2010年01月28日

神と対話するためのツールとしての宗教

これは道徳教育の研究の一つとしての小論文ではあります。ある意味で、実験的な試みでもあります。


私は、長いことクリスチャンとして生活しています。『旧約聖書』を代表する預言者モーゼの前で、エジプトの神は、全く無力だったように、他の宗教の神は、無力で生きていな神なのだと長いこと信じ込んでいたわけです。

しかし、2年前に東京で出会った恩人の影響で、神道について学ぶようになってからは、神道を信じる方々との触れ合いを通して、神道の神も生きていることを知ることができました。

さて、この場合、どちらが間違っていて、どちらかが正しいのか、かなり悩みました。

いろいろ調べまくって苦し紛れの一つの解答としては、どちらも間違っていないと言うことです。いや、仏教徒であっても、ヒンドゥ教徒であっても、イスラム教徒であっても、神と対話することはできると考えるようになりました。

神と対話できる人たちの共通の特徴は、穏やかで優しい心の持ち主であることです。汚れ(穢れ)を遠ざけ、清い生活をしています。

神道においては、穢れは「気枯れ」すなわち「生命力の枯渇」のことであるとされ、その状態では人は罪を犯してしまいやすい状態にあると考えられています。つまり、穢れの問題をないがしろにしていては、スピリチュアルなパワーは得られないのです。神が、穢れの状態の人と対話することはないからです。

例えば、生殖に関する行為についてなのですが、本来は聖なるものであるはずです。「魂の進化の過程で、私たちは幾度となく誕生と死をくり返してきた」と考えられるからです。つまり、新しい命を生み出すということは、人類の魂の進化のためにとても重要なことと言えるわけです。

しかし、現実的に生殖に関する行為は、人間を堕落させる穢れとなる危険性を大いに含んでいるわけです。

キリスト教も神道も、そのような行為に対しては、時と場所を吟味するようにと定められています。仏教で言う「煩悩即菩提」ではありませんが、穢れは聖なるものへ聖化できるものでもあるわけです。煩悩(穢れ)無くしては、菩提心は持てないとも考えられます。大切なことは、神と対話するチャンネルを持っているかどうかということなのです。

私たちは、自分の思ったように生きようとしても、そうは生きられません。どんなに経済力に恵まれていたとしても、何もかも得られるわけではありません。特に、死という問題から逃れることはできないのですから。神の計画に従って生きるか、生きないかということは自由意志の問題であるとして、少なくても、死と同様に、与えられた運命から逃れられないものがあるように思えてなりません。

死とは、自然の現象であり、神の計画に必要なものと考えています。

最近、私が気づいたこととは、宗教とは、「何が正しいか」ということに意義があるのではなく、「いかに神と対話するか」が重要ではないかと思うのです。

神道においては、祈りは「意に乗る」すなわち「神の御心に自分の心を合わせる」こととされています。これは、キリスト教でも全く同じ考え方であり、自分の考えに神を従わせるようとする祈りではないのです。「神の御心に生きる」ことこそ重要なのです。

宗教とは、神と対話するためのツール(道具)のようなものだと思います。キリスト教式の方法もあれば、神道式の方法、仏教式の方法、ヒンドゥ教式の方法、イスラム教式の方法など、いろいろあって良いのだと思います。自分の宗教の正しさを主張し合うのではなく、神と対話することが、宗教の本来の意義であると思うのです。

そうなると、正しい宗教とか、正しくない宗教という考え方は、どうでもよくなってくるわけです。

私は、これまで通りに、クリスチャン生活を送っていくつもりです。それは、キリスト教式で神と対話することを意味しています。今年は、元旦から、28日連続で朝ミサに出席しました。毎日、心を込めて聖歌を歌うことは、声楽の良いトレーニングにもなっています。

多くの場合、教会のような良い行いを学ぶために通うところがないと、人は悪い方向に引っ張られやすいものではないでしょうか。自分の罪深さに苦しんでいるような人には、キリスト教はとても向いている宗教だと思います。そういう方は、門を叩いてみてください。あなたのメンター(心の助け手)になってくれる人が必ず見つかることでしょう。

神道も信心が深まっていくと、キリスト教に負けないほどに魂を磨き進化させることのできる宗教だと思います。ただ、教会のような学びの機会が少ないゆえに、その人の「追求心」に掛かって来るわけです。それゆえ、他者に依存しやすい人には、あまり向いていないのかもしれません。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月23日

自分以外の自分との出会い

放送大学に学ぶ妻の勉強の協力をしていたら、ふと次のような文章が頭に浮かび書いてしまいました。まだ、未完成の(完成は困難とも思える)理論ではありますが、今後の課題とする意味で記しておこうと思います。


社会的自我論を学ぶと、デカルト(1596-1650 フランスの哲学者・自然哲学者・数学者)の「我思う、故に我あり」ではなく、「我々思う、故に我あり」となってくる。ミード(1863-1931 アメリカの社会心理学者・哲学者・思想史家)によるその理由とは、はじめから生物学的な構成物としての自我が存在していると考えるのではなく、自分以外の社会(「意味のある他者」)とのコミュニケーションによって積み重ねられていくことで自我が形成されていくという考え方なのである。

しかし、本当に、自分以外の社会(「意味のある他者」)のみで自我が形成されているのだろうか。

自分以外の自分(一つの見方として、「前世の自分」)との無意識での対話はなされていないだろうか。また、その無意識へのアプローチの方法によっては、自分以外の自分(「前世の自分」)への目覚めが起き得るのではないかと私は考えるのである。

そこで、意識下で考えることについて分析してみたいと思う。

1.生物的構成物としての自我:遺伝的要素(父的、母的、一族的…血縁的な方向性)
2.自分以外の社会とのコミュニケーションによって形成された自我:経験的要素(ミードの論)
3.1.の要素とは異なる自分らしさ(無意識で取る方向性):前世的との無意識での対話

「人は死ぬと、その後に生まれ変わることにより、無意識の側で生き続けるということではないだろうか」という仮説を立ててみた。

前世の自分と今の自分は、ほぼ一体化している。ほぼ一体化しているゆえ、区別が付きにくく、前世の自分の存在を見出しにくいのである。

ただ、前世の記憶は消されているため、記憶による対話には至らない。「心の方向性」による無意識の対話をしているようである。ただ、時折、その記憶が薄っすらと、断片的に蘇ることもある。そういった、薄っすらとした記憶の断片をつなぎ合わせていくと、前世の自分が少しずつ見えてくるのではないかと考えられるのである。

3.では、記憶による対話とならない故、どんなに前世で語学をマスターしたからといって、今世で何もしなくても語学ができるようになるということは考えにくい。あくまで、「心の方向性」なのだが、されど、この「心の方向性」こそが語学をマスターするのに大きく係わってくるのである。つまり、前世の引き出しの無い者より、ある者の方が、克服するスピードが早いと考えられるのである。そういう意味で、人格に与える影響は、決して小さいものではないと思えてならない。

前世の引き出しの無いことに挑むということは、前世の引き出しを持っている他者より遥かに時間が掛かるため、大変苦しみが伴うのである。できるだけ前世の引き出しの無いことに挑むことは避けた方が苦しみの少ない人生になりそうではあるのだが、前世の引き出しを使うだけの人生では、「今世の課題」に取り組んでいるとはいえない面もあるような気がする。苦手なことを猛烈な努力で克服して、得意科目にできるとなると、前世の引き出しはさらに豊かなものとなっていく。こういう方向性を持っている者は、指導霊的な方向性が生まれてくるような気がする。

その視点で考えて、自殺は良くないと考えられるのだが、自殺して人生から逃げたつもりでも、生まれ変わり、前世の影響が大きいということは、来世でも同じような課題にまた取り組まなくてはならなくなると言えるからだ。つまり、苦しみの問題からは、簡単には逃れることはできないのである。もちろん、家族やその人と関わってきたひとたちを悲しませせるという意味でも自殺は良くないと思う。

とはいえ、生まれっぱなしの生き方(目的を持たない生き方)では、生きていながら前世の自分には出会うことは難しい。スピリチュアルな知識とトレーニングがどうしても必要となってくるのである。

生まれ変わりとは、その人の強い希望で果たされると考える宗教家もいるようである。私は、すでに組み込まれている大自然の法則のようなもの(人体にも組み込まれているホメオスタシスのようなシステム)でなされるのではないかと考えている。

私はクリスチャンなので、前世や生まれ変わりという考え方を断定的に考えることはできない。ただ、日本人の多くの人は、仏教的前世観を持っていることから、そちらのチャンネルを持とうと努力しているのである。

何より、日本人に最も適した「道徳教育」を考える上で、こういった方向性の研究も有益ではないかと考えているのである。



今日書いた内容は、多分、2000年前のクリスチャンには理解できない内容ではないだろうか。『旧約聖書』の流れからいって、かなり逸脱しているからである。それに、科学的な見方は、現代ほど発達していなかったのだから…

とはいえ、キリスト教は、「愛」を学ぶ宗教である。キリスト教的には、前世がどうのこうのではなく、「愛」を学ぶことが最も重要なことと考えるのである。そこのところだけは、見失わないようにしたいと思っている。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月20日

今日の朝ミサのご説教より

マルコ 3・1−6

安息日に、片手の萎えた人を癒されたイエス。その人に、生きることを望まれている神の愛がそこにあります。

しかし、世の中には、変な神も存在します。ヒンドゥー教の神にも見られる「死の神」とか、メキシコでも、教会を離れた信者さんの中には、がい骨の形をした神を信じている人もいて、麻薬とか、破滅的な方向に走っています。

さて、イエスと考え方の合わない、認めれないパリサイ人は、そのことでイエスを殺す相談をします。彼らの神とは、「生きる神」ではないということになってしまいます。

私たちの日常生活の中で、こういったイエス様の判断したことをどう生かしたらよいのでしょう。私が、「生きる神」、つまりは「真実の神」に心が向いているのか、「死の神」の方に心が向いているのか、見極められますよう神に祈り求めましょう。




(そこから、私が学んだこと)
イエス様は、助けを求める人には、憐れみの心で愛溢れる行動を取られているのですが、自分に批判的な者に対しては、怒りを向けたり、誤解を晴らそうと弁解することをしません。つまり、自分の側が正しく、間違っている相手を変えようといった高慢な考え方をしないのです。黙って、言われるがままにされています。相手に怒りを向けてしまうと、どうしても、相手を呪うような気持ちを抱いてしまいがちになります。怒りの気持ちをじっと心に納めておく信仰は、「人としての品位を高める」ものになると思います。単に理想を語るだけの者であってはいけないと思うのです。



今年は、1月1日より、連続20日ミサに出席したことになります。目標としては、イースターの頃まで朝ミサに出席しようと思います。イースターが過ぎると、農業の準備に入ります。

今年は、5月の「盛岡芸術祭声楽部門演奏会」で歌いたいと考えています。

昨日、競書の出品を終えました。今日からは、「毎日学生書初め展覧会」と「北光誌上書初め展」の審査と、出品手続き等でてんてこ舞いしそうです。子供たちには素晴らしい作品を書いてもらいました。手落ちがあってはいけません。ブログの方は、少し離れさせていただきます m(__)m

最近、アクセス数が増えているようなので、一言書いておきます。しろねこは、短気?集中型なので、記事は5分〜10分ほどで書いてしまいます。ただ、誤字が多いのが欠点でして、後で読み返しては修正を加えているわけです。ねこというものは、チャレンジした後は、ぐうたらして日向ぼっこしたりするわけです。そちらの面は、皆さん知らないのでしょうね (=^・^=)ノ




posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月19日

今日の朝ミサのご説教より

マルコ 2・23−28

世の中には、右側、左側、自由主義、共産主義、テロリストなど、極端に走りやすい性質があるようです。
イエスは、律法に対して、自由でした。
それに対し、パリサイ派の人たちは、偏りが大きいように感じられます。
宗教の中には、マリア像は要らない、十字架も要らないというものもありますが、それは「やりすぎ」なのだと思います。
私たちは、イエスに習って神の愛に生き、偏りが無く、真に自由であるよう神に祈り求めましょう。




(そこから、私が学んだこと)
崇高な理想とは、時に人を傷つける凶器になり得るものだと思います。私は、「クリーンな政治」を掲げた政治家の政策により、職を失い、自殺に追い込まれた人たちのことをを知っています。マキャベリの『君主論』ではないのですが、政治家とは、理想に走りすぎず、現実を無視せずに、時には泥をかぶり、人びとから非難をされながらも、バランスを考えながら少しずつ良い方向に動かしていくという考え方も重要なのだと思います。そういう考え方は、はっきり理解しずらいゆえ、一般受けしないものです。むしろ、一般受けするような考え方の方に、偏りのある危険性があるように思えてならないのです。真に自由にあるためには、全方位から考えられる視点が必要なのかもしれません。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月17日

スピリチュアルな霊界との通信ツール

最近、古神道について研究しています。日本の古代史は、6世紀以前の生きた人間について正確な理解が難しいものとなっています。なぜでしょうか?

その原因は、藤原氏にあるという説が最も有力です。当時、豪族たちの寄り合い所帯で情勢が流動的で悩みが絶えませんでした。8世紀に、救世主とも言える聖徳太子が登場します。彼の律令制により、官位を与える事で豪族達から土地を取り上げ朝廷の所有物とし、朝廷の政治基盤を磐石なものとしたのでした。しかし、その聖徳太子の息子の山背大兄皇子一族を、蘇我入鹿により滅亡に追い込まれたのですが、影で操っていた黒幕は、中臣鎌足。つまりは藤原氏だったのですが、『日本書紀』の編纂において、罪のない聖徳太子一族を滅亡に追い込んだ責任を蘇我入鹿になすりつけるため、我が国の古代史に致命的な改ざんを加え、『日本書紀』を嘘を嘘で固める「嘘ばかり集めた書物」としてしまったのでした。歴史の勝者が、政敵を悪と見なし、鬼(悪魔)に仕立てる。また、勝者を神へと仕立てていく…

ヤマト建国は、神武天皇が、高天原から高千穂の峰(宮崎県北西部)で租神が舞い降り、ヤマト(畿内)へ向かったことで成し遂げられたとなっており、3世紀に、その畿内で民を治めていたと言われる卑弥呼は、天照大神とリンクします。その卑弥呼を暗殺?して、北九州に邪馬台国を移した台与(トヨ/神功皇后で、「応神天皇=八幡様」の母)は、豊受大神とリンクします。などなど、『日本書紀』の嘘暴きと言う視点で読むことで、おぼろげに見えてくる日本の古代史の世界ではあります。

こういった研究をすることで、「人類が潜在的に持っている愚かさ」を強く感じ、打ちのめされることとなりました。

宗教の発生理由とは、やはり「人間の都合から」と考えるべきなのだろうか? 集団、さらには民をまとめ導くための決まりごと(掟)や、心が弱くなりがちな個人の意識レベルを上げるための自分に対する掟を与えるものとして…

そのことは、私自身のクリスチャンとしての信仰にも影響が及んできました。

『聖書』は、確かに素晴しい読み物ではありますが、決して正しい歴史書というわけではないようです。もともと預言者や使徒たちによって綴られたものであるとはいえ、長い時の流れの中で書き改めや削除や書き加えが施されてきた可能性が高く、原典はどうだったかについて知る手掛かりは何一つないのですから… イエスは実在しなかったという説まで唱えている学者もいるのですが、私はそうは考えていません。選ばれし民族と、そうでない民族の間での戦争(殺し合い)についてが描かれ、かつ厳しい掟で民を一つの考え方にまとめ上げようとする『旧約聖書』と対比して、「愛の教え」「自由の教え」を説くイエスの教え(『新約聖書』)は、実に感動的であり、否定する余地はないのです。

しかし、コンスタンティヌス大帝(初めてのキリスト教皇帝/313年にミラノ勅令を発布し、キリスト教を公認)以降、やはり権力を持つ側の宗教という色合いが濃くなっていきます。これは一神教の宿命なのでしょう。神道においても、明治以降、欧米の列強に近づく意味で、天皇を一神教的存在(現人神/アラヒトガミ)に祀り上げたことで国家神道となり、不幸な戦争の歴史を歩むことになったのですから。

キリストにおいても、『日本書紀』でみられるように、死んだ後に神へと仕立てられていったような気がしないでもありません。4つの福音書にしても、キリストが亡くなった直後に書かれたものではないからです。イエスは、ユダヤ教では、一般に偽メシアと認識されています。この場合、「キリスト=神」というところが受け入れられない理由になっているように考えられます。何も神に仕立てなくても、キリストの歩みは十分に素晴しい内容なのですが… 

例えば、マザー・テレサや、最近注目されてきた直江兼続や坂本龍馬などは、神ではなくても、「こんな考え方のできる人間になりたい」、「こんな時、彼(彼女)ならどう考えて切り抜けるのだろう」などと憧れを抱いて手本にすることはできるのですから…

神道にしても、キリスト教にしても、神化した価値観の化けの皮が剥がれいくと、信仰者としてはシラけてしまいがちですが、私の場合は、そうではありません。

例えば、カトリックのロザリオにおいては、やり方に大きく左右されるのですが、私のやり方では、スピリチュアルな世界とリンクすることができます。黙想課題の裏にある真理に触れることができるばかりか、今日、何をすべきか、何を慎むべきか、といった導きを得ることもできるのです。

私は、二十数年振りに、毎日欠かさず、修道院の朝ミサ出席にチャレンジしているのですが、ミサでの御言葉を思い巡らすと、ロザリオ同様、言葉の裏側に隠されている真理に触れることができるばかりか、今日、何をするべきか、何を慎むべきか、といった実に具体的な導きを得ることができます。これまでの人生を振り返ってみて、二十数年前のあの頃は、私の人生で一番輝いていた幸福な時代でもありました。

同様、神道関連の「高島暦」や、「日本の神様カード」(タロットカードのようなもの)、御神籤などを用いることは、「日々のテーマ」、「月間のテーマ」、「年間のテーマ」、「人生のテーマ」といった、導きが得られ、神意に生きる目安となっています。

つまり、こういったものは、「神と交流するツール」でもあるわけです。私は、そちらの方面に、大きな価値観を持つことができました。正しさが怪しい宗教そのものにではなく、その宗教から派生したものとはいえ、宗教を超えた世界へと誘ってくれるツールの方に重要性を感じられるようになったわけです。そう考えると、「正しい宗教」などという考え方など、どうでも良くなってくるわけです。非難し合うことなどなくなってきます。

結局、何を言いたいかというと、「正しい宗教」という視点で追求しても、残念ながら失望するしかないのですが、こういった「スピリチュアルな霊界との通信ツール」を持つのなら、失望するのではなく、より良い自分を引き出すものになっていくように思うわけです。

多くの信仰者には、そういった失望感を無意識のうちに避けようとして、他の価値観に一切目を向けずに、一つの狭い価値観に留まろうする傾向が見られます。そういった考え方も、平穏に生きるための一つの知恵とも考えられるのですが、私としては、「平穏よりも進化」が何より大切と考えており、最先端の科学のエッセンスにも目を向けて、より進化した信仰に生きていきたいと思います。どんなに平穏に生きたいと思っても、思いもしない試練に出会うのが人生でもあるからです。

また、人生は一度きりのものではないと考えています。もし、私が5万年前に、その一度きりの人生を歩んだとしたのなら、深い学びのできる現在の人生から考えて、あまりに物足りないものといえることでしょう。やはり、魂は、進化していくものであると思えてなりません。私は、死というものは、あくまで一つの章が終わったに過ぎず、次の章を学ばなくてはならないように、魂の進化に終わりがないと思うのです。私たちは、「壮大なる魂の進化」を生きているように思えてならないのです。

私の思い描く「前世観」とは、仏教などにみられる宗教的な考え方とは異なり、長い長い人類の歩みと、その進化に目を向けるならば、誰でも思い描けるような、ごく単純で自然な考え方なのです。

とはいえ、「前世のことなど知らない」と言う人がいて当然です。多くの場合、記憶が消されているのですから、しかし、なぜこの親のところに生まれてきたのか。自分の得意なものや苦手なもの。これまでに出会った人の傾向等を分析し思い巡らしてみると、いろいろ見えてくるものです。夢や、神と交流するツールなども重要な手がかりを示してくれることでしょう。

21世紀の宗教観は、大きく進化していくと信じてやみません。単に伝統を守るといった狭い視点ではなく、より広い視野で物ごとを見つめ、バランスの取れた考え方を身に付けていく方向性へと向かうのではないでしょうか。科学においても、目に見えない世界の解明が進んでいます。

まだまだ、無知で勉強不足を実感しています。これからも、「スピリチュアルな霊界との通信ツール」を生かしながら、書道のスキルを磨き、声楽のスキルを磨き、子どもたちへの指導法のスキルを磨き、歴史や古典に学び、さらには人文科学等の最新の学問も大いに学び、「壮大な魂の進化」を念頭に大いに精進していきたいです。


今日は、阪神・淡路大震災から15年。今日も早起きできたので、5時46分、NHKテレビで追悼式の様子を見ながら黙祷を捧げました。あの頃の私は、寒さに凍えながら働く肉体労働者でした。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月14日

2010年1月1日ダウンロード違法化施行

今朝のニュース番組でやっていたのですが、2010年1月1日にダウンロード違法化が施行されたとのことでした。


知らなかった…

忙しさにかまけて、ニュースに疎い状態だったし…



そうなると、YouTube動画のダウンロードは、違法となり、つまり犯罪ということになってしまいます。


残念なことですが、これからは、Youtube等は閲覧のみにし、気に入った動画があってもお気に入りに追加するなどだけにするようにしたいと思います。



特にここ数年、PCインターネットを通して、夢のような音楽鑑賞が出来ました。十分に楽しませてもらったので、これからは以前のようにCDを購入する方式に戻そうと思います。

「違法コピー」という響きがどうも嫌な感じがするので、iPodをやめて、CD WALKMANに変えちゃおうかな? ちょっと重たくなるけど…

パソコンやiPodに繋いでのスピーカーにもこだわったりもしたけど、これからは、以前のようなオーディオ環境で楽しもうと思います。



この際、パソコン依存の生活も見直してみた方がいいのかもしれません。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン・インターネット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

サウンド キャプチャーの極意

サウンド キャプチャーとは、パソコンで流れている音を録音することです。

残念ながら、未だに、Windowsパソコンでの話ではあります。早く、MacBookに変えたいのですが…


デスクトップ画像のキャプチャーなら、キーボードの[Print Screen]を押して、[ペイント]を開き、[編集]→[貼り付け]と進み、[ファイル]→[名前を付けて保存]でできます。これは、画面全体のキャプチャーですが、選択画面だけのキャプチャーは、[Alt]+[Print Scree]でできます。これは余談ではあります。


音声のキャプチャーの方は、[スタート]→[プログラム]→[アクセサリー]→[エンターテイメント]→[ボリューム コンロール]とクリックします。

メニューの[オプション]→[プロパティ]→[録音]と[ステレオ ミキサー]にチェックを入れ →[OK]でWindows上の設定は終了。次に、フリーソフトの Sound Engie Freeを立ち上げます。録音の仕方としては、パソコン上で音を流せる状態で、[赤い丸のボタン]をクリックします。右側の録音レベルメーターが動くので、先ほどの、[ボリューム コントロール]画面に戻り、[ステレオミキサー]のスライドを上下させて調整します。[赤い丸のボタン]をクリックすると録音が開始され、その[右隣のボタン]→[CLOSE」とクリックします。不要な削除したら(方法は割愛、「ヘルプ」を参照)、[ファイル]→[名前を付けて保存]で完了です。

前置きはこの位にして、本題に入ります。数ヶ月前から、パソコンのノイズに悩まされていたことです。そのため、サウンド キャプチャーをしても音質が悪く納得がいきませんでした。

もしかして、デスクトップ パソコン(DELL)をWindowsを98からXPにグレードアップしたことで、起こった不具合なのだろうか? USB2.0の増設インターフェースをした際に、不具合でも起こったのだろうか? それにしても、ごく最近まで調子良かったのに… 

それとも、Windows Updateのくり返しにより、サウンド ドライバに不具合が起こったのだろうか? では、サウンド ドライバ(CREATIVE)のアップデートファイルを入手しなくてはならないものかと、いろいろ考えました。一応、外付のUSBデジタル オーディオ プロセッサ(ONKYO)は持っているのですが、これは、ライン入力とマイク入力には対応していても、サウンド キャプチャーには対応していないので、パソコン内臓のサウンドカードがどうしても頼りなのです。とはいえ、内臓サウンドカードを高性能なものに交換するお金も無いし…


ONKYO WAVIO USBデジタルオーディオプロセッサー SE-U33GXV(B) /ブラック

ONKYO WAVIO USBデジタルオーディオプロセッサー SE-U33GXV(B) /ブラック

  • 出版社/メーカー: オンキヨー
  • メディア: エレクトロニクス



いろいろ考えたてみたのですが、この場合、ライン入力に問題がありました。

これは自分にとっては、「嬉しい大発見」でした(時間が経ってから考えてみると、大発見ではなく、基本を忘れていたことに気付く…)。

原因として考えられることは、お習字のお弟子さんで歌手志望の子がいて、歌のレッスンをしていたのですが、携帯電話のカラオケで歌いたいということで、ライン入力のオーディオ ケーブルを長いものに連結して使用したのですが、連結接続をした他に、長いケーブルを用いたことで、ノイズが目立つようになったようです。それまでは、連結せずに、短いオーディオ ケーブルを使用していたので、ノイズがそれほど気になりませんでした。

デスクトップ パソコンは、サウンド カードの端子類が背面にあり抜き差しが面倒なことから、オーディオ ケーブルを挿しっぱなしにして使っています。パソコン本体にには、オス端子を繋ぎ、ケーブルのもう一方はメス端子のものを使用し、そこに別のオーディオ ケーブルを連結して使う方法を用いていました。この方法はとても便利なのですが、音質を悪くしてしまった原因でもありました。


そこで、ここからが極意です(と、言うほどのことでもないか…

[スタート] → [プログラム] → [アクセサリー] → [エンターテイメント]
→ [ボリュームコンロール] とクリックします。

[ライン入力] のチェックを外します。

これでパソコンのノイズは、ほぼ無くなりました。

(再生オプションの[ライン入力]の[ミュート]にチェックをを入れる方法や、サウンド キャプチャーをする際にはオーディオ ケーブルを外すことでも効果があるようです。急にノイズが目立ってきたなら、こういうことろをチェックしてみよう。)


サウンド キャプチャーではなく、ライン入力を使う際には、設定を変更し直す必要があります。まずは短いオーディオ ケーブルに差し替え、[ライン入力]のチェックを入れるだけです(考えてみると当たり前のことだけど、長いことご無沙汰していると、ついつい不具合と思ってしまう…)。


パソコンのノイズがほぼ無くなったことで、再び、YouTubeの音楽をサウンド キャプチャーし、MP3に録音し、iPodにデータを流して、外出先でも音楽を楽しむことができるようになりました。。私は、iPodを主に歌の練習に用いています。パソコンで流れる音声は、この方法で全てゲットできるわけです。

ただ、EPSONのデスクトップ・パソコンのオンボードサウンド カードは、それにしても音質が悪い。DELLの方が、それ以上に酷いノイズになってしまっていたので、気がかりになっていたのでした。CREATIVEのサウンド カードの性能のよさを久々に再確認できました。それこそMacなら高性能なのでしょうけど…

私の場合、ポピュラー系は、CDを購入し、クラシック系は、YouTubeから音声をゲットしている傾向があります。クラシック系は、楽譜が手に入りやすいので音声だけで十分ですが、ポピュラー系は、楽譜が手に入りにくいので、歌詞カードがどうしても必要だからです。とはいえ、歌詞検索のサイトもあるので、そうなると有難いようで、申し訳ない感じがします。やはり、ファンのミュージシャンや演奏家の音楽は、CDを購入するべきと考えています。


iTunesのクラシック・ラジオ放送の音があまりに悪くて、ここ数ヶ月がっかりしていただけに、今日は、超嬉しい発見と浮かれてしまったけど、よくよく考えると愚かな記事を書いてしまったような気がします。あれじゃ、パソコンが酷いノイズ起こしても当然だよな… 最近、仕事が大変で、PCサウンドの方は、ご無沙汰していたもので m(__)m
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 16:03| Comment(0) | TrackBack(0) | パソコン・インターネット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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