ちなみに今日の言霊です。
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成長を妨げる壁を作っていたのは
俺の意識のみだった。
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確かに、自分の成長を妨げる壁は、自分の考え方にあるのではないかと… 思い当たることが次々浮かんできました。せっかくチャンスがあっても、自信のなさからたじろいでしまうことが何度もあったかも… やる前から、「できない」と決め付けてしまう弱気の自分がそこにいました。
でも、「できない」と壁にぶつかった時、諦めずに、投げ出さずに保留していたら、数年後、ふとしたことからできる方法を見つけたという経験もいくつかあります。投げ出してしまったら、実にもったいないことでした。パソコンもそうだし、ホームページ作成や、音声編集のスキルにおいても、投げ出しそうになったものではありました。そういえば、書道も、声楽も、投げ出しそうになったっけ。
ですから、「できる」他者と「できない」自分とを比較するようなことはしないで、また、一気に実りを得ようともしないで、じっくり時間を掛けて目的地に至るまでのプロセスを大切に味わうようにする。そうするなら、「できない」の壁を乗越えていけるのだと思うのです。
「できない」と、すぐに決め付けてしまわないようにしたいと思います。
さて次に、今日の修道院の朝ミサ中に頭に浮かんだ事ではあります。
神様は、その人の心に「合わせてくれる」心広きお方であるということです。キリスト教徒には、キリスト様やマリア様になって、導きを与えてくれる。仏教徒には、お釈迦様になって、神道の信徒には、天照大御神や、月読命になって… すべて指導霊のなす業ではないのかと…
ミサ後、神父様に、「どうして『旧約聖書』には、他の宗教を完全否定し、神が呪うとまで書いてあるのですか。」と質問したところ、「そうだねえ、旧約の舞台は、砂漠の中で生活に命が掛かっていたしね、当時の人たちの精神レベルはかなり低かったので、"唯一の神"としないと、民が好き勝手な考え方して暴れだし、指導者の言うことを全く聞かずに、まとめられなかったのではないのかな。キリストの言う悪い神とは、この世の富なのかもしれないね。」と答えてくださいました。つまり、聖書の時代背景を無視して、字面から読み取ると恐ろしいことになってしまうという意味でもあると思うのです。
私は、今日の神父様のように、神様も心の広い御方と信じています。