2011年01月26日

神は、一切の偏りを持たない

人が言葉を発した瞬間、偏りが生じている。残念なら、人は偏(かたよ)りという呪縛から逃れることのできない存在なようである。

偏りが目立つか目立たないかということがあるだけで、人は何か偏ったものを支えに、または信じて生きている存在なのである。

思い入れが大きい、つまりは偏りの大きな人は修正がきかず、自分は偏っていることを何となくでも自覚できる偏りの小さな人は割と修正がきくように思うのだ。自由とは、偏りの少ないというニュアンスと一致する崇高な意識である。しかし、多くの場合の自由とは、流行に走るなど偏りのどつぼに嵌まっているのが現実である。

何かのファンになるという心の動きも偏りである。何かに熱中するということも… そして、恋は最も激しく偏るものといえる。それでも恋という形ではそんなに長くは続かない。ところが宗教となると、人生の歩みそのものを偏りの呪縛にかけてしまうものと化すのである。私が一つの宗教だけに染まらない理由はそこにある。

大人になるまでの家族と共に過ごした時間の中で刷り込まれたイメージも、偏りという呪縛となっている。これは無意識による偏りとなる場合が多く、実に根が深いのである。この点においては、私がなかなか克服できないでいる大きな課題となっている。

私は、神を見つめる時、この偏りを最も少なくしようと考えている。そうなると、言葉を捨てなくてはならなくなる。言葉が邪魔になるのである。言葉を捨てると、偏りが無くなっていき、自分の魂の状態が如実に明らかになってくるのである。宇宙に漂っているような状態だろうか。

何かに打ち込む、熱中することは素晴しいことである。そうしなくては高度なスキルは身に付かない。厳しい訓練を積み重ねてこそ到達できるような世界とは無縁の凡人には全く理解できないような高度な次元に触れることもできない。とはいえ、これは肉体と係わるレベルの問題であって、魂のレベルはまた違ったところにあるように思う。

つまり、そういったことばかりに時間を使っては、偏りという呪縛にかかったままなのである。だからこそ一日のわずかな時間でも、心を自由にできる時間を持ちたいものである。瞑想する時間を持つことは、心の自由を得るために有意義な方法ではないかと思う。そして神と交流するには、完全なる自由を得なくてはならないと私は思うのだ。

文章にするとどうしても偏りが生じるわけであるが、私が伝えようとしている神は、全く偏りの無い存在なのである。しかも、偏りのあるような方法から、偏りのない世界へとワープしているわけで、それゆえ、その次元に達する方法は無限に存在するのである。つまり、ワープした後の世界では、正しいとか正しくないといった考え方も消えてしまうのである。

素晴しいことは、この世で得た感動が、実に意味を成すことである。感動できる魂を築いていなくては、自分という存在も消えてしまうからである。どうやら、自分という存在を支えているのは、感動する魂にあるように思うのだ。

きれいな花を見て、

「ああ、きれいだな」と感じる時に、そこに自分の存在を確認できるのである。

「ああ、きれいだな」と感じられない人は、自分の存在を確認しにくいのである。

感謝できる魂も、自分の存在を確認するための意識であるように思う。

物質に溢れた現代社会において、しらけた心の人が目立つようになってきた。こういった人は、神の世界では自分の存在を確認できなくなってしまうように思うのである。完全なる中立的な神の世界に漂っていることには、大変な苦痛を感じることだろう。物質的価値観は、死後の世界には全く役に立たないからだ。

神の愛に生きるのなら、今世において、きっと多くの感動と感謝の意識を積み上げることができると私は信じている(このフレーズにも、しっかり偏りが存在しているように思う)。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 14:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月24日

神は、成功を認めない

もし、親を捨てられたら成功できたというような人は少なくないように思う。

それだけ親で苦しんで、自分の人生を台無しにされている人は多いということである。

私は、親のことで苦しみ、心因性の病気で身体を蝕まれている。親を捨てられたなら、多分、病気も治るばかりか、成功も手にできるだろう。

私の知る成功者の中には、親と縁を切り、身軽になって成功の道を突き進んだ人が何人かいる。それだけ、親は成功の妨げになるものなのだと思うのである。

しかし、神はそういう形での成功を決して認めないのだ。もし、私が神に認められるとするなら、「7の70倍」をはるかに超える。親から受けた憎しみを許すことにある。許すといっても、相手は何も変わらないし、変わろうともしない。むしろ、これからも苦しみを与え続けることだろう。それでも、ひたすら許し続けることこそが、神が認める行いなのである。

相手を変えようとするとするほど、苦しみは増し、病魔が入ってくる。病気と言うのは、憎しみという感情により増殖するものなのかもしれない。そう考えると、相手を変えようとする考えを手放すことが重要となる。

憎しみに関しては、私にも爆弾キーワードがあって、そのキーワードをある条件で言われると、自分を失うほど興奮して取り乱してしまうことがある。時間を掛けて形成された憎しみは、簡単に捨て去ることができない理由がそこにある。もう恨まないと心に決めても、ふとしたことでぶり返してしまうのだ。

サタン(悪魔)を亡ぼすことができるのは神のみであるように、実は人間の浅はかな知恵では乗り切ることができない問題でもあるのだ。そう考えると、神にすべてを委ねて生きることこそが、そういった問題を乗越えるための方法と言えるような気がする。

わが家の場合、父は自分が神と信じているような人なので、私の信仰を激しくけなし傷つける方向性がある。母は、そういう父と長く共に過ごしてきたことで、凶暴な父に静かにして欲しいという理由から、父の側に付き、実に中途半端な対応をする。そればかりか、父に束縛されてきた思いを私にぶつけ、私を激しく束縛して、私の人生設計を父とは逆の優しさでもって、ことごとく破壊するのである。

この悪い人間関係を改善しようと、私は数えることも馬鹿臭いと思えるほどの努力をしてきたのだが、ことごとく裏切られた。裏切られるたびに憎しみが募っていったのである。その苦しみがあるゆえに、私は他人には異常なほどの優しさで接しようとするのである。いわゆる、「いい人」なのである。

この「いい人」でも随分苦しんだ。そのことで多くの人に心を踏みにじられた。それでも、親から受けた苦しみを解消する方向性を持とうとして「いい人」でい続けなくてなならない悲しい性なのである。愛に生きているというにしては、どこかいびつな感じなのかもしれない。妻によく、「いい人をやめたら楽になるのに」とアドバイスを受けるのだが、ここにも私の病的な性質が見え隠れするのである。

信仰といっても、何か優れた宗教に所属して、奉仕活動や慈善活動をすればよいというような問題ではない。本当に神と向かい合って生きるという真っ直ぐな信仰でなくてはならない。神と逆方向のものは、ことごとく捨て去り、修行僧や修道者のような純粋さを持たなくてはならないのである。

そこまでやらなくては、私は病魔に負けてしまうことだろう。親との問題(カルマ ※前世から繰り返してきた克服できないでいる根本課題)を乗り切ることはできないだろう。夢を手がかりにするなら、私は何度も成功をしてきたように思う。ただし、親を捨てての成功を…

50歳を目の前にする現在、自分の知恵で乗り切ろうとすることに限界を感じるようになってきたのだ。いまのままでは、わずかな収入しか得られないため、今後の生活は厳しくなっていくことだろう。こんな筈ではなかったのだが、それでも親を捨てなかったことで神とかろうじて繋がっているのである。多分、親を捨てていれば、私は成功者の一人になったことだろう。しかし、それと引き換えに神とは離れた者となったことだろう。どんなに苦しくとも、まだ神の側にいることが素晴しい救いなのである。

私は約30年もクリスチャンとして生きてきたが、それは肩書きのようなもので、それほど意味をなさないように思う。クリスチャンとして生きているからといって神と真っ直ぐ生きている人となると、かなり少数派のように感じられてならない。そんなものでは、神と真っ直ぐ向き合えないのだ。

私の場合、この歳にして、神と共に生きることにおいてのスタートライン立てたように思う。

そして、これからが生まれてきた意味をなす人生が始まるのである。神の本当の愛の姿に触れ合う旅が始まるのである。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

神は、言葉を用いない

神様は、言葉を用いて語ってはこないように思う。

例えば自然現象を通して、魂を進化させてくれるような気付きを与えてくれることがある。

神道の神は、西洋の体系化された神学でいうなら、実に稚拙な宗教に見えるものではある。しかし、神道を宗教とは位置づけずに、長い歴史を経て確立してきたしきたり等を大胆に外して最小限のもので考え、ただ単に神話の神々のみに目を向けるなら、自然と対話するための道具(ツール)になり得るのである。そうすることで神と言葉を超えた対話ができるようになるのである。

しかし、それを他の人に伝えようとする時、言語化しなくてはならなくなるのだが、そこに問題が生じてくるのである。

神と自分との関係では、言語化しなくても通じ合えたものでも、それを他の人に伝えるとなると、もちろん言語化しなくてはならなくなるのである。

ところが、言語化するとなると、どうしても無理が生じてしまい、不正確なものとなってしまうのである。不正確なものゆえ、わかりやすくしようとすると嘘に化けてしまうことが多いのだ。そうしないと人に伝えることが難しいからだ。

神と人間との間では通じることも、人間と人間との関係となると通じ合えない。この図式は実に重要である。


聖書では、「はじめに言葉があった…言葉は神であった」(ヨハネの福音書の冒頭部)とあるが、神が言葉の存在であることには疑問が生じてくるのである。この一節を書いた弟子のヨハネは、立場が偉くなったことで少し気取ってはいないだろうか。そこに神から離れた人間性を感じるのである。

キリストは、少年時代に神殿で学者と議論をしていたとあるが、そのことからも、キリストは議論の神、ロゴスの神であるといえるのかもしれない。いや、肉体を持つ人間キリストをそこでは描いているのであって、神としてのキリストとなると言葉を超えている筈なのだ。弟子達は、その言葉を超えた世界に触れている筈なのだが、それを正確に言葉にできないというジレンマを感じたことだろう。

キリストは神であった。しかも、私たちの罪の身代わりとなって甘んじて死を受け入れた神であった。それだけで十分な筈である。むしろ情報が少ない方が、神との対話には都合が良いからだ。

しかし弟子達は、言葉を多く使いすぎて、さらには当時の世の中の常識であったギリシャ二元論まで融合してしまった感じさえ受ける。「正しい(善)か、間違っている(悪)か」「味方か、敵か」「天国か、地獄か」。はっきり白黒をつけなくてはならない狭い考え方が、読み手から自由を奪い、神との対話をできなくする逆の方向性を作り出してしまったのである。

私は、キリストと言葉を超えた交流を2度している。私がキリストを否定することができない理由がそこにあるのだ。だから、キリストは存在するということだけは自信を持っている。それをいろいろ語るとなると自論が入り、かなり不正確なものとなってしまう。簡単に言い切ると、大変な修羅場の中で、キリストが共にいて助けてくれた。そこでは何も言葉を交わしてはいないが、キリストと感じられた。日常では考えられない奇跡が起こった。それだけで十分なのではないだろうか。

キリストは、弟子達に言葉を残して欲しいと望んだのではなく、神の奇跡を体験し、生きた証人となり、後世の人に引き継いで欲しかったのだと思う。しかし、言葉だけが独り歩きし、さらには神学となり、哲学となり、私たちから自由を奪ってしまったのである。

私は、キリストとは異なる神との交流もしている。一部のクリスチャンが口を揃えて主張している、キリストではない存在はすべてサタンであるなどとは考えていない。キリストへの裏切り行為とも考えていない。なぜなら、その存在は、自然と調和し、宇宙の法則そのものであるからだ。言葉を超えたスピリチュアルな世界であり、私の魂を進化させてくれる素晴しい導きがそこにあるからである。


孤高の哲学者ニーチェは、「神は死んだ」と宗教を否定した。ロゴスそのものである宗教は、神の存在価値を引き下げたのである。しかし、ロゴスそのものである宗教が無くなったと仮定するなら、逆に「神は蘇る」のである。

ビートルズのメンバーであるジョン・レノンの歌った"イマジン"ではないが、宗教(イマジンでは「天国」)がなくなると仮定するなら、世界から戦争は無くなることだろう。それまで宗教に対して反抗的だった人々も、反抗心をぶつけるものを失い、自由の意味が激変してくることだろう。魂の原始回帰が起り、多くの人々の心が純粋になっていき、その輝きを増していくことだろう。

最小限の言葉による神への手がかりでもって、自然を通して、神と語り合う。これが最も理想的な人間の姿であるように私は思うのだ。

神道の神話が神と対話するためのツールとして素晴しいのは、そこにあるのだ。クリスチャンも、理屈に陥ることなく、キリストの生涯を見つめるだけにとどめるのなら、神と対話するためのツールとして機能しはじめることだろう。幼きイエズスのテレジアが言うように、キリストの生涯の書いてある福音書だけで十分なのである。そうであるなら、宗教としてのキリスト教が、必ずしも存在しなくても良いことになる。

私は、聖書について雄弁に語れる知識人よりも、どんなに知性に欠いていたとしても、言葉では表すことのできない神と交流した証を持っている人間の方を尊敬している。前者には、肝心の神の存在が見えないからだ。

ニーチェに関しては、勉強不足の状態なので、後日、多く書籍を手に入れて学びたいと思う。将来、論文にまとめるときの重要なステップになることだろう。ただ、論文(言葉)にしなければ認められないという社会のしくみにジレンマを感じてしまうのだが、その愚かさに神から離れた人間性を感じるのである。

私は、死後に到達する霊界ではなく、今時点、この世の現実を生きなくてはならないのだから。

この二つの異なる価値観に、矛盾を感じ、苦しんで生きている姿こそ。人間なのかもしれない。


これは、私がどこかで聞いた記憶が薄れていて正確には伝えられない話ではある。いくつかの話が融合されているかもしれない。とはいえ話を進めたい。

とあるサリドマイド児の青年の証である。彼は、思春期の時に、どうして自分がサリドマイド児なのかと悩んだそうである。

お寺の住職にそのことを尋ねたところ、「それは、あなたの前世がよほど悪いものだったからなのでしょう」と答えたのだそうである。青年は、自分はそれほどの悪人で、世間に恥をさらして償いをしなくてはならないとは、何て自分は汚らわしい存在なのだと自分を呪うしかなくなったそうである。

そんな時、ある人に聖書を読むことを勧められ読んでみたところ、「障害とは、その人の罪ではなく、前世の罪でもなく、神の栄光が示されるためにあるのだ」そういって、生まれながらの盲人の目を開いたキリストの姿を福音書の中に見つけ、彼は飛び上がって歓んだのだそうである。自分は汚らわしい存在どころか、神に祝福された素晴しい存在なのだと… それから、彼は猛勉強をして難関の大学に合格したという証である。

そのときの彼は、聖書を読むということに関しては、ビギナーに過ぎなかった筈である。しかし、ビギナーであったゆえに、神との交流に見事に成功できたように思うのだ。そこには宗教としてのキリスト教が存在することなく、聖書の世界だけが存在したのである。

その時のお寺の住職さんは、彼の心を傷つける方向性になってしまったけど、場合によっては逆に、キリスト教に躓き、仏教で救われるような働きも多く聞いているところである。このように、見えない導きが、その人にしか有り得ない独特のステップを重ねながら奇跡的な解決へと至るのである。

つまり、マイナスと思えるような体験も奇跡的ステップに繋がる重要な要素なのだ。そのことについては、理屈では説明できないのである。


ここまでのことを簡単に言い切ってしまうと、言葉が多すぎると、神から離れるということである。

信仰とは、単純なものがベストであり、証(神の奇跡)が伴っていなくては意味の薄れたものでしかないのである。

信仰とは、単純なものほど真実に近く。最先端の科学が証明する事実と一致することとなる。言葉が多いと多いほど、つまりは宗教というカテゴリーの中では、真実から離れた存在なのであり、最先端の科学からは遠のいてしまうのである。

神と言葉を超えた世界で語り合う。とは、そういうことなのだと私は考えるのである。


神は、愛の存在である。「自分の意志で、自分の責任で」愛に生きるのなら、必ず神は心に感じられるようになる筈である。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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