午後2時46分 大地震起こる。これまでの人生では体験したことの無いもの凄い揺れだった。まもなく停電。水道は使える。
プロパンガスも使える。ラジオの情報から、やがて断水になると聞き、20リットルのポリタンク4個に水を入れる。携帯の電話もメールもパンク状態で繋がらない。塾生にも、沿岸部に住んでいる親戚とも通じなかった。
食料は、買ったばかりで十分にあった。車のガソリンは私の車は、 ほとんど無い状態だったが、父の車は入れたばかりで十分あった。
夜は、ローソクの光で過ごす。単三電池で動くラジオが2台あり、それで情報を得る。電池は、リモコンや壁時計の電池を外して集めて十分確保できた。懐中電灯は、単四電池で動くものが2個あり、同様に集めて十分確保できた。
被害の大きい沿岸に親戚がいるので、被害状況の報道と、約1時間おきの余震のため夜も眠れず。
12日(土) 午前中、妻がスーパーで食料の買出しに行く。かなり並んだとのこと。また、災害用の食料の販売に限られていたのだとか、どの店も、売り切れて終了するか、停電なので、日没で販売を終了していた。
午後3時40分、断水となる。トイレの水は、風呂場の水をタンクに注ぐことで流すことができた。私は、15日締切の仕事を半分終えてから、ガソリンの給油に行ったのだが、並んでいる車の最後尾を見つけるのが大変で、3キロほどの列となっていた。もし並んでも、自分の番が来る前に売り切れになるか、ガス欠に陥るかと考えて断念する。しばらくは父の車を借りることにする。
夜は、昨日に引き続き、ローソクの光で過ごす。ラジオだけが情報のすべてであるが、被害状況のすさまじさと、続く余震のため、なかなか寝付けなかった。
13日(日) 午前 父と妻が、山岸活動センターで給水を受ける(20リットルタンク)。けっこう並んだのだとか、給水タンクがなくなると、次のタンクが到着するまで約1時間待つのだとか。私は、15日締切の仕事の残りをほぼ終える。震災で亡くなっていた叔母さんの安否をそこで知ったのだとか。
午後11時50分 電気が復旧午後13時頃〜15時頃 震災で亡くなっていたと思っていた叔母さん(90歳)が、盛岡の病院で治療を受けていて助かっていた。娘のところに身を寄せていたことが分かり、家族全員で面会に行く。帰宅後、水道も復旧していた。ただ、震度3程度の余震は、まだまだ続いている。
今回の地震は、マグニチュード9.0 世界最大級のもの。長さ400キロに渡る津波だったとのこと。岩手だけでも4万6千528人の避難民。東北6県では37万7千人。死者不明は、2100人超。安否不明は1万人を越えているのだとか。
災害時は、デジタル機器は全く役に立たず、アナログ機、しかもローテクなものが頼りになることを知った。
災害で必要だったもの
・懐中電灯
・AMラジオ
・単三電池、単四電池 ※リモコンや壁時計の電池を外して調達。
・ろうそく
・給水用ポリタンク(コック付き) ※震災後水が出るなら、すぐに入れて蓄えておく。
・乾パン ※プロパンガスは使えるが、燃料切れとなった際に必要になる。
・反射式石油ストーブ ※今回は、これが無かったゆえ、寒さが厳しかった。
・携帯電話 ※自動車のシガー充電か、コンビニで売っている充電器が必要。今回は、どちらも無かった。
・カセット・コンロとスペアのカセット・ボンベ ※都市ガスの世帯では必要。
・キシリトールガム ※水不足で歯磨きができない場合の虫歯予防対策。
・カップめん、レトルト食品
・紙皿 ※皿洗いの水が不足しているので、今回は、皿にラップをかけて使用して、使用後にラップだけを捨てる方法を行った。
ご心配をお掛けしました。
ようやく電気が使えるようになりましたが、生活が落ち着くまでは時間が掛かりそうです m(__)m
宮古、石浜の親戚の安否が不明です。ようやく電気が通じるようになって、ネットでの捜索をはじめましたが、何も得られていません。現場の道路状況が良くないことと、ガソリンスタンドがパニック状態で給油ができず、何ともならない状態にあります。海外からもレスキュー隊が来ているとのこと、無事をひたすら祈るしかありません。情報に耳を傾けながら、今何ができるか判断していきたいと思います。(3月14日13:25)