では、聖書には書いていない、さらに深い真理はどうして知ることができるかというと、聖霊の導きにより、ことごとく悟ることができるとあります。
キリストが昇天される際に、福音宣教の使命を与えられた弟子たちは、はじめ迫害を恐れ部屋に隠れて活動していたのですが、祈り愛の輪の中に聖霊が下り、勇気を与えられて外に出て宣教する者となりました。
その勇気を与えてくれたのは聖霊です。
私は、マザー・テレサの歩みに聖霊の働きが強く感じられます。
彼女は、ただの修道女ではありませんでした。インドで倒れている病者を救おうと勇気を持って活動を始めたのですが、はじめ教会は彼女の活動を快くは思いませんでした。しかしマザーは、インドにおいて、何の伝もなく、お金も持っていないのにもかかわらず、次々と協力者を得ていきました。それは、まさに奇跡なのだと思います。
それは、教会の伝統に阻まれただけではありませんでした。インドの社会の価値観にも阻まれました。はじめ、現地の人たちからマザーの活動は認められませんでした。しかし、マザーの宗教を超えた愛の活動は、やがてインド人からも尊敬を向けられるようになっていきました。それは、まさに奇跡なのだと思います。
彼女は、よく祈る人でした。そして、単にマザーの働きではなく、まさに神の力によって人々が動かされ、良い歩みへと導かれていったのでした。それは、聖霊の働きなのだと私は受け止めています。
自分は世の中の役に立てるような才能がないけど、自分のわずかな給料の一部をマザーの活動に使ってもらうことで、マザーの役に立ちたいと、マザーの活動に募金することを心の支えにしてきた、という人も人も少なくないと思います。
独身でないとマザーのような活動は難しいと思います。あるお母さんは、ボランティア活動のため世界中を駆け回っているのですが、難民の子ともたちからは「素敵なお母さん」と慕われても、実の子供たちからは、「お母さんなんて大嫌い」と言われ家庭がメチャメチャでした。そこには大きな矛盾が感じられました。
クリスチャンといっても、教会のしがらみに縛られている人が多くいると感じられます。キリストの教えそのものというよりも、伝統的に築かれた教会の教えに縛られていて、愛に限界が生じているのです。他の宗教の人を罪人と決めつけ、見下げている人たちもいます。
また、いわゆる会社人間は、会社の価値観に縛られて、愛に限界が生じているように感じられます。できない社員を見下げ、何でも自分の実力だけで押し通そうとするため、祈ることはありません。神の力もそこには存在しません。成功している時は、有頂天になりますが、大きなミスをしたり、病気になったりして会社からの評価が下がると、逆に激しく落ち込みます。
異端的な宗教とレッテルを貼られ批判されている宗教の信者さんなのですが、、神の愛がしっかり働いている素晴らしい歩みをしていて、私が心から尊敬を寄せている人がいます。そうなると、どこの宗教が正しいとか、そんなこと関係ないような気がします。それぞれの宗教で、愛に生きていればそれでいいと思うのです。聖霊の働き、そして真理は人を自由にします。愛は宗教を超えるのです。
教会で奉仕する時間など全く持てないし…
このところ、自分の生きるスタンスをどう持とうかと悩んでいました。クリスチャンとして真面目に生きつつも、歴史によって蓄積されてきた教会の伝統文化に縛られず、成功にばかりに傾きすぎる社会の価値観にも縛られず、さらには宗教を超えて考えられる者でありたいと思います。特に日本人ならではのセンスは失いたくないです。
マザーは、係わった誇り高きインド人に洗礼を授けることをしなかったように、私も日本人の誇りを大切に、聖霊の導きに生きる者になりたいです。そんなことでは、教会が滅びるのでは… だいじょうぶ、神の働きを私は信じています。
現在、子供たちと接する仕事に熱中していますが、宗教の色眼鏡で見ないで、受け持った全ての子供たち、それぞれの持つ才能を引き出せる良き大人でありたいと思います。
こんなことを考えていたら、「結果を出そうと焦る必要なんて無い」と思えてきて、心が少し楽になりました。