2010年09月29日

スピリチュアルな講演会で学んだこと

Dr.高江州薫先生講演会

テーマ「死を考察し、生の意味を知る」

 私は火災事故で、妻と2歳半の娘を失いました。雪の降りしきる夜でした。それまで、敬虔なクリスチャンでした。「神様これはないでしょう」と、毎日泣き、悔やみ、息もできない程の苦しみを味わいました。そして、何度も自殺を考えました。

 1998年にインドに向かう飛行機の中で高次の存在より「過去を解き明かし、未来を語り、癒す者となれ」という使命を受け、スピリチュアルな目が開けてきました。日本では、前世のことを語るのは非常識なことでも、インドでは常識だったのです。

 「私は知らないけど、それって痛いんでしょうね」では、人を救えません。数々の苦しみの体験を積み重ねてこそ、真の優しさや、思いやりの心が育つのです。

 多くの人は、「どうしたら、苦しみから逃れることができますか」と聞いてきます。しかし、反対です。「どうしたら、この苦しみから学びを得ることができますか」と聞くべきなのです。そして、辛いこと、苦しいことを積み重ねたことは、何よりも優る宝となるのです。つまり、私たちがこの世に生まれてきた目的は、「体験」することなのです。

 脳性麻痺の子どものお母さんから、「この子が生きている意味があるのでしょうか」と尋ねられたことがあります。よくよく見ると、素晴しい魂の人でした。それで私は、「この方は、素晴しい方ですよ。自分のソウルメイトを救うために、誰にもできない厳しい修行を選んで生まれてきたのです」と言いました。その後、そのお母さんは、「この子は、素晴しい子です。私の誇りです」と言うようになりました。

 そこで、ソウルメイトの話になるのですが、誰もが、5名以上のソウルメイトを持っています。しかも、そのソウルメイトと一緒にこの世に生まれてきたのです。そして、霊界に帰ったときに、ある人は「幸せな人生だった」と言うと、別の人は、「私はあなたに随分苦しめられました」と言う。そして、「ああ、自分の幸せばかり考えて、ソウルメイトを傷つけていたんだ」と気づくわけです。アカシック・レコードは、宇宙図書館にある過去の記録ですが、ソウルメイトは、自分の鏡といえるような存在で、深い学びがそこにあるのです。ソウルメイトには、自分のご先祖様も含まれています。

 また、ソウルメイトは、負のカルマを分け合おうとします。その人の分まで背負おうとするのです。殺人を犯したソウルメイトがいれば、その人のために敢えて厳しい人生を選んで生まれてくるのです。でも、厳しさに負けてしまってはいけません。だからこそ、わたしたちが、つまりは皆さんと共に、お互いが苦しみに負けないための援助をし合うのです。

 私たちは、そういった魂の友がいて、共に学び合う存在なのです。自殺をするということは、ソウルメイトを悲しませることになります。

 亡くなっても魂は終わっていません。死は、変わるための手段なのです。多くの場合においては、約50年で生まれ変わります。

 生まれたばかりの子どもは、産まれる前のことを話せます。それによると、母親に虐待されることをわかっていて生まれていたりするんです。ダライラマ14世は、ダライラマ13世の生まれ変わりです。つまり、ダライラマ13世が使っていたものをすべて当てることのできた子どもを探し当てたのです。

 子どもは、3歳頃。つまりは言葉を話せるようになってくると前世の記憶を失ってしまいます。ある日、飛行機の中で、中国人の子どもが大泣きして大変でした。私が、その子の前に立つと、その子の前世が見えてきました。そこで、「あなたは、過去に随分酷い事をやってきたね」と話しかけると、目をきょとんとして、泣き止んでしまいました。

 私の火事で亡くなった娘ですが、現在、ベルギーで男の子として生まれ変わり、小学校に通っています。

 私は3世代に渡ってリーディングすることができます。私自身は、1億年前まで記憶を遡ることができます。そうなるとクラゲの時代になりますが… そして、人間としては、273回生まれかわっています。

 なぜ、記憶が消されているかというと、特に未熟な魂においては、「一生一度」と思ったほうがベストを尽くせるからです。しかし、私たちは、そろそろ前世からの記憶を取り戻した学びをする時に来ているようです。最も開かれた状態になるためには、「宇宙すべてが私である」と考えるのです。そうなると、一切の差別感情が消えていきます。すべての生命がいとおしく思えることでしょう。つまり宇宙の波動と一体になるのです。

 魂に終わりはありません。次のステージがあります。今のままで幸せになれます。あるものを有効に使いましょう。もし手が無いなら、足を大いに使いましょう。もし足が無いなら、手を大いに使いましょう。無いから、ダメとは考えないようにしましょう。

 認知症の親には、ひたすら助けなさい。

 親が、「申し訳ない」といって死ぬようなことにならないように。「ありがとう」といって死ねるようにして上げなさい。あなたたちも、「申し訳ない」ではなく、「ありがとう」と言って死ねるような最後であるように精進していきましょう。

 最後に、自己中心と、自分を大切にすることとは違います。まず、自分がしっかりしていなければ、つまりは食べていける生活の基盤を持っていなければ、他人を援助することなどできません。生命の波動とは円を描く流れのようなものです。止まることなく動いています。この動きが滞ると病気になり、止まると死ぬわけです。お金においても似ていて、滞ると、たいへん苦しみ他人を援助する余裕などありません。自己中心とは、自分さえよければいいという考え方で、他人を援助する気持ちに欠いています。お金を稼ぐことを卑しいとか、自己中心とか、混同しないで欲しいのです。どうか、自分を大切にし、良い仕事をして、お金をしっかり稼ぎ、他人を援助できる人間に成長してください。


 ここからはワークに入ります。前回は、100名集まってくれたのですが、人数が多すぎて、ワークまではできませんでした。そこで、今回は50人に減らしてワークを行うことにしました。今日は、雨の中、あなたたちは、選ばれた方ですよ。では、はじめましょう。


 右手を顔の前に出してください。右手が無い方は、左手でもかまいません。このワークは、右腕でやるのだったら、左手はやらなくてもいいです。両方の手で行う必要はありません。それがウソっぽくても相手の方の良い所を見つけて、「最大限に褒めながら」行いましょう。自宅で一人で行う時においても、同じように「自分を褒めながら」行いましょう。

 右手の場合、中指は頭、薬指は右腕、人差し指は左腕、小指は右足、親指は左足となります。

 中指の爪の両側は、目に当たり、そこを揉みほぐすと、目の疲れが取れます。中指の第一関節を下から上にこすると顔のたるみを治すリフトアップ効果があります。

 中指のつけ根は、肩に当り、そこを揉みほぐすと、肩の痛みが取れます。

 手の甲の下部は、腰に当り、そこを揉みほぐすと、腰の痛みが取れます。

 手のひらの下部は、男性は前立腺、女性は子宮にあたり、年を取った人はそこを揉みほぐすと、元気になります。

 親指と人差し指の間の部分は、胃に当り、手のひらの側は胃の前方、手の甲側は、胃の後方に当り、そこを揉みほぐすと、胃の調子が良くなります。

 人差し指と中指のつけ根の部分は、心臓です、高血圧の人に効果があります。ただ、ペースメーカーの人は、ここを揉まないように。自然に動いている心臓ではないので、機械との兼ね合いが悪くなるかもしれないからです。

 「前屈をしてみましょう。どうですか、体が堅いですか」
 では、小指の第一関節を揉みましょう。小指の第二関節を揉みましょう。小指の第三関節を揉みましょう。するっと下から上にすべらせるように伸ばしてみましょう。次に、親指の第一関節を揉みましょう。親指の第二関節を揉みましょう。第三関節は、ずっと下の方に隠れています。そこを揉みましょう。するっと下から上にすべらせるように伸ばしてみましょう。次に、親指と小指を思いっきり開いてみましょう。
 「もう一度、前屈をしてみましょう」 ⇒多くの人が、驚くほど前屈ができることに驚く。

 このワークをテレビを見ながらでもいいので、毎日行ってみてください。健康が回復し、人生の良い修行ができるようになるはずです。

2010年9月28日  盛岡市大慈寺町の祇陀寺にて

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月07日

魂のホーム・ポジション

「わからない」という言葉は、実に重要な言葉なのだと思います。

そのことを語る前に、「わからない」と「わかる」という言葉をあいまいに使っている人が実に多いと思います。

例えば、神様がいるかということに対し、「わからない」と答えることは正しい使い方といえますが、「わかる」と答えると、嘘といえます。逆に、「いない」と答えても嘘になる可能性があります。どちらとも言いきれない場合、「わからない」と答えることが賢明なのです。

神様に関しては、「わからない」故に、「信じる」という言葉を用います。

もし、「わかる」というのなら、「信じる」ではなく、「知っている」という言葉を使うべきなのですが、そうなると嘘をついていることになることでしょう。

もし、相手のことを完全に「知っている」ということになると、「愛する」という言葉はいらなくなります。

もし、自分の未来について「知っている」ということになると、「希望」という言葉もいらなくなります。「祈り」という言葉もいらなくなることでしょう。

つまり、「わからない」ゆえに、私たちは、人を愛し、未来に希望を抱き、共に生きる人が苦しみから立ち上がれるよう祈ることができるのです。

また、「わからない」から、勉強するのであり、「わかっている」という言葉を頻繁に使う人は、学ぶ謙虚さに欠き、自分を成長させることができなくなることでしょう。「わかっている」ということは、思い込みの強い言葉でもあると思います。

さて、もし神様が目に見える存在であったとしたら、私たちに自由がなくなってしまうことでしょう。自分の存在を消されてしまうかもしれない、その恐ろしさゆえに、従うしか道がなってしまうからです。神様が見えないということは、ある意味、素晴らしい祝福とも考えることができると思います。

神が見えないゆえに、私達には、神に逆らえるほどの、あらゆる経験をする自由があり、その自由ゆえに人生に感動があるのです。そういった感動を積み重ねていくことこそが、「生きる価値」に繋がっているように思えてなりません。

ところが、宗教を信じる人の中には、いかにも神を知っているかのように、「私の信じている神は真実の神で、他の神は間違っている」と断言している人たちがいます。

こういう考え方は、私たちの魂の成長・進化を妨げ、人間同士に敵味方を作り、そういったことから恐ろしい戦争を引き起こす原因にも発展していくのです。

私は、宗教否定論者ではありません。そうではなく、すべての宗教者が、素直に「わからない」という言葉を大切にするとき、共に学び合い、共に魂を成長・進化させられる輪を築いていくことができ、真に尊い存在になっていけるということなのです。

ソクラテスの「無知の知」ではないのですが、私たちは、知っていることよりも、知らないことの方がはるかに多いのです。知らないことの方が膨大といえることでしょう。もし、自分は何でも知っているというのなら、かなりの愚か者です。本当に何でも知っていて、何でもできる人が、この世に存在することでしょうか。自分が無知な存在であることを知っている人の方が、実は賢い人と言えるのです。

私の話す内容には、神道やキリスト教の価値観が多く出てきます。多神教と一神教という、一見、相反する宗教の中に調和を見出しています。とはいえ、残念ながら、そこまでが私の守備範囲というか、能力的限界といえるものですが、私の知らない、その他の宗教とも、きっと調和は見出せるものと信じています。

「わからない」という言葉を大切にするのなら、すべての壁が取り払われます。あらゆる可能性が生まれるのです。

50歳を間近にして、私の魂のホーム・ポジション(基本位置)は、そのように変わってきました。

私はカウンセリングを学んでいますが、ある学派に傾倒してしまうと、偏りが強くなり、何かと壁にぶつかりやすくなることでしょう。カウンセリングは、「頑張らなくていいよ」「今のあなたのままでいいんだよ」とクライアント(相談者)にアプローチしていきます。これは、最悪の状況を引き起こさせないための優れた方法ではあります。しかし、(受容)するだけがカウンセリングのスキルではありません。

クライアントの中にも(特に若い人の中には)、悔しさをばねに成長できる精神が見出せる人も若干います。そういう人には、受容的なカウンセリングではなく、コーチング(訓育)の方が良いアプローチになることもあります。コーチングとまでいかなくても、単に言葉のやり取りではない、新しい習慣づけを盛り込んだカウンセリングのスキルを用いることもできることでしょう。

私は、子供に教える仕事をしておりますが、普段はコーチング的にやっていても、子どもによっては、カウンセリング的にやらなくては難しい子もいます。カウンセリングとコーチングの両面に通じていないと、より良い教育ができないと感じています。

人間、怠けてしまうと、特に身体的能力的機能を失っていきます。私は何年か前に、卓球をしている時、卓球台に利き手の親指を強打して骨折してしまいました。約1ヶ月間、ギブスをした結果、親指が動きを忘れ、元の動きを取り戻すために、半年以上もリハビリをしなくてはなりませんでした。

老人を1年間寝たきりにして、何もさせないで見たとします。間違いなく廃人になることでしょう。実際に私は、そういう老人を何人も見てきました。人間、1年も怠けると、人とコミュニケーションするための機能を完全に失ってしまうようです。そのうち、自力で食べ物を飲み込む力までも失っていくことでしょう。ですから、老人のみならず誰もが、長期入院する場合は、本を読んだり、テレビを見たり、見舞いに来た人と対話することが、とても重要になってくるわけです。

何も怠けるつもりでなくても、パソコンにのめり込んだり、ゲームにのめり込んでしまうと、人とのコミュニケーション能力が激しく失われていきます。さらに睡眠不足が慢性化してしまうと、かなり問題となってきます。そういったことでの苦痛が長期化してしまうと、脳内物質のホルモンバランスにも影響が出て、うつ病になる可能性も出てくるからです。そうなってしまうと、失った機能を取り戻すことは大変時間が掛かることでしょう。最近では、良い薬があるので、回復する希望は十分にありますが、予防することが重要です。

偏りなく、心身のバランスを保つための努力を惜しまないことが、健全な精神を保つ秘訣なのかもしれません。人間、死ぬまで怠けられない存在なのです。何かに偏ってしまい、普段するべきことができないでいる。ということだけは避けたいものです。

ミイラ取りがミイラになったではないのですが、私の場合、クリスチャンとカウンセラーの知識が、自分の可能性に蓋をするものとなっていったように思います。いわゆる「いい人」。もっと悪く言うなら、「都合のいい人」となり、自分のやるべきことができなくなり、生産性のある生き方ができない現実に苦しむ者となっていったからです。確かに温厚なパーソナリティは得られた実感はありますが、働いても働いても、お金に繋がらないことは、かなり厳しいものがあります。

以前の負けず嫌いで、悔しさをばねに多くのハンデを乗り越えてきた自分は何処に行ってしまったのでしょう。精神的パワーに不足しているのです。

これは間違いなく、バランスの失った状態といえるのだと思います。

このアンバランスを救ってくれたのが、神道でした。何も神道が正しい教えというつもりはありません。神道が、長年熱狂的なクリスチャンとして生きてきた偏りをかなり修正してくれる効果が認められるということなのです。それまで特効薬に頼ってきたことから、自然療法に変えたような感じさえしています。

とはいえ、人によっては、その逆のパターンもあるのかもしれません。神道にも熱狂的な人、偏った人が見受けられるからです。

「わからない」という言葉は、極端な偏りを作らないということにも繋がり、バランスの取れた心身を保つことができるように感じています。

そこのところを基本にして、これからの人生を歩んでいこうと思います。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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