2009年07月29日

真理に触れるために

真理の世界に触れるにはどうしたら良いのでしょう。

それって、正しい宗教を探すことなのでしょうか。

私は、違うように思います。

真理とは、もうすでに私たちの体の中に存在しているものだし、大自然の中や、広い宇宙にも存在しているものだと考えられるからです。

私が通っているカトリック教会は、高齢化が進み、ミサの出席者も目に見えて減少しています。世界的に聖職者や修道者の志願者が減少しているとのこと、カトリックという一つの宗教が、存続の危機にもがき苦しんでいる状態にあります。もし、通う教会が無くなってしまったら… もし、カトリックが廃れてしまったなら…

もしそうなったとしても、何も心配することはないのです。私たちの体の中に、大自然の中に、そして宇宙に、真理(恒常性/自然の法則)は存在しているのですから、廃れることを心配することなど全くないわけです。

仮にキリスト教が廃れたとしても、人間、自然、そして宇宙が存在する限り、真理は存在し続けていくわけですから、違う形になるかもしれませんが、何度でも復活し続けられるのです。

私たちの体の中にはミクロコスモス(小宇宙)が存在し、そこには恒常性(ホメオスタシス)という素晴しい秩序が保たれています。私たちの心がどんなに乱れ、破壊的な方向性を持とうとも、私たちの意志とは全く別に、私たちが死ぬ寸前まで、その恒常性は働き続けようとします。つまり、私たちの体の中に、すでに「自然の法則」は組み込まれていて、触れ合おうと思うのなら、こんなにも近くに存在しているのです。私たちの身体に組み込まれているミクロコスモスは、大宇宙の秩序とも繋がっている真理でもあるのだと思います。

大自然の中にも、広い宇宙にも存在する「確かなるもの(something great)」の声に耳を傾け、全てをゆだね、あるがままの自分を生き、そして死んでいけばよいのだと思うのです。

大金持ちとして生きようと、貧乏人として生きようと、そんなことはどうでもいいことなのです。そこには、成功の人生とか、失敗の人生といった価値観など存在しないからです。どんな形であれ、ありのままに生きることこそが最も優れた進化の道といえるのだと思います。

キリスト教では、伝道することを重視しています。これは組織を維持するためにやむを得ないことではあります。しかし、本当に真理は多くの人に伝えなくてはいけないものなのか、広めなくてはいけないものなのか、と言えば、そうでもないようです。

真理とは、口で話したことで伝わるようなものではないからです。その人が、ありのままの自分を受け入れて、自然の法則にすべてを委ね、自然の法則と一体となって呼吸し、自然の法則と対話しながら生きることさえできれば、そこには人間としての素晴らしい進化があると思うのです。

私の隣人となる人の中に、私の生きる姿に共鳴できる人がいるとするならば、真理に触れさせることができるというように考えています(私が、真理に生きていることが前提となるので、かなり無謀な表現ではあります)。そういった形で自然に受け継がれていくというのが理想的な形だと思います。仮に、その受け継ぎが途絶えたとしても、前に話したように、真理はすでに存在しているものなので、何度でも復活し続けることができます。

そんなら、私でなくたって、私がいなくても別にいいのではないかと受け止めてしまう人もいるかもしれません。

真理とは、幸せと結びついてこそ輝くものです。私たちが、お互いに「喜んでもらう」人間関係を築いていくのなら、そこには必ず幸せが存在します。その幸せを知るものだけが、真理の旅(進化し続ける旅)をさらに進めていくことができるのだと思います。

とはいえ私は、それでもキリスト教を大切に考えています。なぜなら、もしキリスト教を学ばなかったなら、間違った価値観に囲まれて自分の生きる場を失いかけていた時代、「それでも自分は間違っていない」と自分の存在への自信を失わずに済んだのは、聖書の教え無しには考えられません。当時の私には、自然の中に真理の息吹を見出す能力はありませんでした。

私の魂の進化の過程において、キリスト教は、命の恩人と言えるもの。必要不可欠なものだったと思えてなりません。また、ある人にとっては、仏教が、命の恩人と言えるもの。必要不可欠なものであるのかもしれません。

とはいえ、ここで語ってきた真理については、宗教とは少し意味合いが異なるものと考えています。すでに出来上がっている歴史的価値観ではなく、科学の世界同様に、これからも解明されつつある永遠の価値観を指しているからです。

そう考えると、人類は、まだその一部しか見出していないと言えるのです。

もちろん宗教は人間にとってとても重要なものであり、どこの宗教に属そうとも構わないのだと思います。その人その人の尊い誇りを否定することなどできないからです。宗教とは、人類の歴史的遺産でもあり、人々の生活から切り離して考えることは困難なものとなっているのです。それだけに私は、ここで言う真理(自然の法則)とは切り離して考えるようにしています。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:10| 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月22日

今年最後の記事(多分?) 「教師の資質について」

自分は、教師として未熟者の一人ではあるが、教師として歩んでいくための目標を掲げてみたいと思う。

まず教師は、児童生徒に対し、心の感度を良くする必要があると思う。

特に、教える教科以外の「人間として」の指導においてこのことは重要になってくると思う。

ここで重要視しているのは、「察する力」である。

言葉にしなくても、児童生徒の心の叫びを感じ取る力。

とはいえ、甘やかす事ではない。すぐに助けることでもない。

その児童生徒が克服しなければならないことに関しては、簡単に手を貸してはならないと思う。しっかり見守ることも重要なのだ。

そこに判断力が必要となる。

正しい判断とは、自分の経験や価値観だけで決めるようなことではない。「自然の法則」にも心を傾ける必要があると思う。

私たちの身体の中にもミクロコスモス(小宇宙)が存在し、そこには恒常性という素晴しい秩序が保たれている。私たちの心がどんなに乱れ、破壊的な方向性を持とうとも、私たちの意志とは全く別に、私たちが死ぬ寸前まで恒常性は働き続けようとするのである。つまり、私たちの身体の中に、すでに「自然の法則」は組み込まれていて、触れ合おうと思うのなら、こんなにも近くに存在しているのである。私たちの身体に組み込まれているミクロコスモスは、大宇宙の秩序とも繋がっている真理でもあると思う。

残念ながら、このことについては宗教は少し意味合いが異なる。すでに出来上がっている歴史的価値観ではなく、科学の世界同様、これからも解明されつつある永遠の価値観なのである。

人類は、まだその一部しか見出していないのである。

もちろん宗教は人間にとってとても重要なものであり、どこの宗教に属そうとも構わない。その人その人の尊い誇りを否定することなどできないからだ。宗教とは、人類の歴史的遺産でもあり、人々の生活から切り離して考えることは困難なものとなっているのである。しかし、ここで言う「自然の法則」とは切り離して考えるべきだと思う。

不完全な人間ゆえ、自力で完全なものに触れ合うことなど到底できない問題ではあるが、今できる最善を見出すことなら十分に可能ではないだろうか。

その最善を引き出すことが、教師の資質として重要な点となってくる。もちろん、わかりやすくアイディアに富んだ指導スキルや、教えることに対する知識や技能の習得は基本的に欠如してはいけないことではある。ただ、知識や技能、指導スキルだけでは、片手落ちとなってしまうことは否めないのだ。

「自然の法則」に敏感になるためには、自然と親しむ心も必要となってくると思う。花を育てたり、できることなら農業を行うことなども有効な手段であると私は感じている。

心の感度を最大限に高め、「自然の法則」を敏感にキャッチできるためには、心の曇りを拭い去る必要があると思う。

そのために生活の中に瞑想する時間を組み入れることは、かなり意義のあることだと考えている。瞑想において、知性とは、さ迷うもの、妨げるもの、でしかない。心の曇りそのものと言っても過言でないかもしれない。瞑想は、脳の活動を休め、霊的感度を高める効果があると思う。

そのことを実践する前に、心の感度を悪くするものをことごとく捨て去ること、思い切って処分するべきなのだと思う。

つい「べきである」と書いたが、このことは強制されて行うことではない。自分で気がついて、自分の意思で行わなくては意味をなさないからである。どうしても捨てきれないマイナスの欲求があるのなら、そのことを解決するまでは教師にはなるべきでないのかもしれない。いや、優れた教師になろうという熱い思いがあるのなら、必ず克服できるものと信じたい。ある意味、独身よりは結婚して家庭を築いた方が理想的なのかもしれない。とはいえ、克服の仕方はそれぞれ異なることなので、理想論を語っても仕方ないことではある。

瞑想をしながら身に付けていきたいことは、「裏表の無い生き方」である。

経験の少ない児童生徒にとって、裏表のある大人の価値観など到底理解できないし、そのことを見せ付けられても消化不良を起こしてしまうしかないのだ。

それゆえ、児童生徒の信頼を得ることとは、裏表の無い生き方を示すことなのだと思うのだ。そこでは、ごまかしは全く効かない。

さて、ここまで書いたが、教師といえ、誰もが始めは経験に乏しく未熟者である。私自身未熟者の一人ではあるのだが…

こんなことを書いてしまうと、教師の資質のある者など稀にしかいないということにもなりかねない。

しかし、そんなに大袈裟に考える必要などないと思う。

ここに書いたことは、あくまで教師が目指すべき目標であるからだ。書いている私にとっても、目標であっても、まだまだ到達していない境地なのだ。幸運にしてその境地に到達しているお手本がいるので、そのお手本にしている方の生きる姿が、大きな指針となっているように思う。自分もいつか、そういったお手本になるべく進化をしていきたい。

目標を持つこととは、最も重要なことと言える。目標を持たずに進むことは、生まれっ放しの考え方に陥りやすく、正しい判断ができなくなる。そのような教師と出会う児童生徒は不幸である。しかし、目標を持って進むことにより、目標に達するために必要な人との出会いや幸運といえる奇跡的出来事が引き寄せられていき、より良い進化をし続けられるのである。

目標さえしっかりしていれば、どんなに今の現状が情けないもであったとしても、必ず何とかなるものである。

航海をする際、行き先が決まっていれば、途中嵐に出会うようなことがあったとしても何とか乗り切って、最終的には目的地にたどり着くことができる。しかし、行き先が決まっていなければ、どうだろうか。その航海は不安の多いものとなり、その不安に引き寄せられて、悲惨な航海になっていくことだろう。

特に、教える教科以外の「人間として」の指導においては、メッキの剥がれるような口先だけの説教ではなく、教師の全人格を通して、道を示す者でありたい。さらには、心の感度最大限に高め、スピリチュアルともいえる「察する力」により、常に最善の判断を引き出せる者でありたい。

教師の心が幸せならば、児童生徒たちの心に幸せな気持ちが伝染していくものである。双方で共に幸せを感じ合えるようになった時、さらに大きな幸せを体験できるのである。その幸福体験は、児童生徒たちがその後の人生を歩んでいく上での大きな財産になっていくのである。そういう意味では、教師は心にいつも幸せを感じられる者でなくてはならないと思う。

小さなことにも幸せを感じられるセンスを身に付けたい。

良い教師になることと良い親になることとは、どこか似ている。ぜひ、「教師」を「親」に、「児童生徒」を「わが子」に置き換えて読んでみて欲しい。

これは、あくまで私の目標であり、教師は誰もがそうであるべきというようなものではない。



それでは皆さん、しばらくの間、留守にいたします。
(今日は、日本中が今世紀最長といわれる皆既日食で話題となった日でした。)

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:09| Comment(5) | TrackBack(0) | 起業家として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

今年は正念場

年内においてなのですが、今日をもってブログの更新がほとんどできないと思います。

しろねこにとって、8月から今年いっぱいの期間を人生最大の正念場と考えています。

2月に母の心臓の手術と入院からはじまった書道塾の経営。4月から始めた無農薬栽培による農業。家族との問題もあって何度も挫折しかけましたが、良い方向性には向かっています。

新しく始めたこれらのことを生活レベルにもっていかなくてはなりません。今年、ある程度の結果が出せない場合、自営の道はきっぱり断念して、別の外貨獲得の道を見つけることにシフトするべきと考えています。外貨を得た上で、また自営に再チャレンジする道もあるのかもしれませんが…

未来に向かうためにも、理解者を増やし、協力者を得て、お弟子さんの人数を増やし、教室を増やし、借りる農地を増やし、直売店を経営し、何より必要なスキルを上げること… 業界No.1を目指すこと…

とはいえ、何事も健康あってこそ。毎日1時間のウォーキングは、毎日欠かさず実行していきたいです。

歌の練習も、一つの健康法と考えて、基本的なことを毎日欠かさず実行していきたいです。ただ、今年は10月に依頼を受けているお仕事以外には、発表の場を持たないつもりです。その分、基本練習にはじっくり取り組んでいこうと思います。

まず目標(進むべき方向)をしっかり決めるなら、必要な人間関係や運が「引き寄せられてくる」と信じています。

人生迷っている状態では、人脈はできないし、運もなかなか巡ってきません。これまで人生を生きてきて、そのことを強く感じています。

しろねこは、長いこと、進むべき目標を見つけられないでいました。今年は、ようやく進むべき目標が見つかった年だと感じています。随分長い準備期間でした。

今年は、これまでとはちょっと違います。しかも、長い準備期間で貯金を使い果たしてしまっていて、まさに正念場なのです。

今年は… とは書いてはみたものの、意外と早くブログの記事の更新を再開できるかもしれませんし、もっと時間が掛かるかもわかりませんん。

お仕事のブログの方は、記事というより、書道塾の通信の内容をそのまま掲載したものではありますが、興味のある方は覗いてみてください。将来的に、書道塾のお弟子さんや親御さんがチェックするサイトになると思うので、記事はかなり吟味したものにしたいです。やはり、記事の方は年が明けてからになりそうです。

もちろん、ネット上のしろねこのふるさとは、お仕事のブログではありません。

必ず、ここに帰ってきます。

では皆さん、お元気で (=^・^=)ノ

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 14:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 起業家として | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月16日

さようならSOURCENEXT製品

今日で、長いこと苦しんでいたSOURCENEXTの呪いが解けた。

下記は、私がこれまで覚えている限りのSOURCENEXTのセキュリティソフト、「ウイルスセキュリティ」絡みのトラブルである。その他にもトラブルが合ったような気がする。


【ウイルスセキュリティ】機能が「無効」や「停止中」になり、アイコンに(!)や(×)がつく 
 ⇒再インストール

【ウイルスセキュリティ】超過したエントリー情報を削除するには?
 これは、Windows XPのマルチユーザー機能で使用している場合ゆえ起こったことだが、ウイルスセキュティを再設定する。

【ウイルスセキュリティ】バージョンアップ後、パソコンのメモリが不足する 
 これは、最新のバージョンアップというより、かなり前からその傾向があった。私の場合、フリーソフトの「めもりーくりーなー」を使っているので、メモリを最適化してどうにか使用できていた。だが、Windowsが立ち上がった直後のままでは、何の作業もできない状態だった。 ⇒再インストール Windowsの高速化設定を試みて失敗し、Acronis True Imageのシステムバックアップファイルによるシステムの復元を何度か繰り返した。

【ウイルスセキュリティ】「バージョンアップに失敗しました」と出て、ウイルスセキュリティが削除された
 ウイルスセキュリティが使えない状態となる。⇒再インストール

【ウイルスセキュリティ】バージョンアップ後、「インターコム SmartHDD PCcare」が立ち上がらない。
 どうやら「インターコム SmartHDD PCcare」をウイルスと間違えてプログラムファイルを勝手に削除してしまうらしい。Windows終了時にエラーメッセージが出るようになる。 ⇒再インストール&Acronis True Imageのシステムバックアップファイルによるシステムの復元。


とにかく、このソフトはある日突然、思いもしない時にトラブルに巻き込んでくれるた。そして、膨大な時間を奪うのだ。ぜんぜんお徳なソフトではなかったような気がする。

3970円で、一度インストールすれば、「更新料は無制限で0円」というキャッチフレーズにだまされて導入してしまった。当時、経済的に厳しい状態だったので、セキュリティソフトの専門メーカーのものは高額で手が出なかった。3台のパソコンに、このソフトをインストールしたが、被害を受けたのは私のパソコンのみだった。

妻のパソコンは、ウイルスセキュリティの更新を一度もしなかったゆえ、難を逃れていた。もう一台のデスクトップパソコンも、ほとんど妻が使用していて私は使っていなかったので難を逃れた。まめに更新した私が馬鹿を見たのである。


我慢も限界となったので、思い切ってウイルスセキュリティをアンインストールして、ドイツ製のフリーソフト(無料ソフト)「Avira AntiVir Personal」をインストールした。するとどうだろう、Windowsの立ち上がり後のメモリー不足が驚くほどに改善され、パソコンの動作が軽く快適になった。これが、本来のパソコンの使用感であった筈なのだ。このソフトは英語表示のものだが、日本語による詳しい使用方法が紹介しているサイトの情報を印刷してマニュアルを作成したので、不安感は持っていない。このソフト、ウイルス対策ソフトの評価テストでは大半の市販ソフトを凌ぐ結果が毎回出ている高検出率(ドイツ製なのに日本の最新ウイルスにもすぐに対応)なのだそうである。もちろん「右クリックスキャン」もできる。また、フリーソフトに救われた。


ウイルスセキュリティについては実際は、キャッチフレーズの無制限ではなくて、Windows XPの場合、2014年4月8日までなのだが、それより遥か前に使えなくなってしまった。どうも納得がいかない。

SOURCENEXTのソフトには、これまで随分苦しめられてきた。殆ど、優れもののフリーソフト(無料ソフト)にチェンジすることで目的の作業は行えた。つまり、SOURCENEXTのソフトは、フリーソフト以下のレベルと言うしかない。

SOURCENEXTから販売された、McAfeeのセキュリティソフト、NECの翻訳ソフト、IBMのホームページ・ビルダー、RUNEXYのバックアップソフト、BHAのライティングソフトCyberLinkのDVD再生ソフトなどは、確かに優れものだったが、McAfeeとIBMは、SOURCENEXTからの販売に見切りを付けてやめてしまったし、RUNEXYのバックアップソフト、BHAのライティングソフト、CyberLinkのDVD再生ソフト等は機能限定版だったので、結果的にメーカーから販売しているソフトの方に切り替えた。

SOURCENEXT製の製品には、使えないものが多い、例えば、パソコン高速化ソフトの驚速は、他のソフトとの相性が悪く使えなかったし、携快電話は全く使えなかったのでJungle製のものに変えて目的の作業が行えるようになった。巧みなキャッチフレーズにだまされて、9年間に随分SOURCENEXTのソフトを購入したことになるが、結果的にその多くはアンインストールしてしまった。安い安いと言いながら、どれほどお金を使ってしまったのだろう。私は、パチンコはやらないが、多分、パチンコでお金をすったようなものなのかもしれない。

もうここの製品は使わないことにした。

さようならSOURCENEXT製品。




Avira AntiVir Personalのマニュアル(日本語)@

Avira AntiVir Personalのマニュアル(日本語)A

Avira AntiVir Personalのダウンロード(英語)




インストールしても、Windowsのタスクトレイに、「コンピュータが危険にさらされている可能性があります。ウイルス対策の状態が不明です。」と警告メッセージが出る場合は、

Windowsの[セキュリティセンター]で認識されず、タスクトレイに警告メッセージが出る場合は、

1.以下のいずれかの警告メッセージが表示された場合には、メッセージを確認し、メッセージをクリックし、[セキュリティ センター] を開きます。

2.[セキュリティ センター] にある [ウイルス対策] の項目から [推奨される対策案] ボタンをクリックし、[推奨される対策案] を開きます。

3.[推奨される対策案] で [自分でウイルス対策ソフトウェアをインストールし、管理します] チェック ボックスをオンにします。これにより [セキュリティ センター] でウイルス対策ソフトを監視しないようになり、警告メッセージも出なくなります。

セキュリティに関しての重要な項目ですので、表示されるメッセージを確認の上、操作してください。

4.[OK] をクリックし、[推奨される対策案] を閉じます。

5.以下のように [ウイルス対策] の項目表示が [監視していません] に変更されます。この設定を行うことにより、手順 1 の警告メッセージは表示されなくなります。


または、、タスクトレイ上で右クリック → [タスクバー]タブの[カスタマイズ]ボタンをクリック → Windows セキュリティの緊急警告を「常に非表示」に設定し、[OK]をクック。これで、警告メッセージは表示されません。




【注意事項】
ウイルスチェック後、(一旦、ソフトを閉じた場合は、デスクトップ上のAvira AntiVir Control Centerのアイコンをダブルクリック) → 左側にあるメニューの[Events]をクリック → リストから、赤いアイコンの[Detection]をダブルクリック → ウイルスの説明があります。ユーティリティソフトのファイルなど、ウイルスと認識されてもウイルスでない場合がありますから、そういったファイルは削除しないこと。




(さらなるセキュリティ強化 お勧めフリーソフト)
Cookies Manager

Internet Explorerのクッキーを管理するソフト。不要なCookieを削除することは、スパイウェア対策として有効な手段です。このソフトは、必要はCookieは登録して保護することができ、保護されていないCookieは根こそぎ削除できる。個別に削除することも可能。一度削除したものは履歴が残り、次からは自動的にに削除することもできる。
数秒で完了する手軽さゆえ、面倒でないのが良い点です。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン・インターネット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月14日

ロックされたみたい(BlogPet)

きょうコロは、ロックされたみたい…

*このエントリは、ブログペットの「コロ」が書きました。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:13| Comment(1) | TrackBack(0) | BlogPet | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月13日

農業29日目

今日は、起床時に大雨だったので畑の方はお休みにしようと思ったら、畑を貸して下さっている方から「キュウリとナスが大きくなったので、取ってあげたので取りにおいで」との電話があり、朝の7時過ぎに畑に向かいました。

母は嬉しくなって、ささぎと白かぶも収穫したいと言うので、カッパを着て、雨の中で収穫をしました。ナンバンとトマトも収穫できました。母は、今年2月に心臓にペースメーカーを埋め込む手術をしましたが、すっかり元気になりました。

大根はかなり大きいものが収穫できましたが、ニンジンも大きくなってきました。

男爵とメークイーンのジャガイモもかなり成長していて、収穫が楽しみです。

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posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 農業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

思い出し笑い




最近、爆笑レッドカーペットなどで大活躍している老人漫才?の「ビークル38」にはまっています。

特にボケ役老人の「う〜うぅ、う〜うぅ」のボケがすごく気になります。

もの凄くスローモーな登場のしかたも最高!

テレビの前で腹をかかえて笑ってしまいます。

そればかりか、

散歩中、二人の掛け合う様子がふと頭をよぎり、思い出し笑いしちゃいました。

しろねこは他に、芋洗い係長、ハイキングウォーキング、アントキの猪木、柳原可奈子、赤いプルトニウムにも注目しています。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

神から名前を呼ばれています

カトリック新聞を読んで知っている人もいると思いますが、先月、司教総会が行われました。各教区から一人ずつ司祭が招かれて、これからの教会についての話し合いが行われました。

今の教会の現状、信徒の高齢化、司祭志願者が少ないことなど、嘆きの声が多く聞かれました。

しかし、こういったことは、別に教会の危機ではないと受け止めています。

本当の教会の危機とは、「キリスト者になってよかった」という証。そういった証に力がないということこそが危機なのではないでしょうか。


昨年は、188殉教者の列福式がありました。記録によると実際は、5千人、さらに2万5千人の殉教者がいたと言われています。

でも、彼らは追い詰められて殺されたわけではありません。あなたは信仰を捨てられますかという問いに、「いいえ」と答えたことによって殺されることになったのです。

自分の信仰を宣言し殺された人を殉教者と呼びます。

当時の信者さんは、近くに教会があったわけではありません。神父様に、または先輩のクリスチャンに会えるだけでも数ヶ月に一度のことだったでしょう。

現在の教会の環境からみると、本当に恵まれていない状態だったと思います。

それなのに、あれだけの信仰が育まれたのはどうしてなのでしょう。

あれがないから。

これがないから。

教会に必要と思えることが不足していることが、本当に教会の危機に繋がることといえるのでしょうか。

今日の福音にもありますが、

イエスは福音宣教に向かう弟子たちに、杖一本のほか何も持って行くな。金も持たずに行け。というみ言葉が心に響きます。

旧約の話になりますが、ギデオンが、数万人の敵の軍と戦わなくてはならないとき、神は軍の人数を大幅に絞られて、わずか300人で戦って勝利したとあります。

数万人の軍勢に対し、わずか300人となると、勝ったのは自分たちの力ではなく、神の業ということになります。戦争というデリケートな問題を信仰的にどう受け止めるべきかということは、ここでは時間がないので割愛します。


神は、すべの人を愛し、すべての人を救う方法として、あなたの名前を呼ばれています。

神:「○○さん」

あなた:「私ですか?」「私には、何の力も持っていません。どうして、私なのですか?」


聖母マリアもそうでした。

しかし、マリアは、「はい」と答えて従いました。


なぜ、私なのでしょう? それは、わかりません。神の選びなのですから。


このことを考える時、数年前のニュースが思い出されます。

イスラエルとパレスチナとの紛争。ガザ地区でのこと。傷ついた子供たちを助けるためのボランティアをしているアメリカ人女性が、「やめてください。傷ついた子供たちがいます。」と戦車の前に両手を開いて立ちました。

しかし、実にあっけなく戦車にひき殺されてしまいました。


私は、彼女の前にはイエスがいたと信じています。戦車の前に飛び出したのはイエスであり、彼女は「はい」とその後に従ったのだと思うのです。

彼女の流した血は、イエスの十字架の血と結ばれて、今も生き続けていると信じています。


私は、イエスに「はい」と従う者となりたい。

そして、このミサでも、皆さん一人一人が、イエスから名前を呼ばれています。

イエスの証人として生きるため、「はい」と返事をして従っていきましょう。


(カトリック大阪大司教区 松浦悟郎補佐司教の説教より 2009年7月12日 盛岡・カトリック四ツ家教会 主日ミサ)
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

誰かに喜んでもらうこと

昨日の瞑想会を思い巡らしていて、少し疑問を感じることがありました。

確かに、3年以上のトレーニングを積むことで、優れた瞑想ができるようになるかもしれません。

そのことで、健康を取り戻し、安定した精神を養えるかもしれません。

しかし、優れた精神を築いた人と、まだトレーニングする前の人とに、優劣が生じるとは思えないのです。

私は、悟りなんて、たいしたものではないと考えています。その場、その場ではとても必要なものでも、古くなるとウジが湧き悪臭を放つようなものと同じで、使い終えたら片っ端から捨て去るべきものであるとさえ思います。

大怪我をして、身体の自由を失っている人が、身体の自由を取り戻すために、猛烈なリハビリをするのとも似ています。

つまり、あくまで自分のためなんです。

私の尊敬する歌の先生のマネージャーさんは、多分、本人は意識しないで話されていることだとは思うのですが、私が何かを克服した話をしてもあまり褒めてくれないのに、人を喜ばせたという話となると、とても褒めてくださいます。そのことがふと心をよぎりました。

誰かに喜んでもらうこと…

できる人、できない人、悟れる人、悟れない人。常識的な人、変人といえる人…

みーんな仲間と考えて、とにかく出会う人に喜んでもらうことをしよう。

そっちのチャンネルも必要なのではないかと思いました。

残念ながら、どんなに努力しても、喜んでくれる人ばかりとは限らない。妬みひがみから、敵意を振りかざしてくる人もいることだろう。その場合、マイナスの方向に引っ張られないように注意して、明るい気持ちをキープしたい。

私は、歌うことで人を喜ばせられるかもしれない。書道や勉強を教えることを通して、子どもたちを喜ばせられるかもしれない。

自分の名誉のためではなく、みんなの幸せのために…

瞑想の方は、自分の心と身体の健康のために、これからも続けようと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:28| Comment(2) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

瞑想会

今日は、マルコ神父による「東洋の瞑想とキリスト者の祈り ザダナ」の瞑想会に参加しました。

始めの10分間の沈黙では、心に飛び込んでくる思考を客観視することができました。

2分間の沈黙を経て、最後の5分間の沈黙では、音叉のAの音をイメージし、同時に紫色をイメージしてみました。すると、前のような思考を沈めることができました。これは、いけるかもしれない…

この講習会の究極の目的は、普段、思考の奴隷になっている状態から、瞑想により思考の働きを止めることにより、神とコンタクトを取れる状態に持っていくことにあるようです。問題は、思考の働きを止めたとき、神とは反対の力であるサタンとコンタクトを取る危険性もあるので、時間をかけて訓練をする必要があるとのことでした。

思考力によるものは、良かれと思ったことでも、脳と身体に悪い方向のプログラムになりやすく、神秘体験的な霊的の働きは、脳と身体に良い方向のプログラムになりやすい傾向があるとのこと。現在、胸や指先の痺れで苦しんでいる私には、希望のあるお話でもありました。

神父様のお話によると、キリストの精神に生きるには、仏教やヨガなどの東洋の瞑想が役に立ってくるとのことで、これまでのヨーロッパの伝統でやってきたキリスト教のままだと時代から取り残されてしまう方向性に向かっています。神学など知識を中心としてきたキリスト教から、真理に基づく神秘体験によるキリスト教へと変えていかないと、科学の進んだ現代人には、魅力に乏しいものとなってしまうのは当然と言えば当然なのかもしれません。

反対に、仏教の側からキリストの精神を学ぶことは、仏教的悟りを深めることになるように思います。

当時のキリストの弟子たちは理解力に不足しており、キリストは、たとえ話で話さなければならなかったと聖書には書いてあります。しかし、たとえ話ではない崇高な真理を知るためのヒントも聖書には書かれています。それは、聖霊の力を得ることにあります。

近年、物理界において見えない世界が解明されつつあります。そうなると科学は、キリストの教えを実証するべきものとなりつつあるのに、伝統的キリスト教は、古い考え方にしがみついていて、そこに目を向けていないのです。

私は、聖書の教えに、東洋の瞑想を取り入れ、さらに科学的視点でもって、キリストの精神に生きていきたいものだと、ふと思い巡らしていました。

キリストの弟子たちが難しいと思えた内容ゆえ、参加者の大半が、「難しい」と口にしていたのも印象的でした。



続き ⇒ http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/122647848.html#comment
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(1) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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