2010年05月25日

古い自分と新しい自分、未来の自分

私の心中に古い自分が存在していて、私を困らせることが多いように感じている。

その古い自分とは、前世の自分のようでもあり、しかも一番最後の前世の自分が強く出ているように思えるのだ。

私が変わろうと頑張っていると、変わらないでくれと騒ぎ出す。私が変わるということは、古い自分が消えていくことを意味しているようなのだ。

はじめは、悪霊かとも思えたが、どうやら自分の一部であることがわかってきた。悪霊も確かにいると思うのだが、悪霊とは別の存在を感じるようになったのだ。

今の自分で考えてみて、もし、未来の自分(生まれ変わった自分)が大きく変わることで、今の自分を消し去ろうとしたらどうだろう。抵抗しないだろうか。魂の修行(進化)のために、記憶が隠されていたとしても、未来の自分の中に、その心は立派に根付いているのだから。

自然の法則とは、過去を一切否定せずに、ひたすら積み上げていくことなのだと言う考え方もあるが、それにあてはめるとするなら、古い自分を捨て去るのではなく、いたわりながら、新しい自分を積み上げていくという方向性がより自然なことなのかと思うのである。

自分を変えようと思っても、なかなか変えられない理由がそこにあるように思うのだ。

例えば、前世で音楽をやってきた人は、音楽の飲み込みが、そうでない人に比べ格段に優れているのだ。そういった素材が無いのに音楽をものにしようとしても、苦労の割には実を結ばない。そう考えると、自分の素材とは何かを知ることは実に重要なことなのだ。

同じ親の元に生まれても、兄弟で才能に大きく差が出てくるとなると、古い自分の問題と言えるのかもしれない。まあ、あくまで仮説の領域ではあるが…

最近、古い自分と新しい自分を見出しつつあるが、そのことで、死ぬことは終わりではないということを強く感じられるようになった。

そして、輪廻することが怖いから、何が何でも解脱の道を歩みたいとも思わなくなった。なぜなら、今世で克服したことは、未来の自分(生まれ変わった自分)に間違いなく生きていくといえるからだ。さらに、未来の自分に邪魔をしない自分でありたい。そう考えると、あんまり無理しないで、さりげなく変わっていく人生を歩みたいとも思う。まあ、輪廻という考え方も、越える真理が見つからないとも限らないが…


多分、頑張りすぎると、自分を失いたくない気持ちが強くなりそうだから。

また、頑張らなすぎると、未来の自分に否定される気持ちになりそうだから。


無理せず自然な魂の進化を楽しんでいきたいと思う。


できない自分をいたわりながらも、できる自分へと一歩一歩、無理をせずに、積み上げていく。


今日の内容にしても、つまらないようなことを考えていると思われる人も多いことだろう。しかし、このようにいろいろな角度から考えていくと、きっと真理が見えてくるように思えてならないのだ。こりずに続けていこうと思う。


何事も思い込みや決め付けは、真理から遠ざかる方向性であると思う。




多分、数ヵ月後の私は、今日書いたことを古いと考えていることだろう。






何事にも捉われない、偏りの無い、自由な心を保ち続けたいものである。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月22日

心の完全武装をしていた自分

今日は、世界一という称号の付くようなピアニストの演奏会を聴きにいきました。

私がこれまでに聴いたコンサートの中で、間違いなく一番上手い演奏といえるものだったと思います。

しかし、感動ではなく、悲しさを感じられたのが不思議でした。悲しいほどに完璧な演奏だったのです。

彼のイメージを言葉にすると、「孤高のピアニスト」「瞑想のピアニスト」「深い哲学を感じられる演奏」でしょうか。造詣が深すぎて、遊び心が全く感じられないのです。凄すぎて、「うーん」と唸るしかありません。

あまりに崇高な演奏は、次元が高すぎて、私の心は心が付いていけませんでした。演奏会が終わってからも、心が消化不良で、考えて込んでしまう始末。かなり疲労感が残りました。

ブラボーと何度も叫びましたが、残念ながらアンコールはありませんでした。彼は、常に最高を追及しているため、立ち止まって幸せを味わうタイプでは無いと見ました。調子に乗ってアンコールに答えるということは、やはり有り得ない人なようです。

今まで、心のどこかでこんな完璧なピアニストを求め続けてきた筈なのに、いざ出会ってしまうと、どうしてこんなに悲しいのだろう。帰りのお客さんの様子を見ていても、あまり笑顔が見られませんでした。彼自身、幸せを感じているのかはわかりません。もしかすると、完璧な演奏を追及するあまりに、人間的な幸せなんて求めていないのかもしれません。修行僧のようでもあるかもしれません。

この人は、周りにいる悩んでいる人、苦しんでいる人の声を聞くことなどあるのだろうか?

崇高なる理想の演奏をひたすら追求している彼に、そのようなことをしている様子が全くイメージできませんでした。

最近の私は、忙しさのあまり、そういう人を避けるようになっていることに、ふと気が付きました。

つまり、彼の演奏を通して、現在の自分の愚かさに気が付くことができました。

私は、特に信仰面で、知識や悟りによる心のレンガを張り巡らして完全武装してきたように思います。より高い次元を求め、いつの間にか、心が暴走していたのです。

どんなにケチの付けられない真理に至ったとしても、多くの人が付いてこれないようなものだったら意味があるのでしょうか?

魂の進化というテーマにおいても、本当は、そんなに無理をする必要がないのかもしれません。

輪廻を終えて解脱するということが、本当に優れたことなのかもわかりません。自分だけ天国に至ったとしてもどれだけのものでしょう。

単に神に心を向けられる目を持てたなら、きっと来世も無意識で神に心を向けられる人でいることだろうと思います。つまり、来世でも、神に心を向ける自分と出会うことができると思うのです。

というより、輪廻という考え方もこだわり過ぎる必要がないのかもしれません。もっと大切なことがあるように思えるからです。

まあ、その程度の信仰のレベルなら、多くの人と笑い合うことができるだろうし、どんなに苦しいこと辛いことがあったとしても、周りの人から元気をもらいながらも、また元気を与えながらも、なんとかやっていくことが出来ると思うのです。

人より先に行くことを考えるのではなく、多くの人と共に歩む方が、人間らしくてよいのかもしれないと、ふと感じられてなりませんでした。

これからは肩の力を抜いて、自然体でいこうと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生きてさえいれば

良い教師は、教え子の才能を引き出すことが得意です。どんなに出来ない子でも、克服法を見つけてあげることができます。

しかし、教師とカウンセラーは大きく異なります。

カウンセラーは、やる気を失っている人に決して頑張れとは言いません。


「今のままでいいんだよ」

「何も無理して変わらなくてもいいんだよ」

「ずっと変わらなくたって大丈夫だよ」

「これからも、私はずっとあなたの話相手だからね」

「これからも、ずっと人生を共に歩んでいこね」


これは、究極の癒しの言葉だと思うのですが、向上心を持った人にとっては、ものすごく甘えのある言葉にも感じられることでしょう。

でも、向上心を持っている人より、持てずに苦しんでいる人の方が圧倒的に多いように思うのです。

利益を追求する社会では、そういう人たちの生き場を失うような価値観を押しつけてきます。

生きてさえいれば、ふとしたことから、人生を賭けて取り組もうと思う自分のテーマに出会えるかもしれないし、仮に出会えなくても、来世に出会えるチャンスが繋がるように思うのです。

この究極の癒しの言葉を言える人が増えていくのなら、多くの人々の心に輝きが戻ってくることでしょう。

私は、今の自分は、前世の自分の続きを生きていると感じられるようになってきました。というのは、前世の自分の欠片をかなり見出してきたからです。

ということは、来世でも、自分の前世の(つまりは現世の)欠片を見いだせられるきっかけを作ったように思えてなりません。また、前世の自分と出会うと出会うほど、輪廻する回数が減ると、何かで読んだことがあります。より、高い次元に導かれていくということなのでしょう。これは、向上心の持った人間の考え方なのかもしれませんが…

死は、終わりではありません。この生命の原理を考える時、自殺はできなくなるし、死刑も意味のないことだと思うのです。その人は、来世でも死刑になるような生き方をするだろうからです。死刑囚には、死刑に処することなく、優れた教師による心の学問を思う存分させてあげるのが一番意味のあることなように思うのです。そうすると、来世では、心の学問を求める人に生まれ変わるだろうからです。

とにかく、何も立派にならなくても、情けないままであったとしても、与えられた人生を全うすることに大きな意義があると思えてならないのです。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月06日

昨日は…

昨日は、久々に記事を書いてみました。

何かと忙しすぎて、ブログを更新することができず、これからも更新することは難しいかもしれません。

とあるSNSの方にも、久々に記事を公開したのですが、やはり不評でした。

「難しすぎる」とか「考えすぎでは」とのことでした。

このことは、当然のことなのだと受け止めています。


残念ながら、まだまだ「よくわからない」状態ではあるものの、間違いなく良い方向に導かれている実感が得られています。

多分、すべての宗教を超えた世界が開かれていくような予感を感じています。

私としては、この世ではなく、死後に守護霊団として活動するために修行をしているような気がします。といっても、そのこともはっきり言えるような内容ではありません。話したとしても、多分、理解することが難しいことでしょう。

私は、複数の宗教のしがらみに生きています。こうして命のバトンを受け継いでいるのは先祖のお陰と考えると、菩提寺を粗末にできません。昨日も書いたように、キリスト教は命を救ってもらった恩がありますし、クリスチャンとしても自分も大切にしたいです。神道も良い導きが得られており、感動が絶えません。

しかし、人の輪に入るとなると、どうしても自分の所属している宗教が正しいという話になってしまいますが、自分ひとりにおいては、どの宗教も否定せずに大切にすることができます。


私は、最近かなり悩みが減りました。それまでは、仕事のことで家族に足を引っ張られていることに不満が大きかったように思います。

家族に… 特に母にに変わってもらおうと、あらゆる手を尽くしたのにもかかわらず、すべて裏切られてしまいました。結局は古い方法に戻るだけの繰り返し… 時間が止まり、自分の能力が生かされない時間を過ごさなくてはなりませんでした。家族に、あまり期待しすぎていたのかもしれません。

ところが、

「誰も変えることはしない。自分だけ変わろう。」

と決意してから、心が楽になっていきました。

自分だけでやるとなると、確かに人手が足りない分、心持たない感じにはなりました。しかし、自分でイメージしたことを自分で実行するゆえ、確実に進められます。間違いのない方法なのです。はじめは、苦手な分野も自分で行うゆえに非力な感じがしますが、慣れてくると2倍、10倍、100倍にポテンシャルが上がっていくような気がしてきました。そういう感覚で進みはじめたのです。

つまり、「他者に期待するから悩みが起る」ということに気づいたのです。

「依存心」から「自立心」へのチェンジとでもいうのでしょうか。

実は信仰も同じだと思います。他者を変えようと気持ちが入ると悩みが起りますが、自分が変わっていくことを楽しむとなると、毎日が感動の連続となります。

昨日、私の書いた記事は、私の「ひとり信仰」「ひとり宗教」であって誰かの理解を求めたくて書いたものではないのです。

この方法が、良い結果へと繋がるか?

それは、未来の自分に、現在の自分が追いついた時にお話したいと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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