2009年12月27日

神の意に反していない歌手〜心臓(心)を鍛えよう

前の記事でブログの記事をお休みする予定でしたが、今日の記事でお休みすることにします。

昨夜、母からの依頼があって、86歳になるおばあさんで、元盛岡白百合学園高等学校の体育の先生をしたという方のご自宅に遊びに行きました。

この先生は、86歳とは思えないほど、声が大きく元気な方で、母から見ても9歳年上で、共に人生の大先輩といえます。

しかも、表裏の全くない方で、愛情込めて叱ってくれるので、私たちを良い方向へとぐいぐい引っ張ってくださいます。

母には、そういった期待があったのかもしれません。

先生は、3時間以上にも渡り、私たち親子の問題に付き合ってくださいました。

そして、愛情を持って、容赦なく激を飛ばしてくださいました。

前回の記事の内容にも触れました。すると、先生は、

「あんた、思い上がるのもほどほどにしなさい。あんたの歌のくらい、多くの人に支えられてきた人はいないのだよ。胸に手を当てて考えてごらんなさい。そして、あんたの歌は確かに神様に守られていると感じるけど、あんたが言うように神の意ではないなんて考えるのは思い違いだと思うな。何でもわかった気になるのはどうかと思うよ。そして何より、病気になっているとは何ごとですか。しっかりしなさい。」

母も、そんな感じで激を飛ばされていました。

母も私も心臓に関する病気に苦しんでいます。

数日前、妻が興味深い冊子の論文を私に見せてくれました。それは、「人間は、脳ではなく、心臓で考える」というものでした。

これからの時代は、脳外科よりも、心臓外科が最先端の医学になっていくだろうという内容のものでした。そういえば、以前テレビで、心臓移植をしたら、人格が変わってしまったという衝撃の映像を見たことがありました。移植後に、食べ物の好みも、そして趣味までも変わってしまったからです。

確かに、心にダメージを受けたりすると、胸が痛くなったりしますし、心臓で物を考えるというのは、自分にでも思い当たる節はあります。

そのことについても、先生と話し合いました。すると、先生は、

「そうだ、あんたたち、毎日運動して心臓を鍛えなさい。そういう面を怠けているから、お互いに理解し合えない、悪い考え方に陥りやすくなっているんだよ。」

そういって、先生は、効果的な室内運動についてご指導してくださいました。

ということで、私たち親子は、今日から、心臓を鍛え、心を良い方向へと進化させる生き方をすることを誓わせられました。

そのことを何より優先して実践しなくてはいけません。

しばらくは、頭で考えて?自滅的な方向に向かうのではなく、体を鍛え、真に心を鍛えることをしなくてはなりません。

これまで私がブログで自論を公開してきた内容についても、心臓が強くなることで、さらなる進化発展に繋がるように思えてきました。

ですから、そのことを実践することで効果が見えてきたなら、記事に書いて皆さんにご報告したいと思います。





実際に心臓移植をしている人や、これから心臓移植を受ける人に誤解を与えてはいけないので、一言、付け加えておきたいと思います。
私は、10歳の時に大手術を3度しており、その際、自分の血がすべて入れ替わるほどの輸血をしました。
それまで、引っ込みじあんで内気な性格だったのが、術後は積極的な性格へと変わり、そのこともあって障害を乗り越えることができました。それは、術前の自分の性格では、乗り越えられなかったかもしれないほど厳しいものでした。
決して手術の前の自分がいなくなったわけではなく、術前から際立っていた芸術的なセンスは、そのまま生き続けているように思います。新しい能力が加わったという感じがしてなりません。
きっとこのことも神の導きであり祝福なのだと信じています。 [2010.1.8]






しろねこの演奏録音 「千の風になって」
2008.10.12 滝沢村ふるさと交流館 大ホール Piano Mini Concert より




しろねこのお勧めCD

それは時にあなたを励まし、時に支えとなるもの

それは時にあなたを励まし、時に支えとなるもの

  • アーティスト: 高橋洋子,高橋洋子,くまのきよみ,大森俊之,KEN
  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2005/12/07
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あうん

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残酷な天使のテーゼ 2009 VERSION

残酷な天使のテーゼ 2009 VERSION

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高橋洋子 - 残酷な天使のテーゼ Live






Tamashii no Rufuran Live - Subs. Español






久保田利伸 夏の子午線 FUNKIN' ON NEPTUNE TOURA
(もしかして、ファンキー・ジャム・オールスターズ?)

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月25日

神の意に反する歌手?

どうやら私は、神の意に反する歌手なようです。

どういうことなのかと言うと、

私が歌を歌うことは、神が望んでいることとはちょっと違っているようなのです。

なのに、ここ数年、私の歌手活動は、不思議とすべて成功しています。

そして、その演奏のすべてが神頼みであったことも事実です。本番は、堂々と歌っているように見えるかもしれませんが、いつも本番直前まで、自信が持てずに苦しんできました。

もしかすると、神が助けてくれる演奏ゆえに、私の演奏に神の光が感じらる人がいるのかもしれません。

私の歌は、神の意ではないゆえ、私は歌を歌うことで生活はできません。ありがたいことに、私の実力を超えるような額のおひねりをくださる方がいらっしゃるも事実です。だからといって、歌うことで生活することなどとうてい無理な話です。どうして、生活に繋がらないかというと、私の営業力に問題があるのではなく、神の意ではないからなのです。

それに私は、ファンの方々が思っているほどの実力がありません。練習ではまるでダメなのに、なぜか本番では上手くいっている感じがします。

楽譜を読むのはかなりの苦手なのですが、伴奏が流れていれば、たいていの曲は霊感だけで歌うことができます。実は、そこにも神頼みが働いているのです。なので、楽譜だけ渡されて歌えと言われると、小学生でも歌えるような簡単な楽譜でも歌えないのが、私の本当の実力です。最近は、パソコンに楽譜を入力すると自動演奏してくれるソフトを使用しているので、いかなる新曲でも歌うことは可能になってきています。私の場合、練習にピアノではなくてパソコンを使うことの方が多い感じがします。

音楽はスピリチュアルなものですから、実力があるからといって、多くの人に好まれるというものでもないようです。なので、私のような実力の無い者でも、スピリチュアルなセンスさえあれば、人前でそれなりに演奏できるというのも、音楽の魅力といえるのかもしれません。

では、どうして、演奏が成功してしまうのかというと、どうやら、神様が、私の意に合わせて応援してくれているからということに、ふと気が付くことができました。


「こんなに応援しているのだから、私の望み(神の意)の方も忘れずに頑張ってくれ。」


そんな期待が込められているように感じられてなりません。

今年は、一昨年、去年に比べると、ほとんど演奏をしなかったことになります。それは、2月に母が心臓の手術のために入院し、母の書道塾の代役をしなくてはならならなかったこと、私のアイディア教育が良い結果を出すようになったものの、母と確執がどんどん深まっていき、そのストレスから、今度は私が過呼吸症候群と狭心症となり、歌うことができないような状態になっていきました。

その母との確執の問題も、ようやく終わりが見えてきました。お互いに死ぬほどに苦しまないと気づき合えない深い根の存在に、お互いに気づくことができたからです。今年は、とても苦しい一年だったけれど、人生において最も成長できた一年であったようにも思います。

昨日のクリスマス祝賀会での演奏は、奇跡的に成功できたものの、その前日の老人ホームでのクリスマスキャロルの方は、過呼吸症候群の発作が起ったためにキャンセルしなくてはなりませんでした。その約一週間前は、心臓発作が起り、病院でニトロールを処方され、薬を常に携帯するようになりました。年が明けたら、何より健康回復に全力を尽くさなくてはなりません。何事も、健康あってこそなのだと痛切に感じています。

私の意とは、子どもたちに教える教師です。上からの指示に従う公務員的な教師ではなくて、研究テーマを持って取り組めるようなクリエイティブな教師になることが求められているように感じています。残念ながら音楽の先生は、そこにはあてはまりません。むしろ、才能に不足している子どもを引き上げるような先生になることが私の意であるように感じられるからです。

とはいえ、ファンの方々に求められる限りにおいて、歌手活動は今後も続けていこうと思います。

現在は、歌の練習が全くできないような状態ですし、これからもしばらく、その状態が続きそうです。ということは、これからも神頼みの姿勢で、奇跡的な演奏をするといったスタイルになりそうです。プロの演奏家の厳しい姿勢を考える時、本当に申し訳ない程に練習をしていませんが、スピリチュアルな感性だけは、さらに磨きをかけていこうと思います。

ここ数年、インターネットを用いて、楽曲のアナリーゼを楽しむようになりました。これは、妻の影響でもあります。例えば… 最近は、ベートーベンの伝統的な演奏解釈に疑問を感じるようになりました。「ベートーベンの音楽は、本当に骨太の音楽なのか?」「ベートーベンの弟子達は、本当にベートーベンの真意を理解し伝えてきたのだろうか?」「先人達の演奏は、本当にベートーベンの音楽を忠実に表現したものといえるのだろうか?」

伝統的な解釈を疑って、楽譜を見つめ直してみることも面白いことの一つです。時代を超えて作曲家の実像に触れることは、きっと感動に出会えるように思えてならないからです。

これは、音楽だけではなく、宗教にもいえることだと思います。伝統に従うだけの考え方ではなくて、伝統的な解釈が本当に正しいものか、疑ってみることで、思いもしない崇高な真理に出会えるというのも、自由な社会に生きる現代人ゆえの特権なのですから。

ちなみに、宗教研究についても神の意ではないように感じています。ただ、ここにも、神の応援が感じられてなりません。

私は、どうも頭が悪いので、行き詰ると、やはり神頼みになる傾向はあります。頭の悪さは、ある意味では恵みなのかもしれません。頭が良ければ、神に頼ることがなくなるので、奇跡も何もない、つまらぬ人生になるかもしれないからです。

私が、キリスト教のみならず、他の宗教を研究しているのは、いわゆる正しい宗教を求めているのではなく、宗教を超えた真理による感動を追及しているように思います。むしろ、「ふた通りのみつめかたをして、進んでいく♪(高橋洋子 音楽CD「それは時にあなたを励まし、時に支えとなるもの」より、「恋のライセンス」/作詞:高橋洋子/の一節)」といった方が、心のバランスには良いのではないかと思うのです。多分、こういった物の見方においても、私の音楽作りにかなり影響していることは間違いのない事実ではあります。


それは時にあなたを励まし、時に支えとなるもの

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しばらく、ブログの更新はお休みします(とはいえ、コメントは見つけ次第、できるだけお返事しますので、過去記事を読んでの感想等ありましたら、ぜひお寄せください)。

では、皆さん、良いお年を (=^・^=)ノ
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

クリスマス祝賀会での独唱

昨日、カトリック四ツ家教会にて、午後6時半からのクリスマス・ミサの後でクリスマス祝賀会が行なわれました。

私は、独唱を依頼されていたので、シューベルトのアヴェ・マリア(ラテン語版)と、ヘンデルのオンブラ・マイ・フを歌いました。

実は、過呼吸症候群と狭心症による発作が度々起きており、その日も体調が最悪で、独唱をキャンセルしようと思っていました。

1曲目は、集中力全快で、自分でも良い歌が歌えた実感がありました。ただ、1曲目と2曲目の間に、盛岡白百合学園のコーラスの方々が入ってきて中断したことで、そのモチベーションが切れてしまい、歌う自信がまったくなくなってしまいました。

ところが、前奏の間、会場の後ろに聖なる二人の方が立ってほほ笑んでいらっしゃり、急に力がみなぎってきたのでした。一人はたいへん美しい女性の方、もう一人は、男っぽくは無く美しい顔立ちの男性の方、お二人とも三日月の上に乗って浮かんでおられました。

実は、そこから歌ったことをほとんど全く覚えていないのですが歌い終えてお辞儀をしたことだけは覚えています。聴いていた妻の話では、1曲目とは全く違う声で歌っていて、とても良かったとのことでした。

その日は、体調が悪い分、心が信仰的な方に向いていました。そのことで、奇跡的な体験ができたのかもしれません。

そうそう、その盛岡白百合学園のコーラスの素晴らしかったことも書いておきたいです。ミサ中と、ミサ後のコーラスは、混声で、祝賀会でのクリスマスキャロルでは、ユニゾン(全員が同じ旋律)で歌っていたのですが、不快な響きが全く無く、天使の声のような歌声に心が洗われる思いでした。特に、ユニゾンのコーラスで、あれほど感動させられるとは凄いなと思いました。大人のコーラスだと、どうしても不快な響きがどこかにあって残念なものが多いのだけど、それが全く感じられませんでした。

教会でいつも見かけるおばさん信者さんのマジックショーもプロっぽくて意外な感動に驚かされました。

今年は、静かなる感動のある聖夜でした。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 08:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月18日

いつもとは違う感謝の思い

私は病院のソファーに座って、診察の順番待ちをしていました。

そこに、よぼよぼのおばあさんがやってきました。

待合室のソファーは、患者さんですっかり埋まっていたので、

あとからやってきたおばあさんは、立って待たなくてはいけません。

そこで私は、

おばあさんに席を譲ろうとしました。

「どうぞ、お座りください」

そう言って、私は席を立ちました。

しかし、

おばあさんは、嫌な顔をして、私の好意を拒否しました。

もう一度、声をかけたのですが、全く無視されてしまいました。

私は、場の悪い感じで、また席に着くことになりました。

何か、とても暗い気持ちになりました。

心の持って行き場所がなくなり、

ふつふつと怒りが込み上げてきました。

ところが、

その瞬間、ふと、ある気付きを得たのです。

これって、私が普段、神様に対してやっていることではないのかと。

私の命を何度も、何度も、危険から守り助けてくれていたのに、

私は神様に心を向けずに感謝することを忘れていた。

きっと、神様は、

私が今味わっている、

この暗い気持ちをいつも、ぐっとこらえておられるに違いない。

悲しみながら、悲しみながらも、

私達を守ってくださっているのではないだろうか。

だから、こういう気分の時には、

私の好意を踏みにじったおばあさんに怒りを向けるのではなく、

普段、忘れてしまっている、

神様へ感謝をすることにしよう。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月17日

素晴らしい日本の未来に向かって

多くの人は、普通の人が得られるような生き方。例えば、結婚とか出産とか、経験できない人を「不幸な人」と考える傾向があります。

本当にそうでしょうか?

例えば、神道的に考えてみるとこうなります。

目の見えない人、耳の聞こえない人。そういった障害者は、不幸なのではなく、むしろ優れた前世を歩んきたのだけど進化の面で、かなり惜しい面があり、それをどうしても補いたいと、あえてそういった人生を自分から望んで生まれてきたとも考えられます。

また、生まれてまもなく亡くなった子。わずか10代で亡くなった子。親の自慢の優秀な子で、大学生となり、これからという時に、不幸な事故や事件に巻き込まれて亡くなった子。こういった子は、かわいそうな生涯ではなく、すでに、前世での高徳により天界に達している指導霊で、あえて、進化の留まっている大人に精神面の大切なことを補わせようと生まれてきたのだとも考えられます。

そう考えると、不幸な人は誰一人いなくなるのです。

それぞれの人が、それぞれの「人生のテーマ」を生きているのです。人間に上も下もなく、すべての人の人生は尊いものなのです。

ただ「人生は一度きり」と考えるクリスチャンには、こういった考え方を受け入れることはできません。

神道的な考え方には、そういった優れた面があり、「意(神の望み)に生きる」という方向性も与えてくれます。しかし、神道を信じている人の中でも、そのように考えられる人はごくわずかです。それは、神道には、キリスト教のようなしっかりとした聖典がないからです。

私は、人生の多くをクリスチャンとして過ごしました。現在も、クリスチャンと共に人生を歩んでいます。

ただ、キリスト教は、イスラム教と同様、一神教ゆえ、他の宗教に対し排他的な面は否めないのです。

だから、キリスト教の宗教的な面を外して、道徳的な面で見ると、聖書に勝る道徳書は、有り得ないとさえ思います。私は、仏教もかなり勉強したので、仏教的な心のチャンネルもあります。しかし、念仏は別として、本格的に仏典を学ぶとなると、かなりの知恵が必要となります。仏典は、かなり哲学的だからです。その点、聖書は、子どもでも理解できる、いや、子供の方が大人より感性豊かなので、大人がびっくりするような意見を持つことができるのです。

つまり、そこには、「宗教的キリスト教」や「宗教的仏教」ではない、「道徳的キリスト教」や「道徳的仏教」といった視点が必要になってきます。「道徳的」が付くと、ニュートラルな視点に変わってくるからです。

ノーベル賞を受賞するような科学者は、あえて、タブーとされることも、タブーとは受け止めないようです。常識を疑い、「本当にダメなのか、やってみてから考えよう」という姿勢がある人たちです。すると、それまでの常識の方が間違っていたということを見つけたりするわけです。

真理を追究する人は、一つの宗教だけを信じて、伝統的常識を疑いもしないというのでは、どうかと思うのです。それでは、魂の次元においても進化は有り得ないと思うのです。あえて、邪教と決め付けられているようなものも、何でそういった宗教に人生を賭けている人がいるのか調べてみる。そういった姿勢は必要であるように思います。どんなに愚かな宗教であったとしても、素晴らしい発見があるかもしれません。

そういったニュートラルな宗教観があっても良いように思うのです。これは、無神論でなければ、モラルに欠如する考え方でもありません。むしろ、人間として、バランスのとれた方向性へと向かっていくように思うのです。このバランスの良さが、魂を最大限に進化させていくように思うのです。

日本は、もはや経済大国としての未来は考えにくい状況になっています。これまで、日本は、心理学等を欧米に学んできました。しかし、欧米考え方のベースは、キリスト教です。残念ながら、その考え方は、科学の発達した時代にあって、「無神論」に置き換えられやすくなっています。欧米のキリスト教は、もはや文化としては伝承されていても、精神文化としては限界が来ているからです。

私は、現在、子供たちと係わる仕事をしていますが、現在の若者たちは堕落しているとは思いません。ただ現在の精神文化に限界が来ていることを敏感に感じ、敏感に表現しているだけなのです。

どんなに堕落しているように見える若者であっても、彼らも日本人です。日本人の心の中には、かつての「神仏習合」などにも見られるように、異なった精神文化をバランスよく仕立て直す優れた潜在能力が秘められているのです。

もちろん、私の中にも、そういった能力があるように感じられます。まずは、日本人にふさわしい「道徳教育」について、現在得られている教育現場を大切にしながら、叩き台となるテキストを作り上げたいと考えています。

私が最も尊敬する教師像は、福沢諭吉先生なのですが、福沢先生は、幕末にあって、日本は、身分の上も下もなく、学問で身を立てる時代を作るのだと情熱を持って取り組まれました。欧米に学んだのは、その時代にとっては、ベストのことだったのだと分析しています。その福沢先生が、現代に蘇って来られたならどう考えるのだろう、というのが、私がいつも考える視点となっています。

たぶん、すでに経験した経済大国へ戻ることを考えるのではなくて、むしろ欧米から尊敬されるような国を目指そうと考えるのではないかと思います。そのためには、宗教を一面からしかとられられないような、小さな考え方ではどうかと思います。そこには、グローバルな視点からいって偏りの無い、バランスの取れた「道徳教育」の必要性が感じられます。

これからの日本が。経済大国から、精神文化大国へと成長し、世界中から評価される時代が来て欲しいものだと心から望みます。いや、評価されることなどどうでもよくて、日本人が世界の平和のために大いに貢献してもらいたい。

私も、そういう素晴らしい未来に少しでも貢献できる生涯を送っていけたらと考えています。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 11:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月14日

口で話すことでは人を変えることは難しい

確か『金剛般若経』という仏教経典の一番終わりの部分に、弟子がお釈迦様に、「学んだ悟りをいかに人々に伝えたら良いのですか」と尋ねたのに対し、『ただ悟りに生きるだけで何も伝える必要はない」と答えられていたと記憶しています。これこそ、まさに真実なのではないかと最近、強く感じるようになりました。

私は、最近、コンビニで、日本の神々についてまとめられた本を買い求めたのですが、この本は、誰に勧められたのでもなく、たまたまコンビニで買い物をしていたら、ふと本のタイトルが目に入り、とても興味深く感じられて、手にとって見たら、欲しいと思ったので買ったまでです。

何を言いたいのかというと、悟りとは、口で伝えることは難しいことで、求めていない人に、熱心に何十年勧め続けたとしてもなかなか伝わるものではありません。私の両親は、私が、かれこれ25年以上も、熱心にキリスト教を伝えようとしたのですが、全く関心を示してはくれませんでした。父が、異常なほどにキリスト教を嫌うので、母も父に気遣って合わせているようでもあります。

ですから、今回私が、コンビニで手に取った本のように、人の目に付くところに置いてあるのなら、求める人がきっと手に取る筈なのです。これは、最も自然な伝道方法なのではないかと感じられました。

私は、本を出せる力はまだ得られていませんが、インターネットで多くの人に伝えたいことを紹介することならできます。また、うちの書道塾では11月を「道徳月間」としていますが、集まってくる子供たちに、そういったさわりの部分だけでも話してみて、あくまで興味を持った子だけに、その子が消化できるレベルに噛み砕いて話すこともできることでしょう。もちろん、キリスト教を求める子には、感動的なキリストとの出会いをさせてあげたいです。仏教のチャンネル、神道のチャンネル、そして、少々無神論的でもある科学的なチャンネルも用意しています。

私はクリスチャンではありますが、輪廻転生を理解できるチャンネルも持っているので、今世で全ての人が悟りを得る必要はないとも考えています。ただ、悟りを求める人に優れた悟りを繋いでいける人間でありたいと思います。

とはいえ、何より一番優れていることは、お釈迦様の言われるように、他者を変えることではなく、悟りにひたすら生きることのみにあるのかもしれません。そのことで霊格が上がり、今世はできなくても、今世で得たことが材料となり、来世では、素晴らしい指導的な働きができるかもしれないからです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

古事記の神々と、クリスチャンである私

私の守り神でもある月読命(つくよみのみこと)は、素晴しい潜在能力を秘めながらも、病弱かつ自虐的な側面を持つと言われています。月読命の下には系図が続いていないことから、孤独な性質もあるのかもしれません。月読命が心を寄せ憧れる姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)には、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)に邪魔をされて、かなか交流できないのです。そこで、月読命の心の支えになる神は、年の離れた豊受比売神(とようけひめのかみ)となるわけです。これは、「古事記」の神々の世界と自分とをリンクさせて考えた、かなりスピリチュアルな話ではあります。

私は、現在、過呼吸症候群の発作に苦しんでいます。これは、母の超神経質な性格に日々振り回されているうちに、つい脅迫神経症となってしまったようです。そのことについては、何年も前から、かれこれ数百回に渡り母に相談して協力を求めたのですが、誠意をもって謝られても1日も経たずに同じことをくり返されてしまうので意味がありません。発作が起ると、呼吸が苦しくなり、血圧が異常に上がり、酷い吐き気が起り、不整脈となるので、何もできなくなります。そのことで、私の自虐的性質は強まり、どんどん健康は損ねていくのです。

今年の2月、母が心臓の手術をしたことをきっかけに、母の書道塾を受け継ぎ、子どもたちと接し、4月から近所のお百姓さんから畑を借りて農業をするようになってからは、豊受比売神が降りてきている実感があり、それまで紫一色の心のオーラに緑のオーラが加わってきて、一時、とても元気になりました。

ところが、ここ数か月、健康状態が酷い状態で、一時命の危機となる状態にも陥りました。母は、私の健康がとても心配と言いながら、何かと私の心を脅迫してきます。残念ながら、このことから逃れる方法は見つかりません。逃げるのではなく、克服するしか道がないようです。ただ、このままでは、もう私の命は長くはないと感じています。そうなると、やはり豊受比売神からのパワーがとても必要になってきます。大地の恵、つまり大地からとれるものを大切にいただき、あまり肉は食べないようにしようと思います。社会の男性的な価値観には染まらずに、女性的なセンスを持つこともポイントかもしれません。

話は、ちょっと変な方向になりますが、昨夜、妻と一緒に、私が20代に聞いていた松田聖子のレコードを聴きました。私も妻も、サラ・ブライトマンや、カーティア・リッチャレッリ、中丸三千繪、佐藤しのぶ、鮫島有美子など、本格的なソプラノ歌手の歌声に聴き慣れているものですから、昔のアイドル歌手の歌唱に、さぞかしがっかりするのかと思ったら、お互いに感動して聴き入ってしまいました。妻が、「彼女の歌声には魔力を感じる」と感想を述べたことに始まり、いろいろ話し合っている内に、お互いに彼女の歌声の中に、クレオパトラの前世が細胞分裂したようなものを感じられるようになっていきました。

確か、ケネディー大統領のバースディ・パーティのセレモニーで、当時、世界最高の評価を得ていたソプラノ歌手のマリア・カラスの歌唱が、セクシーな魅力を売り物にしていた女優マリリン・モンローの歌唱に、完全に会場の人気をさらわれてしまったという逸話を思い出しました。つまり、松田聖子は、マリア・カラスではなく、マリリン・モンローのような魅力、いや魔力を持っているように感じられたのです。

松田聖子と同じものを感じる歌手に、安室奈美恵もいるのだけど、松田聖子には、さらにマリー・アントワネットの前世が細胞分裂したものまでも感じられたのです。この点は、安室奈美恵には感じられません。「松田聖子、恐るべし…」

でも、クレオパトラやマリー・アントワネット、そしてマリリン・モンローにしても、最悪の死に方をしています。その点で考えると、羨ましい存在とはいえないのかもしれません。私と同い年の松田聖子さんには、ぜひ、人気絶頂の中で引退したアイドル歌手の山口百恵さんのような、信仰的なチャンネルを持って欲しいと願いたいです。

人気テレビ番組の「オーラの泉」は、残念ながら終わってしまったけど、その中で江原啓之さんが「前世とは、その人が生きるための材料のようなもの」と話されていました。例えば。前世に歌い手をやっていた人は、消された記憶の裏側に眠っている前世で歌い手だった頃の記憶を引き出すことができるので、誰よりも成功しやすい。でも、そういった材料を持ち合わせていない人は、どんなに努力しても、なかなか成功できないということです。そうなると、前世という、どんな材料を持っているか知っている人とそうでない人では、大きく差が出てしまうように思うのです。生活の糧を得るのは、前世の材料を生かして行い、本当に自分がやりたいことは、趣味の方で来世に繋いでいく…。私は、研究することが好きなので、前世は、研究者だったのかもしれません。評価は得てはいるものの、歌の方は、前世の材料は、ちょぴり足りないような気がします。

と書いている私は、カトリックのクリスチャンです。プロテスタント時代を含むと、かれこれ25年以上になります。自分で言うのは何ですが、聖書にはかなり詳しいです。そういう私ですが、こういったスピリチュアルな心のチャンネルも持ち合わせているわけです。キリスト教には、前世という考え方はありません。この二つの考え方は、一緒にできないので、別々に考えるようにしています。また、人間の死をあくまで科学的に理解する無神論的視点も持ち合わせています。そして、それぞれの視点を融合したものの見方をすることもできます。

どうして、日本の宗教に心を持ったかというと、現在習っている歌の先生の影響が発端ではありますが、人類が言葉を発明し、宗教を持つようになる以前の、原始人たちの信仰に近いものに、知恵に走らぬ人間の驕りのないピュアな信仰があると気が付いたことにあります。

ただ、私は、キリスト教を通して、愛の素晴しさを知りました。愛を学ぶことにおいて、キリスト教を超える価値観を他に知りません。なので、私にとっては、このチャンネルも、一生大切にしたい心のチャンネルなのです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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