私は、長いことクリスチャンとして生活しています。『旧約聖書』を代表する預言者モーゼの前で、エジプトの神は、全く無力だったように、他の宗教の神は、無力で生きていな神なのだと長いこと信じ込んでいたわけです。
しかし、2年前に東京で出会った恩人の影響で、神道について学ぶようになってからは、神道を信じる方々との触れ合いを通して、神道の神も生きていることを知ることができました。
さて、この場合、どちらが間違っていて、どちらかが正しいのか、かなり悩みました。
いろいろ調べまくって苦し紛れの一つの解答としては、どちらも間違っていないと言うことです。いや、仏教徒であっても、ヒンドゥ教徒であっても、イスラム教徒であっても、神と対話することはできると考えるようになりました。
神と対話できる人たちの共通の特徴は、穏やかで優しい心の持ち主であることです。汚れ(穢れ)を遠ざけ、清い生活をしています。
神道においては、穢れは「気枯れ」すなわち「生命力の枯渇」のことであるとされ、その状態では人は罪を犯してしまいやすい状態にあると考えられています。つまり、穢れの問題をないがしろにしていては、スピリチュアルなパワーは得られないのです。神が、穢れの状態の人と対話することはないからです。
例えば、生殖に関する行為についてなのですが、本来は聖なるものであるはずです。「魂の進化の過程で、私たちは幾度となく誕生と死をくり返してきた」と考えられるからです。つまり、新しい命を生み出すということは、人類の魂の進化のためにとても重要なことと言えるわけです。
しかし、現実的に生殖に関する行為は、人間を堕落させる穢れとなる危険性を大いに含んでいるわけです。
キリスト教も神道も、そのような行為に対しては、時と場所を吟味するようにと定められています。仏教で言う「煩悩即菩提」ではありませんが、穢れは聖なるものへ聖化できるものでもあるわけです。煩悩(穢れ)無くしては、菩提心は持てないとも考えられます。大切なことは、神と対話するチャンネルを持っているかどうかということなのです。
私たちは、自分の思ったように生きようとしても、そうは生きられません。どんなに経済力に恵まれていたとしても、何もかも得られるわけではありません。特に、死という問題から逃れることはできないのですから。神の計画に従って生きるか、生きないかということは自由意志の問題であるとして、少なくても、死と同様に、与えられた運命から逃れられないものがあるように思えてなりません。
死とは、自然の現象であり、神の計画に必要なものと考えています。
最近、私が気づいたこととは、宗教とは、「何が正しいか」ということに意義があるのではなく、「いかに神と対話するか」が重要ではないかと思うのです。
神道においては、祈りは「意に乗る」すなわち「神の御心に自分の心を合わせる」こととされています。これは、キリスト教でも全く同じ考え方であり、自分の考えに神を従わせるようとする祈りではないのです。「神の御心に生きる」ことこそ重要なのです。
宗教とは、神と対話するためのツール(道具)のようなものだと思います。キリスト教式の方法もあれば、神道式の方法、仏教式の方法、ヒンドゥ教式の方法、イスラム教式の方法など、いろいろあって良いのだと思います。自分の宗教の正しさを主張し合うのではなく、神と対話することが、宗教の本来の意義であると思うのです。
そうなると、正しい宗教とか、正しくない宗教という考え方は、どうでもよくなってくるわけです。
私は、これまで通りに、クリスチャン生活を送っていくつもりです。それは、キリスト教式で神と対話することを意味しています。今年は、元旦から、28日連続で朝ミサに出席しました。毎日、心を込めて聖歌を歌うことは、声楽の良いトレーニングにもなっています。
多くの場合、教会のような良い行いを学ぶために通うところがないと、人は悪い方向に引っ張られやすいものではないでしょうか。自分の罪深さに苦しんでいるような人には、キリスト教はとても向いている宗教だと思います。そういう方は、門を叩いてみてください。あなたのメンター(心の助け手)になってくれる人が必ず見つかることでしょう。
神道も信心が深まっていくと、キリスト教に負けないほどに魂を磨き進化させることのできる宗教だと思います。ただ、教会のような学びの機会が少ないゆえに、その人の「追求心」に掛かって来るわけです。それゆえ、他者に依存しやすい人には、あまり向いていないのかもしれません。