昨日、カトリックやプロテスタントという宗派を超えた祈祷会に出席する機会を得ました。
場所は、日本基督教団 盛岡松園教会で、19時から、その祈祷集会が始まりました。司牧された牧師さんは女性の方でしたが、ご説教も含め、感動的な礼拝へと導いてくださいました。終了後、私は黙っていられずに、牧師さんにその感動を伝えました。
盛岡市内のほとんどの教会から、運動に関心のある方が集まり、共にお祈りしました。1教会に集まる小さな集会ではなく、いつの日か、大きなホールに集まるような集会へと発展できるよう、これからも係わっていきたいと思いました。
牧師さんの素敵な説教からのメモを下記に記します。残念ながら、私のつたない文章では、牧師さんの熱いハートまでは伝えることはできません。礼拝堂内は、彼女の美しい心から発せられる神聖なるオーラに包まれていました。
エゼキエル書には、分裂からの回復の預言が書いてあります…
新しいイスラエル、2本の木が1本の木になるのは、人間の力ではなく、主ご自身によるものです。福音の恵みの力、十字架の贖いによるものなのです。
そのために重要な2つのこと。民の清めと、平和の契約を結ぶこと。そして、私たち兄弟姉妹が、民族、国籍、伝統、身分の違いを超えて、神の許に一致することを求めることによって実現するものなのです。
ヨハネの福音書には、キリスト者が一つになることは、この世に対する効果的形です。「私が彼らの内におり、あなたがたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と書いてあります。
悲しいことに、私たちには、同じ聖書を学ぶ者同士で、互いにいがみあってきた悲しいた歴史があります。昨年末においても、イスラエルにおいて、祈りあうのでなく、互いの違いを受け入れることができずに、感情をむき出しにして殴りあう聖職者の姿がテレビで放映されました。これ実には悲しむべきことです。
これは、私たちの(政治的な)力、そして努力では、乗り越えられる問題ではありません人間の力ではなく、主ご自身による一致なのです。
ですから、すべての人が神の許に一つになるように祈り合いましょう。この一致とは、祈り合いによって実現するものなのです。
互いに愛し合うことで実現する一致なのです。
悪に勝利する道は、他にありません。神様と愛に従順に従うことによる一致なのです。
この世は決して安全な場所ではありません。しかし、互いに励まし合い、愛し合い、厳しい苦難を乗り越えて、その使命に生きる時、私たちは主に聖別された者となれるのです。
神様に私たち自身を捧げて生きていきましょう。
(ここからは私の文章です)
初代教会においては、キリストが亡くなって、わずか50年も経ずにクリスチャンたちの間に亀裂が起こっていたようです。最も遅く書かれたと言われる『ヨハネの福音書』や『ヨハネの手紙』(使徒ヨハネの弟子の長老ヨハネによる)を読むと、その嘆きが伝わってきます。古い方の福音書には見られない「互いに愛し合いましょう」という呼びかけのフレーズが随所に見られます。
私たちの教会の中でも、派閥というかお友達?グループのようなものができており、互いにいがみあっているところがあります。そこに人間の弱さが感じられてなりません。聖書を読んでキリスト教に感銘を受けた人が、教会にやってきてつまずくことも少なくないようです。そういった人間関係に失望して教会を離れていく人が絶えないのも事実です。
このことは、宗派を超えて、あらゆる教会が抱える問題であると思います。自由意志における大きな課題ともいえます。
信仰による自由を掲げるキリスト教は、初代教会以来、常にそういった危機と背中合わせで続いてきたように思います。ですから、教会内の空気がマンネリ化しないよう、今回のような集まりは大切なのではないかと感じられました。
互いの違いを認め合い、共通の福音に立ち返り、共に真の一致を願い祈り合う時、真のキリストの教えに近づけるように思うのです。
キリストの教えとは、口で語るだけのものではありません。そのことを行動に移し、愛を伝えることにあります。つまり、キリスト教の枠をも超えて、全ての人と愛の絆を築くことが重要なのです。
互いの違いを認め合うことは、単にキリスト教の宗派にとどまらず、全ての宗教、さらには全ての人が持つ人生哲学も含めて大切にするべき問題です。
私の場合、親戚付き合いを大切にするためにも(自分の魂のルーツを知るためにも)、仏教の檀家を守る者としての責任もあります。幸い、仏教の教えとキリスト教の教えはリンクしやすい面があるので尊重し合えるものと考えています。
神や仏を受け入れられない人でも、私たち身体の中にもあり、宇宙全体にも及ぶ、完全なる秩序を与えている確かなるもの(Something Great)の存在は否定することが難しいと思います。人間、誰もが、それぞれ違いつつも良心へのチャンネルを持っているのです。それを批判したり否定することは、人類全体の成長を妨げるものであると思うのです。
私は、誇張された独善的な正義等に惑わされず、宗教の枠を超えて、人々を愛の絆で結ぶための活動ができるような人間へと成長していきたいと思います。
人類が神の愛により一致することを考えない限り、利益を優先する考え方を捨て、文明をある程度捨てない限り、私たちがこの地球で生きられる限界がすぐそこまで来ているように思います。
私は、人類滅亡のシナリオから脱する奇跡を信じたいです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 15:53|
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