2010年08月17日

私は、自分が死んだ夢を見た。

死んだ後、導かれていった先で、二つの記録を見せられた夢だった。


最初の記録は、自分の恥ずかしい記録だった。

隠れて行なった悪い行為。誰にも見つからなかった恥ずかしい行為の数々だった。もっと悪いことをしたこともあったはずなのに、そのことは記録されていなかった。どうやら、見つかって罰を受けたようなものは、そこには記録されていないようだった。(多分、殺人を犯した人でも、刑期を終えて、しっかり罰を受けなら、そのことは、ここには記録されないということなのだろう。)

その記録は、見ていて本当に辛いものだった。自分の愚かさにかなり打ちのめされた。見れいられずに、早く終わって欲しいと願ったほどだった。


次の記録は、自分の小さな善行の記録だった。

そのほとんどが、自分でも忘れてしまったような善行だった。道路のゴミを拾ってきたことや、道に迷っている人に道を尋ねられ際に親切に道案内したり、自分の小さな楽しみを犠牲にして募金箱にお金を投じたような、小さな善行の記録だった。そこには、自分が誇りとしている、多くの人から誉められた功績や、報酬を得たこと、つまり報われた善行は一切そこには記録されていなかった。

また、何の宗教に所属しているかというようなことは全く問われていないことにも気が付いた。2番目の記録を見た後で、案内してくれている人に誉められたのだが、前の記録のことがあるので誇りたい気持ちには全くなれなかった。

夢は、そこで目が覚めて終わってしまった。そこから先のことは知ることができなかった。とても啓示的な夢だったので、すぐにメモを取った。


ただ、あの世での評価は、この世での評価とは違うことを感じることができた。

あの世の評価の基準は、魂の美しさにあるようだった。

もちろん、この世では、仕事をするにしても評価を受けるような良い仕事をしなくては収入に繋がらないのが現実である。隠れた善行だけでは生きていけないからだ。

しかし、周りに評価される生き方のみでは、美しい魂が得られないというのも理解できた。

生きるために、評価を受ける仕事をしながら、小さな善行を積み上げていくのが、どうやら優れた生き方といえるのかもしれない。もし、社会から高い評価を受けることのみに生きたような人は、自慢すべき記録がほとんど記録されておらず、2番目の記録があまりに乏しいことに失望するかもしれない。

多くの人は、このような記録を見させられたなら、「ああ、失敗だった」と叫ぶことになることだろう。多くの人から、偉い人と恐れられたような人ほど、その記録に失望し、そのように叫ぶような気がする。


あの世での評価基準を知っていると、かなり生き方が変わって来るように思う。

隠れた悪い行為に対し心のブレーキがしっかり働くようになり、隠れた良い行為を積極的に行なえるようになるからだ。

また、宗教に関して、何の宗教を信じようと、美しい魂へと向かおうとするものなら、すべてが良いものだと感じられたことは大きなショックでもあった。正しい宗教、正しい真理を人生を賭けて追究してきた私にとって、それは大きな肩透かしであったからだ。

何を信じるかという肩書きのようなものではなく、小さな隠れた善行を積み重ねられる人になれるかどうかという実質が問われてくるのである。


その小さな隠れた善行とは、誰にでもできること。

もう、今日からでも祝福された人生が開けてくるのである。




posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月13日

発想の転換

人生は一度きりのものと考えると、

あれも得られていない、これも得られていない、

他者と比較して、

自分が損をしているように思えてしまう。

それで、ついつい自分の人生のテーマと違う生き方をして、

進化に乏しいマンネリ人生になってしまうのではないだろうか。


逆に、

人生は、一度きりのものではないと考えると、

本当はすでに(つまりは前世で…)、

すでにあれも得ている、すでにこれも得ている、

という視点が持てるようになり、

欲張った生き方ではなく、

今世での人生のテーマに生きることに集中できるようになってくる。

魂の進化が目に見えて実感できるようになっていくのだ。



また、人生は一度きりのものと考えると、

人生のタイムリミットがあるゆえに、

善人と悪人、

救われる者と救われない者、

正義と悪、

同胞と敵、

といった二元論的な見方しかできなくなってしまう。

こういった考え方が根底にあるから、

不幸な戦争が後を絶たないのではないだろうか。


人生が一度きりのものではないと考えると、

悪人や救われない者にも進化への道が開け、

悪人でも、救われない者でもなく、

歩みの遅い者と見ることができる。


先に救われた者は、何度でも何度でも生まれ変わって、

歩みの遅い者を援助し、

歩みの遅い者も、

いずれは自分より歩みの遅い者を援助できる者へと成長・進化していく。

こういう人間関係関係の基では、戦争は起こり得ないと思う。



今の人生は、前世の人生の続き、

来世の人生は、今の人生の続き、

そう考えると、

どんなに恵まれた人生にあったとしても、

投げ出したいような人生にあったとしても、

魂の進化の歩みを止めることはできなくなってくるのだ。



しかし、自分の前世の人生や、

生まれてくる時の決意を思い出せる人はあまりに少ない。

といって、全くいないわけでもない。

つまり、多くの人々の魂の進化が、

そこまで達していないに過ぎないのではないだろうか。

人類の魂の進化のレベルが、まだその程度のものであるとも考えられる。

いずれは、前世の自分に学べる魂へと進化していくのである。



そして、いつの日か、

すべての人が、魂の修行を終えたとき、

真に平安な世界が開かれていく。

その壮大なる道のりを私達は歩んでいるのではないだろうか。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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