最近、発見したことというか、かなり想像力の飛躍した考え方ではありますが、前世の他に来世までも、現在すでに存在しているのではないかということです。
つまり、私たちの人生には、一人ひとりそれぞれ異なった「雛形」のようなものがあって、それを生きているに過ぎないわけで、その人生を〈不満〉で受け止めると「学べない人生」。〈感謝〉で受け止めると「学べる人生」となるわけです。しかも、その「雛形」は、自分自身で選んだものなのです。3歳を過ぎた頃に忘れてしまっているのですが…
死後に、霊界からのガイドの声を遮って死体現場で戻ると自縛霊(いわゆる幽霊)。想念が何でも適う霊の世界から戻ると、負のカルマ(因果関係)の強い輪廻転生。さらに上がって天国とも呼ばれる、趣味思考の合う者同士での霊界の平和な村から戻ると、最終解脱(学習)者にもなれる負のカルマの比較的弱い輪廻転生。そこから上に上がると、指導霊(霊界のガイド/天使)になる。というまとめ方もできるわけです。
少し脱線しますが、人間は、一人ぼっちで生まれてきているわけではないようです。
数名の類魂(ソウルメイト)と一緒に生まれてきているのだといいます。しかもお互いに近くで影響を与え合っているのだそうです。死後に霊界に帰ったときに、ある人は「幸せな人生だった」と言うと、別の人は、「私はあなたに随分苦しめられました」と言う。そのことから、「ああ、自分の幸せばかり考えて、ソウルメイトを傷つけていたんだ」と気づきを得るわけです。つまり、学び合う関係がそこにあるわけです。
また、ソウルメイトは、お互いの負のカルマを分け合おうとします。その人の分まで背負おうとするのです。殺人を犯したソウルメイトがいれば、その人のために敢えて厳しい人生を選んで生まれてくるのです。ソウルメイトの誰かが解脱(輪廻転生からの卒業)をするときには、ソウルメイトたちからの心のこもった祝福を受けることになるのです。
私たちは、そういった魂の友がいて、共に学び合う存在なわけです。自殺をするということは、ソウルメイトを悲しませ、苦しみを与える行為なのです。決して自分ひとりだけの命ではないのです。
今の人生の課題となっているカルマとは、前世に見つけられるわけですが、人によっては、未来の魂を持っている人がいるようです。過去ではなく、未来との因果関係というと不思議な感じがすることでしょう。私は、未来のセンスは乏しいですが、友人の中には、ファッションや音楽などにおいて未来的センスの豊かな人もいます。
私たちの遺伝子には、「原始の生命→過去世」という遺伝子情報のみならず、すでに「原始の生命→過去世→現世→来世→超来世」の霊的情報が組み込まれているのではないかと考えられるのです。つまり、”生命の誕生から生命の終焉”までのプログラムが、すでにできているというわけです。
これから起こるべき試練や寿命まで、すでに決まっているというと、がっかりする人もいるかもしれません。でも、今の人生は、自分の魂の学びに最も適ったものなのです。人生を「変える」ことを考えるのではなく、人生から「学ぶ」ことを考えるべきなのです。仮に、恵まれた人生を歩んだ人も、その恵みに甘んじてしまい、人生から何も学べなかったとすると、失敗の人生です。仮に、試練ばかり多く苦しみの人生を歩んでいる人は、必ずその苦しみに耐えられると神様に見込まれている、素晴らしい人とも考えられるわけです。
人生の試練に「学ぶ」ことのできる人は、たとえ未来が決まっていても、味わいのある人生となっていくことでしょう。料理に例えると、素材は変えられなくても、味付けは変えられるということです。美味しい料理か、美味しくない料理か、幸せをたくさん感じられる人生か、つまらない人生かという大きな違いがそこにあるのです。どんなに未来が決まっているとしても、前向きに積極的に生きるべきです。
超来世は別として、来世の情報とアクセスできる人は、斬新な発想を持つことができるわけです。ただ、来世の情報を持っているからといって、決して偉いわけでなく、迷い苦しむ存在ということにおいて全く変わりないわけなのです。
超来世となると、自然環境が完全に破壊され、かつ太陽が巨大化することで、地球に住めなくなった未来の人類の情報ということになります。火星かどこかにシェルターのような施設を作り生活する。その中で酸素や水、食物が人工的に作られていて、危険な場所ではロボットたちが大活躍…。さらに薬や外科手術によって肉体が進化し、一切の争いを避け、感情が押さえられた人間たちは、セックスではなく人口受精で人口をコントロールする。といった実にクールな人間達なような気がします。感情的にならない性質を持っているため犯罪が極端に少ないのです。人間同士の争いに繋がる宗教は、とっくの昔にその存在を失っています。
しかし、その終末的な人類も、死を乗り越えることはできません。やはり迷い苦しむ存在には変わりないわけで、もの凄く発達した科学力を用いて、この世に学びにやって来ることもできるわけです。いわゆる宇宙人というのは、そういった人たちのことなのかもしれません。かつて宗教の存在した時代。そこに、死後の世界のヒントを求めようとしているわけです。かなり空想的な考え方ではありますが、アインシュタインの精神でいうなら、これくらいの仮説はたいしたものではないように思います。
キリスト教には、ダニエルの預言書や使徒ヨハネの預言書という未来への預言書があります。これは、預言どおりにならないようにと、避け方を教えているものではありません。預言は、必ず実現するものと教えているのです。預言の成就から、信徒たちは神の存在を確認し、迷いを確信に変え、苦しみを高い信仰へと変えていくことを望んでいるのです。
また、キリスト教には輪廻観はありません。たった一度の人生と受け止め、ベストを尽くすことに意義があるのです。
つまり、今の人生が最大のチャンスであるということを言っているのです。
福音書には、この世をいかに生きたらよいのかというヒントがちりばめられています。この生き方を実践するなら間違いがありません。確実な救いの道なのです。そこにキリスト教の真髄があるのです。
とはいえ、ぶ厚い聖書をいかに知っているかといった知識で救われるようなことは決してありません。神学も哲学も、救いには無縁といっても過言ではありません。学問的価値はありますが…
世の中には、数十万円もする高級な心理セミナーがあるようですが、それでは貧乏人は学ぶことができません。しかし、キリスト者として真っ直ぐに清く生きた者なら(もちろんキリスト者に限定されません)、死んだ後に、霊界の最高のガイド(天使)たちから懇切丁寧に最高の教えを教えてもらえるわけなのです。太陽の光や空気にお金が掛からないように、真理を学ぶことにお金は掛からないわけです。
それは、この世の高級な心理セミナーよりはるかに優れている命の教えなのです。
人間、立派なことを話せなくたって、真面目に生きていればそれでいいんです。
その視点でいうなら、この世に目立った功績を残すことが人生の目的ではなくなります。「与えられた人生に不満を抱かず、ひたすら学ぶことのみ」なのだと、私は受け止めています。
人に上下を付けたり、差別することなく、どんなに蔑まれようと人生に深く学び、いかに真っ直ぐ清く生きることができるか。そこが重要なのだと思います。