それって、正しい宗教を探すことなのでしょうか。
私は、違うように思います。
真理とは、もうすでに私たちの体の中に存在しているものだし、大自然の中や、広い宇宙にも存在しているものだと考えられるからです。
私が通っているカトリック教会は、高齢化が進み、ミサの出席者も目に見えて減少しています。世界的に聖職者や修道者の志願者が減少しているとのこと、カトリックという一つの宗教が、存続の危機にもがき苦しんでいる状態にあります。もし、通う教会が無くなってしまったら… もし、カトリックが廃れてしまったなら…
もしそうなったとしても、何も心配することはないのです。私たちの体の中に、大自然の中に、そして宇宙に、真理(恒常性/自然の法則)は存在しているのですから、廃れることを心配することなど全くないわけです。
仮にキリスト教が廃れたとしても、人間、自然、そして宇宙が存在する限り、真理は存在し続けていくわけですから、違う形になるかもしれませんが、何度でも復活し続けられるのです。
私たちの体の中にはミクロコスモス(小宇宙)が存在し、そこには恒常性(ホメオスタシス)という素晴しい秩序が保たれています。私たちの心がどんなに乱れ、破壊的な方向性を持とうとも、私たちの意志とは全く別に、私たちが死ぬ寸前まで、その恒常性は働き続けようとします。つまり、私たちの体の中に、すでに「自然の法則」は組み込まれていて、触れ合おうと思うのなら、こんなにも近くに存在しているのです。私たちの身体に組み込まれているミクロコスモスは、大宇宙の秩序とも繋がっている真理でもあるのだと思います。
大自然の中にも、広い宇宙にも存在する「確かなるもの(something great)」の声に耳を傾け、全てをゆだね、あるがままの自分を生き、そして死んでいけばよいのだと思うのです。
大金持ちとして生きようと、貧乏人として生きようと、そんなことはどうでもいいことなのです。そこには、成功の人生とか、失敗の人生といった価値観など存在しないからです。どんな形であれ、ありのままに生きることこそが最も優れた進化の道といえるのだと思います。
キリスト教では、伝道することを重視しています。これは組織を維持するためにやむを得ないことではあります。しかし、本当に真理は多くの人に伝えなくてはいけないものなのか、広めなくてはいけないものなのか、と言えば、そうでもないようです。
真理とは、口で話したことで伝わるようなものではないからです。その人が、ありのままの自分を受け入れて、自然の法則にすべてを委ね、自然の法則と一体となって呼吸し、自然の法則と対話しながら生きることさえできれば、そこには人間としての素晴らしい進化があると思うのです。
私の隣人となる人の中に、私の生きる姿に共鳴できる人がいるとするならば、真理に触れさせることができるというように考えています(私が、真理に生きていることが前提となるので、かなり無謀な表現ではあります)。そういった形で自然に受け継がれていくというのが理想的な形だと思います。仮に、その受け継ぎが途絶えたとしても、前に話したように、真理はすでに存在しているものなので、何度でも復活し続けることができます。
そんなら、私でなくたって、私がいなくても別にいいのではないかと受け止めてしまう人もいるかもしれません。
真理とは、幸せと結びついてこそ輝くものです。私たちが、お互いに「喜んでもらう」人間関係を築いていくのなら、そこには必ず幸せが存在します。その幸せを知るものだけが、真理の旅(進化し続ける旅)をさらに進めていくことができるのだと思います。
とはいえ私は、それでもキリスト教を大切に考えています。なぜなら、もしキリスト教を学ばなかったなら、間違った価値観に囲まれて自分の生きる場を失いかけていた時代、「それでも自分は間違っていない」と自分の存在への自信を失わずに済んだのは、聖書の教え無しには考えられません。当時の私には、自然の中に真理の息吹を見出す能力はありませんでした。
私の魂の進化の過程において、キリスト教は、命の恩人と言えるもの。必要不可欠なものだったと思えてなりません。また、ある人にとっては、仏教が、命の恩人と言えるもの。必要不可欠なものであるのかもしれません。
とはいえ、ここで語ってきた真理については、宗教とは少し意味合いが異なるものと考えています。すでに出来上がっている歴史的価値観ではなく、科学の世界同様に、これからも解明されつつある永遠の価値観を指しているからです。
そう考えると、人類は、まだその一部しか見出していないと言えるのです。
もちろん宗教は人間にとってとても重要なものであり、どこの宗教に属そうとも構わないのだと思います。その人その人の尊い誇りを否定することなどできないからです。宗教とは、人類の歴史的遺産でもあり、人々の生活から切り離して考えることは困難なものとなっているのです。それだけに私は、ここで言う真理(自然の法則)とは切り離して考えるようにしています。