2009年02月24日

(1)大須賀君

私は、10歳の時にスキー事故で、左腕の関節を複雑骨折する重傷を負いました。左腕の切断手術は免れましたが、3度の大手術をし、半年近くも入院しました。

退院後も毎日午前中にはリハビリに通わなくてはなりませんでした。左手に脈が打つようになるのに1年近く掛かりました。また、左腕の機能が回復し、指が動くようになるのに、まる2年の時間を費やさなくてはなりませんでした。あとで親から聞いたのですが、医者は一生障害が残ると宣告したとのこと、回復したのは奇跡なのだそうです。

クラスメートにとって、私は「午後からの人」でした。

退院後まもなくの算数のテストの成績は、わずか8点でした。他の科目も20点以下だったと思います。何といっても、入院中は寝たきりで何もできない状態でしたから。

いじめっ子のイジメのターゲットになったこともありました。あまりに辛い状況に耐え切れず、2階の教室から飛び降り自殺を図ろうとしましたが、クラスメートたちに止められて思い直すといったこともありました。

そんな私に、「一緒に勉強しよう」と、優しく声をかけてくれたお友達がいました。

クラスメートの大須賀君です。

その日から、毎日放課後に、大須賀君の家で勉強をするようになりました。

理科のテストでのことです。何とクラスで、私と大須賀君の二人だけが100点を取りました。

その時の嬉しいことったらありませんでした。しだいに、他の科目でも良い成績が取れるようになっていきました。

しかし、その喜びもつかの間。大須賀君は、仙台に転校していきました。

お別れの盛岡駅で、私は大須賀君に一番大切にしていたプラモデルをプレゼントしました。別れた後、涙が溢れて止まらなくなりました。

今考えると、私が、出会う人にやさしく接することができるようになれたのは、この時の大須賀君の影響なのだと思います。それより、彼に出会わなかったなら、私は勉強の遅れを取り戻す事ができず、大怪我も克服できず、暗い人生を歩んでいたのかもしれません。

もし、大須賀君に出会わなかったなら…

わずか数ヶ月だけのお付き合いだったけど、大須賀君の事を思い出すと、いい思い出しか浮かばないんです。

今、どうしているのだろう…

彼は、私にとって、まさに天使のような存在でした。

きっと神様が出会わせてくださった人なんだと思います。

ほんとうに苦しい時の出会いって、そういった神様の愛が注がれているように思えてなりません。他には見逃してきたばかりだったように思います。でも、この時だけは…

感謝を込めて!


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(2)千の風になって

20年前の私は、人前で歌うとき、上手く歌うことばかりに囚われて気負ってしまい、とても緊張してしまいがちでした。緊張に負けてしまい、失敗演奏となることも少なくありませんでした。

これから歌う曲「千の風になって」は、一度声楽の道を断念した私が、16年振りに人前で歌うこととなった始まりの曲となりました。昨年の5月3日。私は、当時、大ヒットしていたこの曲、「千の風になって」を従兄弟のたけし君の告別式で歌いました。

たけし君は、5歳までは、とても賢くて可愛らしい子供でした。しかし、手術の失敗により、脳に 重い障害を持ち、5歳のまま時が止まってしまいました。それから、30年の月日が流れました。

火葬場で彼のお骨を拾いました。それは驚きでもありました。真っ白で宝石のように綺麗なお骨だったからです。心の汚れの無い人のお骨とは、こんなにも美しいのもかと、思わず感動してしまったことを昨日のように思い出すことができます。

お葬式には、実に多くの人が集まりました。30年間も寝たきりだった彼が、こんなにも人を集められたということは、まさに奇跡だと思いました。天気にも恵まれ、神様の祝福を強く感じられる日でもありました。

たけし君は、寝たきりの生活でしたから、この世に何の功績を残したわけでもありません。しかし、列席した多くの人の心に神様の愛を感じさせる奇跡を残してくれたのでした。

私は歌っていて、神様から放たれる聖なる光のようなものを体全身で受け止めている感覚に浸っていました。その受け取った光が私の歌を伝わって開場全体に広がっているかのようでした。このようなスピリチュアルな感覚で歌ったことは、それまでありませんでした。たけし君が近く微笑んでいるのを心で感じる取ることができました。

一人子を失い、哀れなほどに悲しみに打ちひしがれていた叔母さんが、式を終えると、笑顔で話せるようになったことも、まさに奇跡でした。それまで、どちらかというと心の弱い叔母さんでした 。しかし、その時から、心の強い、心から尊敬できるおばさんへと変わっていったのでした。

私も、その時から、神様と共に歌うのだ。神様と共に歌うのならば、お客様と神様の息吹を 共に分かち合えるのだ。と考えられるようになり、あまり緊張しなくなりました。

その日は、本当に、本当に、素晴らしい日でした。




♪千の風になって
http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/40697733.html

♪声楽の演奏記録
http://shironeko-cafe.seesaa.net/category/1903120-1.html

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(3)わからない

「信じる」の裏側にあるものは、「わからない」なのだと思います。


神様を信じているけれど、実際に見たわけではないので、「わからない」

今日のスケジュールは決まっているけれど、上手くいくかは、「わからない」

何よりも、人の心は、「わからない」

つい置き去りになりがちな、自分の心も、やはり「わからない」


「わからない」けど、頑張ることで、きっと良くなると信じたい。

「わからない」けど、ポジティブに考えることで、未来への希望へと繋いでいきたい。

そして何より、「わからない」からこそ、人は、祈るのだと思います。


反対に、「わかっている」というのは、危険な感じがしてなりません。


「わかっている」と考えると、他者の話を素直に聞けなくなってしまう。

「わかっている」と考えると、他者に対し、「こういう人」とレッテルを付けてしまいがちになる。

「わかっている」と考えると、差別の心が生まれてしまう。

「わかっている」と考えると、上下関係ができてしまう。

「わかっている」と考えると、人を傷つけることが平気になってしまう。

「わかっている」と考えると、新しいアイディアが浮かばなくなってしまう。

「わかっている」と考えると、信じる気持ちが薄れてしまう。

「わかっている」と考えると、夢や希望が持てなくなってしまう。

「わかっている」と考えると、祈る気持ちが持てなくなってしまう。

「わかっている」と考えると、神様を信じられなくなってしまう。


でも、「わからない」ゆえに、人は、不安な気持ちになってしまうのではないでしょうか。


「わからない」からこそ、慎重にならなくてはなりません。

「わからない」からこそ、謙虚にならなくてはなりません。

「わからない」からこそ、相手を理解しようと努めなくてはなりません。

「わからない」からこそ、勉強しなくてはなりません。

「わからない」からこそ、日々精進しなくてはなりません。

「わからない」からこそ、厳しい現実に耐え忍ばなくてはなりません。

「わからない」からこそ、何度挫折しても、挫けずにチャレンジし続けなくてはなりません。

こうして、「わからない」からこそ、人は強くなれるのだと思います。


「わからない」 だから人間は、信じ合うしかありません。

「わからない」 だから人間は、愛し合うしかありません。

信じ合い、愛し合うところには、必ず、幸せがあります。


私は、「わからない」ということを、とても大切にしています。


ですから、キリスト教が正しいと、言い切ることはできません。

むしろ仏教の方が正しいのだと、言い切ることもできません。


これからお話する内容は、「わからない」ということを常に基本に置いて書いたものです。ですから、私が完全に理解したものとはいえないのです。

とはいえ、長いこと心に留めていると、何かの拍子に、ふと引き出されて、以前より理解が深まってきているように思います(真理に関することにおいて、それが確信へと変わっていくには、そういった「時を経る過程」が必要なのだと思います)。

つまり、これからも、これらのことを心に留め、進化し続ける内容ではあります。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(4)かぎっ子

何年か前の雑誌の記事ではありますが、それは我が国において、かぎっ子が増えていることについて特集したものでした。かぎっ子の増加により、十代の子供たちの犯罪率が驚くべき増加を示す一方、児童の平均学力が明らかに低下しているとのことでした。

かぎっ子とは、親が共働きだったり、親の離婚により片親から切り離さるなどの理由から、学校から帰ると家には誰もおらず、自分で鍵を開けて家に入る子供のことです。

欧米に比べ、日本の多くの子供たちは、神という概念を持っていません。それゆえ、親の目が届かないところでは、犯罪に走りやすい傾向があります。

欧米の子供たちは、家庭や学校、そして毎週日曜日に、家族全員で通う教会においてなど、宗教教育を受ける機会が、日本に比べて、かなり頻繁に行われているようです。

「神の目」を感じることのできる欧米人の子どもたちは、親の目が届かないところでも、「神の目」が機能して犯罪を食い止める力となっているようです。

たとえ、人の目を逃れることができたとしても、髪の毛までも一本残らず数えられている(『聖書』より マタイによる福音書 10章30節)私たち以上に私たちをご存知な神の目を逃れることはできないといった教育がなされているゆえに、かぎっ子たちへの心のブレーキが機能するというわけです。

また、「神の目」という視点を持たない人は、「生まれっ放しの人生(場当たり的教育が土台となった不安定な良心による生き方)」を歩むことになりかねません。老人になると、本来なら尊敬されるべき筈なのに、相手の立場でものが考えられないため、心のブレーキが機能せずに触れ合う人をことごとく傷つけるので嫌われてしまい、その結果、本人が望んでもいない辛く孤独な老後を生きなくてはならなくなるのです。

こうなると、決して子供だけの問題ではないような気がしてなりません。


つい先日、テレビの生放送の報道番組で、御年90歳になられても頭脳明晰でユーモアのセンスにも溢れる中曽根康弘元総理が、政界へのご意見番として、混迷し続ける麻生内閣への提言について、冷静な口調で語っておられました。

中曽根元総理と言うと、いささかアメリカ寄りでタカ派のイメージの強い方でしたが、戦後日本政治最大の戦犯などという悪評をされるほどの大物ともいえる人物です。国民に向けて、わかりやすい言葉でフリップボードを用いたテレビ演説など、その当時、型破りで鮮烈な印象を受けたことを思い出されます。その方のコメントから、印象深い一節を次に紹介します。


「アメリカの民主主義は、神を信じる者による民主主義だが、日本の民主主義は、宗教無き、神なき民主主義となっている。何より日本の政治家は、確固たる信念と宗教心を持たなくてはいけないと思う。」


超エリートで豪腕というイメージの強かった氏の口から、神とか宗教と言う言葉が出てきたのは、かなり意外ではありました。総理経験のある氏が、グローバルな視点で考えて、むしろ「無信仰の自由」を生きている日本人のほうがずれているということを指摘したかったように思うのです。

ただ、総理をしていた頃の氏より、政界を引退なされた後の現在の氏の方が魅力的に感じられてなりませんでした。人間、老人になろうと、進化し続ける生き物なようです。


さて、宗教教育の問題に話を戻します。

我が国においては、義務教育や学校教育から宗教がまったく締め出されている状態にあります。中央教育審議会の「幼児期からの心の教育のあり方」に関する小委員会が最近出した中間報告を見ても、道徳教育の必要は指摘されても、宗教教育についてはまったく言及されていません。

このことは、日本が敗戦による、天皇崇拝を利用した政治的宗教への反省から来ているとも考えられがちですが、実はそれ以前の明治維新の頃に、それまで培われてきた日本の仏教を中心とする精神史の伝統における深刻な切断があったことに大きな問題があったと指摘する学者もいます。

国家が行う教育の場から宗教が完全に欠落しているのは、はっきりと宗教否定の立場に立つ旧共産圏を除けば、世界中でおそらく日本だけだと思います。これは、きわめて異常なことであるのです。

また、日本においては、新興宗教の数が非常に多いのも目立った点であると思います。

その新興宗教とは、その多くのものが、高く掲げられている宗教復興とは実際には程遠いものがあるのです。それは、宗教の擬似的な形態すぎないものであり、一般に相対的な価値にすぎないものを絶対化、神聖化する傾向が強く、結局は信徒を洗脳する形で現世利益の実現に利用されており、そのいくつかは社会問題ともなる犯罪的活動へと発展し、日本人の宗教心をますます損なわせる方向性を生んできました。

真の宗教の役割とは、仏教やキリスト教といった「世界宗教」の開祖たちが教えたように、死すべき身である人間の生はいったい何のためかという問いに対する答えである筈なのに、これらの擬似宗教には、この問いと答えが見られないのです。

擬似宗教とは、真理を求めて自分の心の内にじっくり追及していくといったものではなく、教祖や宗教本部によって書かれた印刷物をただ丸暗記して、新しい信者を獲得するための伝道活動に駆り立てられているのが現状なようです。

これは、幼児期に母子密着型で育ってきた、依存心が強く、個性を持ちにくい日本人には受け入れやすいものかもしれませんが、幼児期に母子分離型で育ってきた、自立心が強く、個性的で議論好きな欧米人には、むしろ向いていないものなのかもしれません。擬似宗教は、宗教に依存することで自信が持てる。同じ宗教仲間ができることで安心できる。といった、日本人の心の弱い部分に見事に入り込み定着しているように思えてなりません。

敗戦によって、政治が宗教を利用した形での支配力は崩壊しましたが、かろうじて日本人が守ってきた伝統文化という形では残されました。残念ながら、そのことで仏教やキリスト教などの真の宗教の復権にはつながりませんでした。宗教教育を失っている日本人の多くは、宗教教育といった基盤が欠如しているゆえに、入門者に優しい、擬似宗教の方に熱狂しやすい性質があるのです。

我が国には、座禅や茶道、能、弓道、剣道など、心身を鍛錬し、高い美意識と精神性を併せ持つ独自の伝統文化を持っています。しかし学校教育の中で、そういった伝統文化に直接触れ合う機会が、あまりに少ないことが残念でなりません。

宗教は、「信教の自由」を謳う憲法の条文の中に位置づけられはしましたが、積極的な奨励をともなっていません。そういう不干渉にとどまる「信教の自由」は、実際には「無信仰の自由」を強調する方向性に向かっているように思えてなりません。

私は、仏教系の保育園に学びました。インドアな性格な子供だった私にとって、一番、楽しみだったのはお釈迦様についての紙芝居でした。私は、大人に強いられなくとも、良いことをすることに喜びを感じる子供でしたが、それは、保育園での宗教教育によるところが大きかったように思います。

私は、宗教教育の重要性を感じている者として、押し付けではない、日本人に適した、最も自然な宗教教育のあり方について研究しています。

これは、かぎっ子の増え続けている現代日本において、おろそかに出来ない問題だと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(5)戦地よりも厳しい日本の現実

昨年の統計で、日本では、32,325人もの人が自殺したと、前に書きました。1時間当たり約4人も誰かが自殺していることになりますが、これは、イラクで自爆テロの犠牲になった人よりも多いということになります。日本では戦争をしていなくても、戦地よりも残酷な現実があるのだと思います。

前に、自殺者がまだ不幸の底まで達する前に、安易に死を選んでいると書きましたが、視点を変えて考えてみると、生きることに価値を持てなくなってきている現実が確実にはびこってきているのだと考えされられます。なぜ、頑張れない人が増えているのか? なぜ、絶望しやすいのか? 何がそういう方向性に向かわせるのか…

この現実、どう思いますか?



上記の文章をブログの記事として書いたのは、かれこれ4年ほど前のことです。実は、この記事に何人かの人が反応してくれて、コメントを書いてくださいました。自分のブログにコメントが付いたのは、初めてのことでもありました。現在でも、以前ほど頻繁には行なってはいませんが、ブログの記事を更新し続けています。また、ミクシィやグリーというSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でも、多くの友人を得ることができました。

それはともかく、

昨年までに11年連続で、毎年3万人以上の人が自殺をしたことになります。

10年の通算で30万人以上の人が自殺をしたということは、広島型原子爆弾が2度投下された程の死者数といえます。

自殺をするのも個人の自由ではないか。

と、考えている人も少なくないようです。

でも、この文章を読み進めていくならば、そういう方も、きっと自殺ができなくなることでしょう。

とはいえ、何も洗脳するわけではありませんからご安心ください。むしろ、疑いの目でじっくり読んで欲しいと願います。特に科学においては、常識を疑ってみて、逆方向から考えたりすることが、真理の発見に繋がることが実に多いからです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(6)身体と対話しよう

次に、身体と心との関連性について考えていこうと思います。

人間の身体には約60兆個の細胞があるのだといいます。

その一つ一つの細胞の中にも、さまざまな機能があり、進化の過程におけるすべての遺伝子情報も含まれているのです。それは、まさに小宇宙といえるものです。そして、人間が眠っていようとも、怠けていようとも、心が腐っていようとも、善人であろうと、悪人であろうと、身体の機能は、まさに完全なる秩序とも言える恒常性(ホメオスタシス)を保とうと働いています。

キリスト教の中でも戒律的な宗派では、食欲や性欲などの欲求は身体からくるもの。だから肉によるものは悪いものと教えています。でも、それは本当でしょうか。それは、あくまで心からくるものではないでしょうか。

身体のほうは、食べることを求めていないのに、ストレスから、ついやけ食いすることがあります。タバコは悪いものとわかっていても、なかなかやめられないというのもそうかもしれません。身体がタバコを求めているわけではないのです。心が求めているのです。

ですから、問題は身体の側ではなく、心の側にあると考えられます。むしろ身体の声は、完全な秩序の声なのだと思います。実は、聖書には、人を汚すのは人間の心の側にあるとも書いてあります(『聖書』より マルコの福音書 7章17節〜23節)。

ですから、身体の声に耳を傾けるのなら、宇宙の完全なる秩序、最も「確かなるもの」の導きに従えると思うのです。

私は、かなりの早食いです。実は、子供の頃は食べるのが非常に遅くて、父に毎日、激しく怒られました。戦時中は早食い早糞がたくましい男の姿だったようです。男気の強い父はわずか5分で食事を終えてしまうのですが、私はその早さについていけませんでした。結局、まだ食べているにも関わらず食事を片付けられてしまうという毎日で、食事がとても憂うつで辛いものでした。母も、私が給食で残したパンを翌日ご飯と共に炊いてぐちゃぐちゃになったものを出すので、その味が気持ち悪く、その頃の食事は大変な苦痛でした。

私は、涙を流し、大変な苦痛を乗越えて早食いを身につけたのでした。私も5分程度で食事が終わります。早く食べないと、何故か安心できないのです。

ところが、その早食いが肥満の原因となったのでした。ちなみに、私の父母も肥満体質ではあります。

心のトラウマともなっている、その悪習を直すためにしなくてはならないのは、心の声ではなく、身体の声に耳を傾けることであると気付きました。

身体の声は、「ゆっくり食べなさい、よく噛んで食べなさい、楽しく食べなさい」と導いてくれます。ところが心の声の方は、トラウマに捕われており、「急いで食べろ」と脅迫してきます。

ある学者が言うには、栄養を豊かに摂ることよりも、粗食であってもよく噛んで唾液をたくさん分泌させて、しかも楽しい気持ちで食べることが身体全身に必要な栄養をいき渡らせるのだそうです。早食いで、しかも嫌な気持ちで食べるとなると、どんなに豊かに栄養を摂ろうと、ほとんど栄養にならず身体に害になる作用をもたらすというのです。

朝、一人静かに瞑想をすると、良い導きが得られると言われています。私は、その際に身体の声に耳を傾けるようにします。なぜなら、身体の声は完全なる秩序の声。宇宙全体、さらにはさらに高い次元とも通じる「確かなるもの(Something Great)」の声と繋がっているのです。

私は、朝にジョギングすることも良いのではないかと考えています。身体の声と対話できる時間が得られるからです。運動と瞑想が同時にできて一石二鳥でもあります。身体の声と対話していると、今日一日をどう生きるべきかという導きも得られるような気がします。

とにかく、周りとの雑音から離れ、静かに自分の身体の声に耳を傾ける。そういう時間の必要性を強く感じるようになりました。

私にとって、今年は農業をはじめる年です。作物を育てることも、「確かなるもの」の声を聞くことに繋がるような気がします。そして、農業を通して何が何でも健康体を取り戻したいと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(7)輪廻観とキリスト教

これは確かめることができないことなので、「わからない」というしかありませんが。しかし、その考え方を軽視せずに味わってみると、とてもよい方向性が生まれてきたので、次にお話しようと思います。

仏教には、輪廻という考え方があります。そして、輪廻と言うと罰を受けているイメージがあります。大切なもの(真理への悟り)を得ていないゆえに、人生のやり直しをさせられている。それまでの人生は消されてしまい台無しになる。そう考えられがちではないかと思うのです。

まず、私たちは前世の記憶が消されているといっても、実は、前世を知るヒントはあるのです。

親は、自分の前世の鏡であると言われています。親としっかり向き合うことにより、自分の前世がどうであったか見えてくる。つまり、偶然親の元に生まれたのではく、意味があるという考え方です。

死んで別次元に旅立つと、そこでは、それまでの輪廻の記憶がすべて蘇るのだと言われています。結婚することなく死んだ人でも、そこでは何人もの妻(夫)との記憶を知ることになります。そして、次に生まれ変わるまでの間の修行があります。生きている時に積んだ徳に加え、そこ(霊界)での修行で積んだ徳も、次の人生で「良い出会い」という形で生きてきます。

つまり、前世の記憶は消されても、「良い出会い」を通して取り戻すことができるわけです。また、前世の鏡となる親の元にまた生まれるわけですから、そこでも前世はしっかり生きています。完全に自分が無くなるというわけではないのです。

そして、死んだ時、それまでの人生がすべて蘇るので決して無駄にはなりません。生命誕生からの記憶すべてというわけではなく、必要な記憶だけが蘇るのではないかと考えられています。それは、スピリチュアルな能力を持つ霊能者が、クライアント(相談者)の前世の記憶を見る際(宇宙の完全なる秩序である「確かなるもの(Something Great)」から引き出す場合)、走馬灯を見るように必要な情報を引き出すのと似ているのかもしれません。実に短い時間で全体像を知ることができるのです。良い記憶であれ、悪い記憶であれ、その人がより良く進化するために役立つ情報が蘇るのです。

つまり、「良くなろう」と努力する人は、たとえ輪廻したとしても進化し続けることができるということです。

もちろん輪廻するのではなく、解脱(迷いの輪廻から脱出し、永遠の調和の世界に生きる)することが人生の目的なのだと私は信じています。特にキリストの教えには、輪廻という概念はなく、最終段階の人生を生きるための教えではないかとも受け止めています。キリストの教えは、一見優しいもののように捉えられがちですが、実は決意と厳しさの伴う面もあるのです。クリスチャンになるための洗礼とは、決して天国のプラチナチケットではなく、キリストに派遣された弟子になることを意味しているようです。

仏教的な方向性に話を戻します。仮に何かが足りずに輪廻することになっても、恐れることはありません。前にも話しましたが、完全に自分が無くなることではないからです。死後の世界で、それまでの人生は蘇るのですから。そして、前世との因果により、意味のある親に生まれ、前世での善行の因果により、良き出会いに恵まれ救われていくのです。

逆に、マイナスの人生を歩んでいる人もいます。反面教師として、最終段階の人を鍛える役割に生きている人です。もしかすると、自分も前世において、そういった役割に生きたことがあるのかもしれません。

ただ、良い方向へ進化することがあっても、魂のレベルが後退してしまっては意味がありません。何もわざわざ悪い縁を築く必要は無いはずです。良くなることを求めない人に、可哀想と同情して、無理に良くなることを勧めたり、回心を求めても何にもならないと思うのです。先祖の霊に対しても、感謝の祈りを捧げることがあっても、何もできないと考えるべきです。

真の回心とは、「その人の意思で、その人の責任で」行われるべきことだからです。これは、人を愛することに通じることです。真心の愛とは、「自分の意思で、自分の責任で」行われるものだからです。

同情は、お互いにとって魂の後退になりかねないので注意する必要があります。これは、とても重要なことなのだと思います。私は、マイナスの人生を歩んでいる人には、反面教師として見守ることがあっても、深入りしないように(悪い方に引っ張られないように)心掛けています。

この考え方でいくと、次の人生はどうなるのか、おおよその予測がつくということになります。今の自分を見せられる親に生まれ…

ここまで読まれた方は、死んだら終わりでないということに気が付かれたことでしょう。人生が嫌になって自殺したとしても、「壮大なる人生の修行」から逃れることはできないのです。

自殺をするということは、激しくバックする行為であって、「壮大なる人生の修行」がますます厳しくなるだけなのです。そう考えると、どんなにこの世で良いことが期待できそうになくても、何が何でも生き抜いて、不器用ながらも人生を諦めなかった証を築いてみたい。と、私は思うのです。

天が私たちに求めているのは、この世での成功を得ることではありません。天から与えられている修行に生きることなのです。この世の成功にばかり心が捉われていては、本当に大切なことを見失ってしまいます。上手くいかないことも、ある意味で祝福といえます。


さて、キリスト教には、なぜ輪廻という概念が無いのでしょう。それは、クリスチャン(キリスト教徒)には、キリストの十字架によって救われる道があるからです。

罪を犯したものは死に定められています。罪に染まった状態のままでは、神の許に帰ることはできません。そこまでは、仏教と基本的に変わりありません。

しかし、ここからは少し異なってきます。キリスト教の開祖であるイエス・キリストは、神ご自身でありながら、傷つき痛む人間の肉体をもってこの世に生まれました。それまで、古代から罪の許しのために動物がいけにえになっていたのが、神ご自身(神の御子)がいけにえとなり、十字架上で亡くなられたのでした。

これは何を意味しているのかと言うと、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わり(贖い)として十字架に掛けられたのでした。

このことを、わかりやすく説明しましょう。


私たちは、いつかは死ぬべき存在です。死を待つという意味では、死刑囚と全く変わりのない私たちが、仮に牢に繋がれていると仮定してみましょう。

その牢に、高貴な方が、私に面会に現れました。その方は、私に面会すると、「牢から出て自由になりたいか」と話されました。私は、「はい、牢から出て自由の身になりたいです」と答えました。

その高貴な方は、その方の服と私の囚人服を交換するようにと言われ、私はそれに従いました。高貴な方は、「罪を退けて、幸せに生きるのですよ」と話されました。そして、私は、高貴な人と成り代り牢から出ることができました。

私の囚人服を着た高貴な方は、その後、私の名によって死刑に処されて死にました。十字架の刑により亡くなられたとのことでした。

その私は、死刑に処された筈なのに、その方に成り代わって牢から出たお陰で生き続けています。しかも、自由の身となりました。


キリストの十字架の奥義とは、未完成のままでも救われることを意味しています。優れた行いによって救われるのではありません。あくまでキリストの名によって救われるのです。

せっかく救われたのに、また罪人の状態に逆戻りしたのでは、何度もキリストを十字架にはり付けて殺すようなものです。ですから、救われたという「実感」を得ることがとても重要で、感謝の心によって、神との良い絆を取り戻すことができるのです。

仏教では、仏と完全に一致した心が築かれる状態まで進化しなくては輪廻の状態から脱することはできません。

とはいえ、8歳の女の子でも、悟りを得るのなら、一瞬のうちに仏になれるとも書いていますから(『法華経』)、今の人生に希望がないわけではありません。そこには、人生の全てを仏に差し出す決意が必要です。厳しさは伴いますが、良く生きるための導きがそこにあります。

キリスト教の場合、「神と共にいたい」という願いがあるなら、未完成のままでも救いに預かることができるのです。つまり、神の許で永遠に進化し続けることができるのです。

私は、「神が直接、私たちを救いに来られた」という、キリストの十字架の贖いに大いなる感動を覚えます。そういう救いの道は、他宗教には見られないからです。

とはいえ、神への愛が本物であるかどうかが重要です。

人間と違い、神を欺くことは絶対に不可能だからです。

口先だけでは、いけません。

何度もお話しますが、これは、実際に死んで確かめることができないゆえ、「わからない」ことではあります。

今の人生では確かめられないものであっても、優れた先人の生きざまによって学ぶことはできます。私も、優れた先人達の証に習い、魂の輝いた人生を送っていきたいと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(8)神はいる

神の存在を感じられるという人がいたとしても、実際に神を見たという人となると、まずいないことでしょう。

もし神が見えたとしたら、これは大変なことだからです。

神が見えるとなると、私たちには選択の自由がなくなってしまいます。ひたすら神を恐れて従うしかありません。何といっても天地を創造した全知全能のお方なのですから。

しかし、そういった一方的な関係となると、そこには愛は存在しません。

神は、隠れていらっしゃるゆえに、私たちには選択の自由があるのです。

「神などいない」と言いえる自由もあるのです。

神に背くことのできる自由もあるのです。

そういう自由があるがゆえに、神を「自分の意思と責任で」愛することができるのです。


もし愛する人に、「どうして僕が好きなの」とたずねたとしましょう。

「みんながカッコイイと噂しているから」

という答えが返ってきたとするなら、そこには真心が感じられません。彼女自身の考えで言っている訳ではないからです。そうなると、自分が病気になるか身体障害者になっても、付いてきてくれるのか不安になってしまいます。これでは、彼女との愛を信じることはできません。

「親が偉い人で金持ちだから」

という答えでも、素直に嬉しいとは言えません。やはり、真心が感じられないからです。私を評価した答えではなく、単にリッチな生活がしたいだけとも受け止められます。親の会社が倒産するなどして、貧乏になったとしたら、付いてきてくれるのか不安になってしまいます。これでは、彼女との愛を信じることはできません。

やはり、愛する人からは、「その人の意思で、その人の責任で」愛されているという実感を得たとき、本当の幸福感が得られるのではないでしょうか。

これは、神とて同じです。

『聖書』によると、神は天地創造の一番クライマックスで、神ご自身にかたどって人間を創造したと書いてあります(「創世記」)。その際、人間を何でも言うことの聞くロボットのような存在にはしませんでした。人間は、他の動物たちのように、本能に支配されるところの顕著な存在ではありません。そこには、神の特別な思いが込められているのです。

そればかりか神は、あえて私たち人間に「神に背くことのできる自由」をお与えになったのです。

私たちは、心が神に向いていない限り、神の存在を感じることができないので、神に背いていられるのです。

そして、「神に背くことのできるほどの自由」を与えられたからこそ、わたしたち人間は、「自分の意思で、自分の責任で」神を愛することができるのだと思うのです。

私たちが恋人に「主体性のある愛」「真心の愛」を望んでいるように、神も私たち人間に「主体性のある愛」「真心の愛」を望んでおられるのです。

「教祖の言うことには絶対服従であり、背くことは許されないことだから、自分の意思を噛み殺してでも、教祖の決められた方法で神を愛する」では、神が私たちに「神に背くことのできるほどの自由」を与えた意味がなくなってしまいます。

また、「○○さんが良い人だから、私も同じ神様を信じます」では、真心がなさ過ぎます。○○さんと仲が悪くなったとするなら、いとも簡単に神への愛をも捨ててしまうことになるからです。

ですから、どうして神が見えないのか、人はなぜ恋をするのか。という理由がそこにあると確信するところです。

恋をすることは喜びでもありますが、大きな苦しみも伴います。まして、それが失恋なら、心に大きな痛手をこうむることでしょう。しかし、どんなに成就しなかったとしても、そのことで神の存在に気づけたなら、恋をした値打ちは十分にあるのです。恋が成就しても、神の存在に気づけなかった愚か者より、遥かにましなのです。

それゆえ、「人間として慎むべき罪」とは、隣人に対し、性的なことで情けないという思いを抱かせることではないかと思うのです。


「お前、まだ童貞だって」

「情けないな」


「あなた、まだ処女だって」

「それって、マジ、恥ずかしくない」


ある人は、「情けない」と思われたくないので、焦って、風俗通いをしたのだそうです。そのことで、その後の人生が茨の道となりました。

ある人は、「情けない」と思われたくないので、焦って、結婚したのだそうです。そのことで、その後の人生が茨の道となりました。

またある人は、容姿や才能に恵まれず、そのことで全く女性にモテず、女性に憧れつつも女性を知ることのできない辛さに苦しんでいました。職場の人たちは、そういった彼を茶化し、笑い者にしていました。彼は、女性を知りたい思いが限界に達してしまい、ついに女性を強姦する行為に走りました。そのことで激しく理性を失い殺人までも犯してしまったのでした。


不幸の根本原因とは、そういったところにあるのだと思います。


残念ながら、

焦って異性を知ることでは、何も解決しません。

焦って結婚することでも、何も解決しません。

もちろん、相手の女性の意思を無視して、強姦して自分の思いを遂げたとしても、何も解決しません。


ただ、そうせずにはいられない心の状態を作り出させた周りの人間の思いやりのなさにも問題があるように思います。

また性の欲望とは、知ることで決して満たされるものではありません。むしろ、知ると知るほど好奇心が深まっていく傾向があるため、知らず知らずのうちに破滅的な方向性へと向かっていくのです。本当の幸せからは、どんどん離れていってしまうのです。

親や教師は、そういった性の欲望の性質について、青少年たちとしっかり向き合って教えていく必要があるのだと思います。


罪人を排除するだけでは、幸せな社会は実現しません。


そういったことより、もっと積極的に隣人を愛していきましょう。もっと真心を持って隣人と接していきましょう。

その前に、自分の親を、そして家族を愛することから始めましょう。そういった基本の上に、良い人間関係が、そして幸せが築かれていくものだからです。


恋をすることは、神聖な思いです。その思いは、大切にされるべきです。何といっても、見えない神を見出すことなのですから。
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(9)許すこと

私には、許せない人が何人かいます。

子供の頃に私に瀕死の重傷を負わせられた親子には謝罪の言葉をもらっていないし、中学の時、担任がらみの酷いいじめを受けた時のいじめグループの一人の子の父親が同じ教会に通っていて、その人に威張られていることがどうも許せないし…

後者の件は、前者のことでの感情転移ともいえるものなのかもしれません。逃げてばかりで全く誠意を示さなかったその父親が、新聞に教育に関する記事を権威的に書いていたことに激しい矛盾を感じたことと、後者の父親が学者で、行いより権威的な知識ばかりが目立って感じられることに対し、どうもオーバーラップしてしまうようです。いわゆる、トラウマなのかもしれません。

人生40年以上も生きていると、許せないことが溜まりに溜まっている感じがします。このまま溜まり続けていくとしたら大変なことです。

そこで思うのですが、

「和解」することと、「許す」こととは、一緒に考えてはいけないと思うのです。

多くの場合、許すとは、相手にその過失の重さを認めさせ、侘びさせ、和解してこそ、許すことができるのではないでしょうか。

しかし、私がチャレンジしようとしている許すこととは、和解することがなくても、相手が何も変わらなくても、相手の過失を今後問わないと心に誓うことです。

そうすることで、自分の中で今にも爆発しそうな、心の重苦しく暗い念を捨て去るのです。

そういう心の重苦しく暗い念を捨て去ると、人生が明るく前向きなものになっていくように思うのです。

相手は、一向に変わらないけど、それでも私は、許すことで明るい未来を切り開いていこうと思います。



ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(『聖書』より ルカによる福音書 23章32節〜34節)
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(10)光の道を歩んでいこう

洗礼を受けないと救われないのですか。

と、ある人に質問されたことがあります。

私は、他の宗教の人でも、尊敬している人、手本にしている人がたくさんいます。ですから、クリスチャンだけが救われるということは決してありません。と、答えています。

洗礼とは、「聖霊による導きを受ける者」になることを意味しますが、同時に、「キリストに派遣された者」となることも意味しています。

つまり、個人的なレベルの信仰から、洗礼を受けることにより、教会を中心とした共同体に生きる信仰へと人生のステージを上げることを意味しています。

私たちの教会では、どこかで災害が起こると、政治家たちよりも、いち早く現地に行って救済のボランテイィア活動をしたり食料や必要な物資を送っています。

最近の不況のあおりを受けて激増しつつある路上生活者に対しても、炊き出しをするなどの援助を積極的に行っているグループもあります。

だれもが、そういうボランティア活動ができるわけでないので、多くのクリスチャンは資金面でボランティア活動を援助しています。また、心の込められた「祈り合い」という支援を送ることも大切にしています。

もし、キリストがこの世にいたとして、間違いなくやっただろうことを行うのがクリスチャンの役目といえます。神父様(司祭)は、キリストの代理、私たちクリスチャンは、その弟子達の代理なのです。

それだけに、教会には問題を抱えている人が多く集まります。

健常者ばかりが集まっているわけではありません。精神的な障害と闘っている人も多く集まります。また、経済的に恵まれている人たちばかりでもありません。

教会に行ったら、かえって心を傷つけられたと言う人も少なくないようです。

でも、理解して欲しいのです。

どんなに教会の印象を悪くする人がいたとしても、その人に、来ないでくださいと言うわけにはいかないのです。


教会は、信者らしくない人をどれだけ支えられるか。


これこそ神から託された重要な課題なのだと思います。

また、今は信じる気持ちが弱いとしても、将来のクリスチャンとなるべき人を、どれだけ支えられるか、ということについても、教会の重要な課題と受け止めています。

信者同士で、求道者と共に、良い影響を与え合って、お互いに成長していく、これこそが教会のあるべき姿なのだと思います。


さて、洗礼について話を戻します。

私が今まで出会った人の中には、どんなに悪い事をしても、逆に祝福されているかのように成功に変えてしまう能力を持っている人がいました。

私の場合は、少しでも悪い事をすると、何らかの形で罰せられてしまいます。挫かれてしまいます。

その人は許されても、私は許されない。

自分は損をしているのではないかとも考えたこともありました。

しかし、どうやら、その人とは仕えている主人が違うような気がしてきました。

なぜなら、私が良い事をすると、とても祝福を受けるのですが、逆に、その人たちは、良い事では上手くいかないのです。その点では、立場が逆転します。

ある時、こういったことこそ洗礼の恵みではないかと、ふと気が付きました。

洗礼を受けた証として、悪い道を歩もうとしても、神によって、ことごとく挫かれるのです。それは、まるで罰を受けているかのようでもあります。

これは呪いではなく、まさに恵み。祝福なのです。

洗礼を受けた者が光の道を歩めるようにという神の導きなのです。


また、『聖書』を読んではっきりしたことがあります。ある意味、すっきりしたことでもあります。

それは、天の支配者は神であっても、地(この世)の支配者は、サタン(悪魔)であるということです(『聖書』より ルカによる福音書 4章5節〜8節、ヨハネによる福音書 8章23節・18章36節、ヨハネの手紙 一 5章19節)。

悪の側の人が成功しているということは、そういうことなのかと思うと、別にうらやましく思わなくなりました。また、彼らは成功しているといっても、欲望には敏感でも、幸せを幸せと感じる心を激しく失っているのですから。

悪とは、私たちを鍛えてくれる存在なのかもしれません。ですから、悪を根絶やしにする必要はないようです。悪を滅ぼすことのできるのは、神のみなのですから。

では、お互いに声掛け合って、勇気を持って、悪を遠ざけていきましょう。悪には関わらないようにしていきましょう。

だからといって、悪人と呼ばれている人に対し、見下げたりしてはいけません。私たちも悪人であったのに、キリストの十字架の贖い(罪の身代わり)によって救われたのですから。そして、誰もが回心すれば、私たちの兄弟姉妹なのですから。


私の無二の親友が突然、自動車事故で亡くなって、それから10年の時が過ぎました。その頃、『聖書』について語り合えた友人は彼だけでした。私より、ずっと年下だったのに…

私は、乱れた心の方向性を修正するために、彼のことを思い、自分も自動車事故で一旦死んだ事にして、生き返って新しい人生を歩むイメージを描くことがあります。これが、私にとって一番の立ち直りの秘訣なのかもしれません。


私の夢について少し語ってみたいと思います。

私は、少し前に、精神薄弱者更正施設の職員として働いていましたが、長続きしませんでした。私の才能を最も生かせる職業になる筈でした。

長続きしなかった理由は、中学時代のイジメにありました。園では、園生を犯罪に走らせないために、へとへとになるまで運動と労働をさせていました。職員たちは、腕組みをし、時にはイジメに近い態度で園生を管理するのですが、私にはそれができませんでした。

やめろと言われても、園生と一緒に激しい運動をし、園生と一緒に激しい労働をした結果、過労で倒れてしまいました。

私は、中学時代は陸上競技部でしたから、激しいトレーニングの体験とノウハウがあります。だから、それが身体を鍛えるものなら納得ができた筈です。しかし、それは単に疲れさせ、弱らせることが目的だったので、イジメに感じられてならなかったのです。宿直の際には、園生の訴えを真面目に聞くようにしました。私の日には、怪我の治療にやって来る園生がとても多くなり大変な忙しさでした。

私を引き抜いてくれて、チャンスを与えてくださった園長さんには感謝しつつも、福祉関連の資格が無いという理由だけで、私を追い出そうと団結した職員組合の方々には、かなり失望させられました。

そういったこともあり、中学時代にイジメられたことがフラッシュバックされて苦しむようになっていきました。退職する頃には、ほぼ毎日、フラッシュバックに苦しんでいました。

疲れさせる方法の他に犯罪を防止する方法がないものか疑問を感じてなりませんでした。私は、私の得意分野ともいえるアイディア教育で園生たちに自信を付けさせようと、そのことばかり考えていました。

私は、同施設の職員になる以前のコンクリート2次製品の肉体労働者時代に、同施設からの実習生への職業実習の教官を兼任し、アイディア教育により約3年間に受け持った園生16名全員を就職内定へと導きいた実績があります。そこで得た確信が、残念ながら職員としては実を結ぶことはありませんでした。

私の担当した園生の多くは、不幸にして基本となる教育が身についていないだけで、決して頭が悪いというわけではなく、親がしっかりしていれば、もっと人間的な人生を歩めた筈だと思えてなりませんでした。また、家庭に恵まれずに教育的環境の整っていない彼らへの手当てが不十分なために、彼らを落ちこぼれさせた義務教育のあり方にも問題を感じています。

私は、将来、そういった子供たちの親の不足を補い(親の代役はできませんが…)、また義務教育において落ちこぼれてしまった彼らに良い教育を身に付けさせる仕事をしたい、恵まれない子供たちを守りたい、という夢があります。




    I Have a Dream(私には夢がある)

                      キング牧師の言葉より
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(11)恥ずかしいこと

ちょっと筆を休めて考えて見ました。

ここまで、私が書き進めてきた文章は、恥ずかしいものではないだろうか。

文章が幼稚だとか、そういうものではなくて、その多くが行いとして身に付いているものであるかとなると、まだできていない状態にあると言えるからです。

現在までに実際に行ってきた部分においての文章ならば、少しは価値が認められるとしても、そうでない多くの部分においては、価値が無いと言われたとしても反論できません。

理想論を語ることは、大した難しいことではないと思うのです。誰でも、多くの本を読み、知識を深めるなら、それなりのことを書くことは可能なのですから。

私の場合は、かなりの劣等感が強く、そのことが、こういった文章を書かせている原動力になっているように思います。それは、自分の劣等感と言うより、親から受け継いだ劣等感で、私が歩んできたこれまでの人生は、そういった劣等感との壮絶なる闘いでもありました。

この文章は、私にとって、これまで歩んできた人生を整理するために。また、これから歩んでいく人生の方向性について整理する意味で書いてきたものです。私の中では「ベスト」と言える内容ではあります。

しかし、何より大切なことは、行いが伴うことにあります。

仮に内容が優れていたとしても、文章だけでは、何の値打ちもありません。

筆を休めて考えてみて、そのことに、ふと気が付くことができました。

この文章が、価値のあるものになるか。そうでないものなのかは、今後の私の行いにかかっているのです。

私の文章の中には、自分の言葉だけではなく、行いの伴う、心より尊敬する人物の言葉もちりばめられています。

ですから、仮にそういう部分に感銘してくださった方がいたとしましょう。読まれた方も、書いた私と全く同じで、もし語るだけの知識のままなら、やはり価値に乏しいものであると言えるのです。

現在の私は、経済的にも、また健康的にも苦しい状況にあります。人生を諦めたくなるような状況といっても過言ではありません。

しかし、だからこそ神と共に歩む証ができるのではないかと考えて、むしろ希望を持っています。

これからは、これまでのように単に理想を書くようなことはしないつもりです。もし、書くとしたなら、行いによる証を得てからにしたいと思うのです。行わずに文章を書くという恥ずかしいことは、これを最後に、やめにしようと思います。

私は、まだまだ語る資格はありません。大人に語るときと、子どもに語るときとは、かなりの違いを感じます。子どもには、大人に語るときのような知識は必要ありませんが、嘘の無い真実でしか伝えることができません。だから、子どもと語り合うことをこれからは大切にしていきたいと感じています。

まずは、子どもの手本となる大人になりたいです。

この文章を読んでくださった方とのご縁を大切にしたいです。

共に、優れた行いの伴う人間へと成長していきましょう。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(12)意志が弱くても

意志が弱いからこそ人間なのではないだろうか。

人間、意志が弱くて当たり前。

それはごく普通のこと。

強そうに見える人でも、本当は弱いのだ。

強い面があったとしても、間違いなく弱い面もある。

だから、弱さを必死に隠そうとして他者に厳しく接するのだ。

そういうわけだから、

意志が弱いことは、決して恥じることではないのだと思う。

でも意志が弱いことで、人間は破滅へと向かってしまうのも事実。


意志が弱いゆえ、夢や希望を失ってしまう。

意志が弱いゆえ、愛を失ってしまう。

意志が弱いゆえ、健康を失ってしまう。

意志が弱いゆえ、ついには、小さな幸せまでも幸せと感じられなくなってしまう。


でも、強くなろうと自分の殻を破ることは、とても苦痛が伴うこと。

頑張ろうという決意だけでは、決して前には進めない。

頑張っても、頑張っても…

何度も何度も挫折を繰り返し、嫌な自分の過去の積み重ねにより、自分に幻滅してしまうのだ。


では、どうしたら意志を強く持つことができるのだろうか。


それは、基本となる人間関係を良くすること。

絆を大切にすること。

何よりも親子関係。

家族関係こそが、心を強くするための最大の秘訣であり難問なのだ。

それに準ずるものとして、師弟関係、集団・組織における上下関係…

そこが良くなれば頑張れるようになれるのだ。

不思議と力が湧いてくる。

なぜか奇跡が起こりやすくなる。

神から与えられた祝福された運命に乗ることができる。

確かに、自分一人の力だけで頑張って成功できる人もいるのかもしれない。

でも、その成功に幸せが付いてくるかどうかというと疑問となってくる。

周りの人を幸せにできるかというと疑問となってくる。

一人よがりな生き方…

独善的な生き方…

その先に、幸福の伴う成功があるのだろうか。

それはともかく、

闇雲に頑張ったところで何ともならないのだ。

まず、足元を固め、基本となる愛の絆を確立した上で、

強い人間へと成長していきたい。


「ありがとう。感謝します。愛しています。」


の言葉が、当たり前に日常に溢れていること。

まずは、この言葉をお題目のように唱えることから始めよう。

このことは、

遠回りのように見えても、最も近道といえるような気がする。




    君にしかできないことがきっとある。

       NHKドラマスペシャル 『白洲次郎』より、
        白洲次郎が妻正子に語ったセリフ
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月23日

自然の波動

昨日の夕時、妻とイオン盛岡南ショッピングセンター3階のサンマルクカフェで、とても有益な話をする時を得ることができました。

このお店は、活気溢れるイオンの中にあって一番静かな空間で、BOSEのスピーカーから流れるジャズの音楽が心地よく、私は、読書をするため、時々足を運んでいるお店です。

その帰りに、同じフロアにあるエスニックショップに立ち寄りました。

そこには、メキシコの手芸品をメインに、世界各地のお守りグッズなどが売られていました。

いろいろ眺めていて、私は馬に乗ったインディアンの写真の前で、つい立ち止まってしまいました。

それは不思議な感覚ではありました。懐かしさとも違う、自分の中で何か失っているものを取り戻そうと身体が欲しているかのような強い衝動でした。写真の前で動けなくなってしまい、インディアンの生活について思い巡らすことになりました。

自然の中に神が宿り、自然の恵みに感謝の気持ちを忘れることなく生きてきた彼らの生き方にこそ、信仰の原点とでもいうのか、真実の知恵が隠されているように感じられました。

それから少しして、今度はメキシコの手芸品に目を向けて手に取ってみたところ、不思議にも心が安らいでいる自分に気が付きました。

私は、ギリシャの文化にとても惹かれていて、あの白い建物の風景をこよなく愛している者でもあります。

あの白い色は、自然を引き立てる色なのだと思います。迫ってくるようなエーゲ海の青い海、そして、白い建物の風景とのコントラストにより、美しく輝く木々の緑には、みずみずしさを感じられます。その風景からは、「自然の波動」がビシビシ感じ取られるのです。

さて、メキシコの風景をイメージしてみると、ギリシャのような海の青さや、木々の緑のみずみずしさは感じられなくなります。高地特有の風景。サボテンの生い茂る乾いた空気の土地柄からは、ギリシャのような強い「自然の波動」は感じられません。

ところが、カラフルなメキシコの手芸品を手にとって見ていると、その乾いた空気を十分に補うだけの、「自然の波動」が感じ取られたのです。

カラフルで派手な原色に、天然の色ゆえに持っている「自然の波動」が強く感じらたのです。しかも、その手芸品には、人の手のぬくもりによる優しさ感じられてなりませんでした。

ギリシャとメキシコは、色彩がまるで正反対のようで、実は、「自然の波動」を大切にするという意味では、同じ思想が流れていることに、ふと気が付いたのです。

つまり、ギリシャの色彩もメキシコの色彩も、正反対のようでいて、それぞれの土地柄の中で「自然の波動」を味わおうとする、それぞれの先人達の素晴しい知恵が感じられてなりませんでした。

そう考えると、日本には、あらゆる色が溢れているけれど、いかに偽物の色が多いのでしょうか。天然の色ではなく、人工の色ばかりだからです。

自然の色だけが持つ、身体へ良い影響を与える波動が確実にあることを、ふと立ち寄ったエスニックショップで体験的に感じ取ることができたように思います。

昨年、歌の発声法の師匠でもある高橋洋子先生から、ヴォイス・チューニングについて学ぶ機会を得ました。

これは、ピアノのオクターブを構成する12音と、それぞれの音に対応する自然の色、さらには背骨に沿って位置している自律神経と連動しているチャクラ(東洋医学で言う「つぼ」のようなもの)とを関連付けていくというレッスンでした。

慣れてくると、チャクラが開かれていく感覚が得られ、声が倍音で響く発声が得られるというものです。これは、自分自身の健康法としての発声法であるばかりでなく、人前で歌う際、聴き手の心を癒す歌唱法にも繋がるもので、私にはとても有益なレッスンでした。

人間の歌声、そして電気の伴わないクラシック音楽の楽器の調べにも「自然の波動」があるのだと思います。

日本においては、音楽においても、偽物の音が溢れている感じがしてなりません。携帯電話の着信音や盲人用信号機の音、電車の発車メロディなど、あのような音が増えては、現代人の心は癒されないと思うのです。そういった音も自然音に変えていくならば、自殺を食い止める方法の一つになるように思います。

もう一つ、馬に乗ったインディアンの写真を見ていて考えたことなのですが、ガソリン車を電気自動車に変えたとしても、深刻な自然破壊は止められないと思うのです。いっそのこと、車を馬に変えた方が地球の健康を回復させる解決策になるように思うのです。スクールバスは、スクール馬車に、長距離トラックは、長距離馬車に…

アメリカ合衆国のペンシルバニア州やオハイオ州などに居住するアーミッシュと呼ばれる人々は、現在でも、キリスト教信仰(ルター派)を背景に、電気を使用せず、18世紀精神と文化のままで生活しています。私はこれまで、彼らは時代遅れの人々としか考えていませんでしたが、最近になって地球の温暖化が深刻なほどに加速しており、このままでは数年後には北極の氷が融け、ホッキョクグマの絶滅も危惧されるような状況ゆえ、別に飛躍した考え方とも言えないように思うのです。

自動車が馬に変わることで、時間もゆっくり流れるようになり、人間的な生活が回復し、幸せを感じる心のゆとりも増えるので、自殺者や、さらには犯罪者も激減することでしょう。多分、今の日本においては無理な話だと思いますが、どこかモデルになる国を作るために日本人が働くことはできるように思います。

昨日、ふと立ち寄ったエスニックショップで、、自然色の持つ波動の素晴しさ。さらには、自然音の持つ波動の素晴しさや、文明を捨てることによってもたらされる明るい未来についても考えることができました。

それは、実に不思議な時間でした。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月21日

高橋洋子 最新ニュース

■NEWSINGLE「残酷な天使のテーゼ2009VERSION」
リリース決定!!

[高橋洋子] [2009-02-20]

新世紀エヴァンゲリオン」のテーマ曲として、作品と共に鮮烈なインパクトを与えた不朽の名曲「残酷な天使のテーゼ」「FLY ME TO THE MOON」が、新たにヴォーカルを録り直した2009年ヴァージョンとして5月13日にリリースが決定しました!
大人気シリーズの最新機種「CR 新世紀エヴァンゲリオン〜最後のシ者〜」のイメージソングとなります。 さらにカップリングは完全オリジナルの新曲「One Little Wish」を収録。
作詞は高橋洋子、作曲編曲はシンガーソングライターの森大輔が手掛け、珠玉のバラードになっています。

「残酷な天使のテーゼ 2009VERSION」
1 残酷な天使のテーゼ 2009VERSION
2 FLY ME TO THE MOON
3 One Little Wish
4 残酷な天使のテーゼ 2009VERSION(off vocal ver.)
5 FLY ME TO THE MOON(off vocal ver.)
6 One Little Wish(off vocal ver.)

2009年5月13日 発売予定
品番:KICM-1272
価格:¥1,200(税込)

⇒オフィシャルページへ


■映画「20世紀少年」サウンドトラックに参加!!

[高橋洋子] [2009-02-20]

映画「20世紀少年 -第2章- 最後の希望」のサウンドトラックに高橋洋子が参加しました!
収録曲「Burn」「God」 の2曲を歌唱しました。今回はサウンドトラックということでいつもと違った高橋洋子をお聴きになることができます。

20seiki.jpg

2009年1月21日より発売中
「20世紀少年 オリジナル・サウンドトラック Vol.2」
品番:MHCL-1471
価格:¥2,520(税込)

⇒オフィシャルページへ



この醜くも美しい世界 高橋洋子


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:04| Comment(8) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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