つまり、神の御心(みこころ)に波長を合わせ、そこに乗り合わせること。
私の願いが叶うようにと神に祈ることではなく。
神が私に願うことに私が気づき、その使命に生きられるようにと祈ること。
こういう祈りができるのなら、聖書も仏典も要らないのかもしれません。
直接神と対話できるようになるからです。
対話とまではいかなくても、神の息吹ぐらいまでなら感じられるのだと思います。
世の中にはいろいろ宗教があるので、このようなことを言ってしまうと語弊があるかもしれません。
でも、このことは宗教というカテゴリーには入りません。あくまで、宗教が出現する前の「原始回帰」を試みたにすぎないからです。
仏教やキリスト教が出現した2千年以上前の話というのではなくて、
10万年以上前の原始人の価値観となってくると、そこには宗教は存在しなかったことでしょう。
このことは、原始人が心を向けるようなシンプルなことなのです。
それゆえ、知識や経験に乏しい子供にもできることなのです。
いや、大人より子供の方が、こういった感性は優れているのだと思います。
それほど単純なことなのですが、魂を進化への方向性へと向かわせてくれることだけは確かなようです。
だから、何事も祈って(意に乗って)からはじめようと思うのです。
「かぎっ子」が増えている現代社会において、大人が子供に、神という視点を教えることは、子供の健やかな成長に欠かせないことなのだと思います。
どんなに親の目から離れていても、子供たちは、いつも神と共に生きている実感を持つことにより、自分の意志で悪の誘惑を絶てる力が湧いてくるわけです。