2009年09月10日

意に乗るために

祈りの本来的意味は、「意乗り(イノリ)」であるのだそうです。

つまり、神の御心(みこころ)に波長を合わせ、そこに乗り合わせること。


私の願いが叶うようにと神に祈ることではなく。

神が私に願うことに私が気づき、その使命に生きられるようにと祈ること。

と、前の記事で書きました。昨日のことではありますが、意に乗るための具体的方法について、ふと気が付くことができました。


意に乗るために(神が望む私を生きるために)は、、大河ドラマ「天地人」で描かれていたように、上杉謙信公が一人岩屋にこもり、自分自身と向かい合い、神の意について問い続けた姿が手本になるように感じられるようになりました。つまり、部屋にこもってひたすら瞑想することから、意に乗るきっかけが掴めるのではないかと思うのです。

じっくり自分と向かい合うことで、それまでの自分にはなかった優れた気づきを得たとしましょう。大なり小なり、それに近い体験は誰もがあるのではないでしょうか。よく考えてみると、そこには自分の他には誰もいないわけなので、そうなると、その優れた知恵を与えてくれたのは誰かということになりますよね。それこそ、神の導きといえるものではないかと思うのです。

これは、親や先生に相談したり、友人に相談するのでは得られません。親や友人に依存する形となると、うまくいかないと相手のせいに考えてしまうかもしれません。自分の人生を左右するような大事なことを他者に決めさせてはいけないように思います。

だから、親や先生に相談する。友人に相談するというのでは、正しい判断はできないように思います。知識や経験に乏しい子供なら、むしろ責任ある大人に相談すべきです。しかし、大人になっても、そういった依存的な考え方のままではいけないように思うのです。というのは、親も先生も友人も、私の意について何も知らないゆえ、的外れのアドバイスしかできないからです。

カウンセリングにおいては、クライアント(相談者)の話をひたすら聞くことが重要なのだそうです。そこで、アドバイスや指示をしてはいけないのです。つまり、クライアントが自分自身と向かい合うことに協力すること以外には何もしてはいけないと考えるわけです。そして、クライアントが自分自身で解決策を見つけられるように導いていくわけです。このことは、「意に乗る」ことに通じるものがあるように思えてなりません。

私の場合、仕事のことで親が干渉してきて、なかなか前に進めないでいました。そのアドバイスが時代遅れ、かつ的外れなため、自分の能力が生かされず自信を失うしかありませんでした。自信を失うだけでなく、健康も失っていきました。子供として親を立てようという心配りも、ことごとく裏目に出てしまったように思います。そうするのではなくて、親の干渉には断固拒否すれば良かったのです。親には一切相談せずに、最も確かなるものである神に相談すること。それこそが最善策であることに、ようやく気づくことができました。

そうなると、黙想する時間がとても重要となってきます。これからの人生は、大いに黙想にこだわりたいです。大いに黙想して、自分の殻を破り、人生を切り開いていきたいと思うのです。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 22:31| 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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