しながら得られる幸せを味わいながら、共に讃えながら生きていきたいと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

友情復活

昨年は、私にとって人生の方向転換となる年であったと思います。歌の方でも、歌う機会を多く得られました。

今年は、新しい人生の始まりの年。心機一転、基本からのスタートです。

東京での学生時代からの音楽の友。東京や長野と離れても、ずっと交流を続けてきた無二の親友達にとっては、昨年はそれぞれに厳しい試練の年だったようです。

励ましのメールを出しても返事が来ない。そんなことは、今までありませんでした。つい気を使ってしまい電話を掛けることができず、いつの間にか音信が途切れてしまいました。

昨夜、その友人達に電話を掛けてみました。

どうやら、沈黙の時間が彼らに良い導きを与えていたようでした。また、昨日だからこそ共感できる話題で盛り上がることができました。これは、良いタイミングだったと感じられました。私も含め、皆、四十を過ぎると鬱ぎみになるようで、以前のように頑張りがきかないようです。家族には理解してもらえない苦しみを理解してもらえて救われた思いがしました。とはいえ、とても楽しく前向きな会話もでき、1年分の話を一度にしたような感じでした。電話料金が心配ですが…

その友人達は、夢を語り合った大切な仲間です。

彼らには、私はメジャーな歌手を目指していないし、そのつもりもないことも話しました。でも、メジャーな歌手にはできない、地元密着の心と心の交流のできる活動をしていきたいことも話しました。これは、夢が小さくなったのではなく、歌を生かしながら歌以外の分野に自分の新しい目標ができたことも話しました。また、今年から農業をはじめることも話しました。

彼らは、私以上に才能あふれる人たちです。彼らにしかできない素晴しい活動を見つけていくと信じています。

これからも良い影響を与え合って、共によりよい人生を歩めるように、励まし合い、お互いの人生を称え合えるような関係になっていけたら素敵だと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月10日

悪い方の主人 良い方の主人

私が今まで出会った人の中には、どんなに悪い事をしても、逆に祝福されているかのように成功に変えてしまう能力を持っている人がいた。

私の場合は、少しでも悪い事をすると、何らかの形で罰せられてしまう。

その人は許されても、私は許されない。

自分は損をしているのではないかとも考えたこともある。

しかし、どうやら、仕えている主人が違うような気がしてきた。

なぜなら、私が良い事をすると、とても祝福を受けるが、逆に、その人たちは、良い事では上手くいかないのだ。その点では、逆転する。

これは、どちらが優れているとか、どうのこうのという問題ではないような気がする。

つまり、この世での役割が違うのだ。

そして、この世は「学びの世」ゆえ、悪い価値観も必要なのだと思う。

良い主人に仕えているのに、悪い事をして上手くいかず、苦しんでいる人が多いように思う。

私は、そういう人たちに、良い方の主人は、私たちに何を求めているか伝えたいと思う。

悪い方の主人は、この世の支配者でもある。だから、とても手ごわい。

つまり、悪い方の主人に仕えている人は、手ごわい相手なのだ。手ごわいゆえに、良い主人に仕えている者を鍛えてくれるのだ。悪い方の主人に仕える者を憎んで何になろうか。何の解決にもならないのだ。

これは、わからぬことだが、悪い方の主人に仕えたものが、後の世では良い方の主人に仕えるのかもしれない。現世で、良い方の主人に仕えている者も、前世では悪い方の主人に仕える役割だったのかもしれない…

とはいえ、死ぬ寸前に良い主人の下に仕える者となり、回心できるかもしれない。

中途半端でなく悪い方の生き方をした人ほど、深く悪へのいやらしさを知り、悪をきっぱり断ち切り回心できるのだとも考えられる。生ぬるい方が泥沼なのかもしれない。

いずれにせよ、この世に「要らない人」などいないのだ。

すべての生命が尊いのだと、私は信じている。



【繰り返し唱える アファメーション※の言葉】

自分は損をしているように思えても、仕える主人が違うのだと考えよう。
本当の主人の元に立ち返り、祝福されている道を歩もう。
くれぐれも、別の主人に仕えている者を蔑んだりしてもいけない。
警戒することがあっても、憎んでもならない。
むしろ、喜んでその鍛えを受けようではないか。


※「好きな言葉を集めてみよう」→「心が安らぐ音楽を流しながら、声に出して読んでみよう」
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:37| Comment(0) | TrackBack(0) | アファメーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月02日

GIFT

しろねこは、喪中なもので、新年のご挨拶は遠慮させていただきます m(__)m

さて、皆さんは、大晦日の紅白歌合戦見ましたか?

しろねこは見ましたよ。

しろねこが一番感動したのは、Mr.Childrenの「GIFT」でした。

ビデオに撮ったので、2度見たんだけど、2度とも感動しちゃって涙が出てきました。

声楽をやっている者として、ミスチルの声は、悪い歌い方の典型のようなものだった筈だけど…

でも、歌って美声だけじゃないってことに気付かされました。

教えられました。

素敵な歌詞と素敵なメロディさえあれば十分。

最高の笑顔と、そしてお客さん全員に目を向けて歌うなら、

ハートは伝わるってこと。お客さんと共に感動できるってこと…

歌い手にとって、

喉を大切にして、日々のトレーニングを欠かさず、美声を保つことはもちろん大切なことだけど…

でも、もっと大切なことは、お客さんの前では、上手く歌おうとするのではなく、

お客さん一人一人に目を向けて、最高にイイ顔(笑顔で歌えない曲もあるので…)で歌うように心掛けたいと思いました。



写真は、昨日撮った初日の出です。

繋温泉に近い、御所湖の湖畔から撮りました。7時16分に見えそうになったのだけど、次々に流れてくる雲に阻まれ、見えそうになっても見えない状態が続き、太陽が顔を出したのは7時30分を回ってからでした。期待していた、空も地上もピンク色に染まる奇跡の風景は見られませんでした。

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これって、2009年を予言するものなのかな。

もしそうだとするなら、必ず明るい兆しが見えてくるのだから、諦めずに、忍耐して待たなくてならないのかもしれません。そして、今の不安感が取り去られる状態になるには、2010年までお預けなのかも…
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 12:05| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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