これは確かめることができないことなので、「わからない」というしかありませんが。しかし、その考え方を軽視せずに味わってみると、とてもよい方向性が生まれてきたので、次にお話しようと思います。
仏教には、輪廻という考え方があります。そして、輪廻と言うと罰を受けているイメージがあります。大切なもの(真理への悟り)を得ていないゆえに、人生のやり直しをさせられている。それまでの人生は消されてしまい台無しになる。そう考えられがちではないかと思うのです。
まず、私たちは前世の記憶が消されているといっても、実は、前世を知るヒントはあるのです。
親は、自分の前世の鏡であると言われています。親としっかり向き合うことにより、自分の前世がどうであったか見えてくる。つまり、偶然親の元に生まれたのではく、意味があるという考え方です。
死んで別次元に旅立つと、そこでは、それまでの輪廻の記憶がすべて蘇るのだと言われています。結婚することなく死んだ人でも、そこでは何人もの妻(夫)との記憶を知ることになります。そして、次に生まれ変わるまでの間の修行があります。生きている時に積んだ徳に加え、そこ(霊界)での修行で積んだ徳も、次の人生で「良い出会い」という形で生きてきます。
つまり、前世の記憶は消されても、「良い出会い」を通して取り戻すことができるわけです。また、前世の鏡となる親の元にまた生まれるわけですから、そこでも前世はしっかり生きています。完全に自分が無くなるというわけではないのです。
そして、死んだ時、それまでの人生がすべて蘇るので決して無駄にはなりません。生命誕生からの記憶すべてというわけではなく、必要な記憶だけが蘇るのではないかと考えられています。それは、スピリチュアルな能力を持つ霊能者が、クライアント(相談者)の前世の記憶を見る際(宇宙の完全なる秩序である「確かなるもの(Something Great)」から引き出す場合)、走馬灯を見るように必要な情報を引き出すのと似ているのかもしれません。実に短い時間で全体像を知ることができるのです。良い記憶であれ、悪い記憶であれ、その人がより良く進化するために役立つ情報が蘇るのです。
つまり、「良くなろう」と努力する人は、たとえ輪廻したとしても進化し続けることができるということです。
もちろん輪廻するのではなく、解脱(迷いの輪廻から脱出し、永遠の調和の世界に生きる)することが人生の目的なのだと私は信じています。特にキリストの教えには、輪廻という概念はなく、最終段階の人生を生きるための教えではないかとも受け止めています。キリストの教えは、一見優しいもののように捉えられがちですが、実は決意と厳しさの伴う面もあるのです。クリスチャンになるための洗礼とは、決して天国のプラチナチケットではなく、キリストに派遣された弟子になることを意味しているようです。
仏教的な方向性に話を戻します。仮に何かが足りずに輪廻することになっても、恐れることはありません。前にも話しましたが、完全に自分が無くなることではないからです。死後の世界で、それまでの人生は蘇るのですから。そして、前世との因果により、意味のある親に生まれ、前世での善行の因果により、良き出会いに恵まれ救われていくのです。
逆に、マイナスの人生を歩んでいる人もいます。反面教師として、最終段階の人を鍛える役割に生きている人です。もしかすると、自分も前世において、そういった役割に生きたことがあるのかもしれません。
ただ、良い方向へ進化することがあっても、魂のレベルが後退してしまっては意味がありません。何もわざわざ悪い縁を築く必要は無いはずです。良くなることを求めない人に、可哀想と同情して、無理に良くなることを勧めたり、回心を求めても何にもならないと思うのです。先祖の霊に対しても、感謝の祈りを捧げることがあっても、何もできないと考えるべきです。
真の回心とは、「その人の意思で、その人の責任で」行われるべきことだからです。これは、人を愛することに通じることです。真心の愛とは、「自分の意思で、自分の責任で」行われるものだからです。
同情は、お互いにとって魂の後退になりかねないので注意する必要があります。これは、とても重要なことなのだと思います。私は、マイナスの人生を歩んでいる人には、反面教師として見守ることがあっても、深入りしないように(悪い方に引っ張られないように)心掛けています。
この考え方でいくと、次の人生はどうなるのか、おおよその予測がつくということになります。今の自分を見せられる親に生まれ…
ここまで読まれた方は、死んだら終わりでないということに気が付かれたことでしょう。人生が嫌になって自殺したとしても、「壮大なる人生の修行」から逃れることはできないのです。
自殺をするということは、激しくバックする行為であって、「壮大なる人生の修行」がますます厳しくなるだけなのです。そう考えると、どんなにこの世で良いことが期待できそうになくても、何が何でも生き抜いて、不器用ながらも人生を諦めなかった証を築いてみたい。と、私は思うのです。
天が私たちに求めているのは、この世での成功を得ることではありません。天から与えられている修行に生きることなのです。この世の成功にばかり心が捉われていては、本当に大切なことを見失ってしまいます。上手くいかないことも、ある意味で祝福といえます。
さて、キリスト教には、なぜ輪廻という概念が無いのでしょう。それは、クリスチャン(キリスト教徒)には、キリストの十字架によって救われる道があるからです。
罪を犯したものは死に定められています。罪に染まった状態のままでは、神の許に帰ることはできません。そこまでは、仏教と基本的に変わりありません。
しかし、ここからは少し異なってきます。キリスト教の開祖であるイエス・キリストは、神ご自身でありながら、傷つき痛む人間の肉体をもってこの世に生まれました。それまで、古代から罪の許しのために動物がいけにえになっていたのが、神ご自身(神の御子)がいけにえとなり、十字架上で亡くなられたのでした。
これは何を意味しているのかと言うと、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わり(贖い)として十字架に掛けられたのでした。
このことを、わかりやすく説明しましょう。
私たちは、いつかは死ぬべき存在です。死を待つという意味では、死刑囚と全く変わりのない私たちが、仮に牢に繋がれていると仮定してみましょう。
その牢に、高貴な方が、私に面会に現れました。その方は、私に面会すると、「牢から出て自由になりたいか」と話されました。私は、「はい、牢から出て自由の身になりたいです」と答えました。
その高貴な方は、その方の服と私の囚人服を交換するようにと言われ、私はそれに従いました。高貴な方は、「罪を退けて、幸せに生きるのですよ」と話されました。そして、私は、高貴な人と成り代り牢から出ることができました。
私の囚人服を着た高貴な方は、その後、私の名によって死刑に処されて死にました。十字架の刑により亡くなられたとのことでした。
その私は、死刑に処された筈なのに、その方に成り代わって牢から出たお陰で生き続けています。しかも、自由の身となりました。
キリストの十字架の奥義とは、未完成のままでも救われることを意味しています。優れた行いによって救われるのではありません。あくまでキリストの名によって救われるのです。
せっかく救われたのに、また罪人の状態に逆戻りしたのでは、何度もキリストを十字架にはり付けて殺すようなものです。ですから、救われたという「実感」を得ることがとても重要で、感謝の心によって、神との良い絆を取り戻すことができるのです。
仏教では、仏と完全に一致した心が築かれる状態まで進化しなくては輪廻の状態から脱することはできません。
とはいえ、8歳の女の子でも、悟りを得るのなら、一瞬のうちに仏になれるとも書いていますから(『法華経』)、今の人生に希望がないわけではありません。そこには、人生の全てを仏に差し出す決意が必要です。厳しさは伴いますが、良く生きるための導きがそこにあります。
キリスト教の場合、「神と共にいたい」という願いがあるなら、未完成のままでも救いに預かることができるのです。つまり、神の許で永遠に進化し続けることができるのです。
私は、「神が直接、私たちを救いに来られた」という、キリストの十字架の贖いに大いなる感動を覚えます。そういう救いの道は、他宗教には見られないからです。
とはいえ、神への愛が本物であるかどうかが重要です。
人間と違い、神を欺くことは絶対に不可能だからです。
口先だけでは、いけません。
何度もお話しますが、これは、実際に死んで確かめることができないゆえ、「わからない」ことではあります。
今の人生では確かめられないものであっても、優れた先人の生きざまによって学ぶことはできます。私も、優れた先人達の証に習い、魂の輝いた人生を送っていきたいと思います。