2011年04月25日

聖なる都

昨日、私が通っているカトリック教会のイースター・ミサの後の祝賀会で、教会役員の方から依頼されていた歌のコーナーで歌う責任をどうにか果たすことができました。

その日は、とても体調が悪く、帯状疱疹の回復間もなく、練習もほとんどできない状態でしたが、神様の愛が強く感じられて不思議に頑張ることができました。録音を聴き返してみると、反省点ばかり目立つのですが、現場においてお客様を喜ばせたという意味では大成功だったと思います。歌声より、全身を使っての表現が功を奏した感じもします。

1曲目 「聖なる都」 作曲:S.アダムス 歌詞:宮川喬
2曲目 「アヴェ・マリア」 作曲:F.P.シューベルト 歌詞:高橋洋子
3曲目 「オンブラ・マイ・フ(ラルゴ)」 作曲:G.H.ヘンデル 歌詞:イタリア語
4曲目 「アヴェ・マリア」 作曲:F.P.シューベルト 歌詞:ラテン語

録音は、1曲目〜3曲目ですが、お客様からせがまれて、もう1曲歌いました。仙台教区から来ていたお客様に、この曲(ラテン語のアヴェ・マリア)と仙台教区の神父様との係わりをお話したところ感動が深めてくださったようでした。

2曲目で完全にエネルギーを使い切ってしまい、3曲目で、さらに絞り出してしまったことから、4曲目では、10曲分の頑張りが必要でした。多分、聴いている方には、そんなことなど分からないのでしょう。

とはいえ、感動的で思い出深いひと時でした。


4月24日の演奏

http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/197636342.html#comment
※再生できない場合は、mp3ファイルをダウンロードすることで聴くことができます。


ラテン語のアヴェ・マリア
http://shironeko-cafe.seesaa.net/article/27049082.html#comment





posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月16日

Rise Again, Japan!







posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月13日

俺が、俺がの「が」でなくて、おかげ、おかげの「げ」で生きる

今までいろいろ書いてきて、こう書くのは変ではありますが、実は、前世は何であるかとか、前世からの宿題といえるカルマとは何かということを無理に知る必要はないと思うのです。

人生に無駄の無い、要領良く生きることが優れているというわけではありません。

小さなことにも「感謝」できる気持ちを持てるのなら、小さなことにも「幸せ」を感じられる人になれます。

神が最も嫌うのは、魂の穢れであり、神が最も好むのは、魂の清さです。生き方がどうのこうのではないようです。

ただ、どんなに心美しく生きると決意しても、生活苦に押し潰されてしまっては長続きしません。前世を知るということは、苦しみを避けられ軽減できるので、心を美しく保つことに生かすことが可能です。

優れたピアニストが性格も良いとは限らないように、優れた霊能者が性格も良いとは限りません。能力が優れていることと人格とは全く別と考えるべきです。

霊能力が劣っていても人格が優れているのならば、今世での人生の目的をしっかり果たしていると言えるのです。そこのところを間違ってはいけないと思うのです。

最近、素敵な言葉に出会いました。魂の清さを得るためには、感謝の心を育てることなのだと感じています。



俺が、俺がの「が」でなくて、おかげ、おかげの「げ」で生きる。


※我(が):自分自身を主張する意識。(我を張る。我が強い。)
※偈(げ):教理や仏・菩薩(ぼさつ)をほめたたえた美しい言葉。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月08日

急な停電でトラブったパソコンを直す

昨夜11時32分 盛岡で震度5強の地震がありました。強い縦揺れで、3月11日の地震より揺れが激しいと思えるほどでした。間もなく停電となりました。その時、DELLのデスクトップパソコンが立ち上がっていたのが問題でした。また、懐中電灯とろうそくで夜を過ごさなくてはなりませんでした。単三電池で作動するラジオの情報に耳を傾けました。なかなか寝付けませんでした。

今日は妻と物資の買い付けの折、先祖の墓参りに行きました。お墓の掃除もしました。翌日8日15時ごろ、電気が復旧しました。さっそくDLLパソコンに電源を入れました。しかし、ブラック画面(英語でなんやかんや書いてある)が出てWindowsが立ち上がりません。セーフモードでもたちあがりません。マウスは認識しているようですが、キーボードがまったく反応していないようでした。

そこでパソコンのコンセントを外た上でパソコンのカバーを外し、一旦メモリーを外して、また差し込むことをしました。以前、パソコンが電源すら入らないトラブルを起こした際、DELLの電話サポートで得た知識です。

カバーを取り付けて電源を入れると、[Alart! Cover was previously removed.]の警告メッセージが出てWindowsが立ち上がりました。ところが、まだキーボードが反応しません。

キーボードを別のものに変えて(別に意味はなかった)、再度、パソコンのコンセントを外た上でパソコンのカバーを外し、一旦メモリーを外して、また差し込むことをしました。今度は偶然、キーボードも認識してWindowsが立ち上がりました。この偶然を大事にしなくては…

インターネットで[Alart! Cover was previously removed.]を解除する方法を調べ( http://tsuto.net/sonota_pc/alert.htm )印刷。

パソコンの電源を入れ、「F2」キーを押し続けてBIOS設定画面を開き(何度も電源終了を繰り返しようやく開く)、指示通りにやってみました。すると、警告メッセージが出なくなりました。

ところが音が出ないことに気づきました。デバイスマネージャーからドライバーの更新をしようとしても、2000年に購入した古いパソコンということもあり、できませんでした。このパソコンは、当初のOSは、Windows 98 SEでしたが、現在はWindows XP professional SP3にアップグレードして使っています。

どうやらCreativeのサウンドボードのドライバーがすっ飛んでしまったようです。Windowsのシステムの復元を試みましたが、改善できませんでした。仕方ないので、バックアップソフトAcornis True Iamgeで、今年の1月17日に作っていたハードディスクのCドライブ(ハードディスクをCドライブとDドライブにパーティションを分けてある)のバックアップファイルからシステム復元を試みました。

ところが、ブータブル(起動)CDが認識しません。どうやらBIOS設定があちこち狂っているようです。インターネットでCDで起動するBIOS設定方法を調べ( http://okwave.jp/qa/q2439041.html )印刷。そこで、またBIOS画面を開き(ここでも、何度もやってようやく開く)、BIOS「Boot」メニューから、CD-ROMを最上位に設定し直しました。

すると、Acronis True Imageが立ち上がり、1月17日のシステムに戻すことができました。ところが残念ながら、音は出ませんでした。

ふと、DELLのResourceCDのあることに気づきました。内蔵ドライバーの入ったCD-ROMです。このCD-ROMをインストールすると、あらら…自動的にCreativeのサウンドボードのドライバーがインストールされて音が出るようになりました。(翌日9日、Creativeのサウンドボードが認識していなかったのでCD-ROMから正規のインストールをして無事解決。)

その後は、昨日のパソコン環境に戻すためのインストール作業です。声楽のボランティアで使う予定の一太郎ビューアをインストールし、Adobe Reader、GOM Player、GOM ENCORDER、Java、Adobe Flahs Playerがアップデートを要求してきたのでアップデートをしました。

問題は、会計ソフトの「やよいの青色申告」です。「次年度の繰越し」設定をやり直し(苦労する)、バックアップデータから、昨日のソフト環境に戻し、ソフトのアップデートをしました。ところが、アップデートができません。

良く見れば、時計の時刻が狂っていて、しかも2000年に戻っていました。そこで、コントロールパネルから「日付と時刻」から、時刻合わせをしました。すると、会計ソフトのアップデートが無事完了できました。Windowsの設定も、いくつか狂っていて、設定のし直しをしなくてはなりませんでした。デスクトップの壁紙も昨日のものに変更。まだ、残っている設定が若干あるのかもしれませんが、仕事上には全く問題は無いようです。

ここまでの作業に約3時間要しました。が、ほぼ完全に直ったのは、まさに奇跡だと思いました。パソコンを買い換えなくてすみました。

やはりBIOS設定をいじれないと、この手のトラブルを解決できないと実感しました。BIOS情報と言っても、矢印キーとEnterキー、Escキーを押すだけの作業なので思ったより難しくはありません。パソコンを処分する位なら、試してみる価値は十分にあります。特別テキストはありませんでしたが、インターネットの情報どおりにやったなら、上手くいっちゃいました。

今日は、ご先祖様に守られたのでしょうか。それとも、今日の守り神様(大国主神…『日本の神様カード』)のご加護だったのでしょうか。ロザリオを持っていたので、聖母マリア様の導きだったのでしょうか。感謝しなくては! そして何より、インターネットに情報を公開してくださった方に感謝!

帯状疱疹の方はすっかり良くなりました。仕事の方は5日から復帰しています。まだ、無理はできませんが…


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:00| Comment(2) | TrackBack(0) | パソコン・インターネット | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月05日

病床で考えたこと(その2) 人生のテーマ

スピリチュアルな才能のある私の尊敬する先生のレッスンで、私の人生のテーマは、「恥をかくこと」であると告げられた。

そのことを聞いたとき、どうもしっくりこなかった。しかし、父に目を向けたとき、少しずつ意味が理解できてきた。

父は、とにかく「恥をかくことが」嫌いなのである。恥をかきたくないゆえ、自分のできないことを誰かにやらせ、それを自分の手柄にしてしまう。恥をかきたくないゆえ、自分の失敗を誰かのせいに仕立ててしまう。恥をかきたくないゆえ、暴力的な態度で誰かにそういったことを仕向けてしまう。そのことで人間関係にヒビが入り、共に生きる人の幸せをことごとく奪っているのだ。

私は、そういった性質を持つ父がとても嫌いだった。父の暴力的態度が母の思考を狂わせ、私は子どもの頃から、母の理解できない言動に苦しんできた。そのことで母に恨みの念を持っているが、元を正せば父に原因があるのである。

父は、金には困らぬ人で、私が困っていると金を出してくれるが、そこに心は伴わないのである。いやむしろ、金を出すと足を引っ張ることが平気になるようで、私をちゃかし馬鹿にする。トラウマになるほどに苦しめる。私は、父に励まされた経験がほとんどない。逆に、悔しい思い出ばかりなのである。

そういうことで、私は父が大嫌いである。ところが、私の人生のテーマは、父の人生のテーマなのである。何故なのだろう。それは、私の前世の欠片集めの過程で、次第に明らかになっていった。前世を知る手がかりは、身近な所にゴロゴロころがっているのである。それをひも解いていくのである。何も霊感が強くなければならない必要は無いのだ。追求する気持ちの問題である。

私は、前世で父と同じように、恥をかくことが嫌いな人間で、しかも権力をもっていたゆえに、周りの人を傷つけてきたのである。

その次の人生は、なんと「幸福な犬」だった。私は、飼い主にとにかく愛され、愛を学んだ。多分、私と出会った人は、私を温厚な人間と感じることだろうが、これは犬の時代に身につけたものである。愛されたことを愛で返す習慣が無意識で身についたのだ。動物の前世というと、レベルが低いと思われることだが、そうではないと思う。魂のレベルアップに繋がるショートステイの人生なのである。

ふとしたことで、この時の記憶を鮮明に思い出すことができた。そこからさらに欠片集めをしていくことで、さらにその前の前世もだんだん明らかになってきたのである。

しかし、幸福な犬の時代には、前世の「恥をかく」というカルマを刈り取ることはできていなかった。つまり宿題として残されていたのである。それを現世で求められていたのだ。そして、自分の前世を見出す鏡として、父の元に生まれてきたのである。何で、この親の元に生まれてきたかの理由がはっきりしてきたのである。

前世は「すでに持っている材料」なので、前世でやってきたことを現世でやるなら、苦しむことなく成し遂げられる。しかし、材料を持っていないことをやるなら、大きな苦しみが伴うこととなる。苦しみがあまりに大きいと、カルマの刈り取りに向かい合うどころでなくなってしまう。それでは意義の乏しい人生となってしまうのだ。だから、自分の持っている材料について知るべきなのだ。ちなみに私は、声楽に関しては前世での材料をほとんど持っていなかった。それゆえ、めちゃめちゃ苦労したのである。幸いスピリチュアルなセンスで人を感動させる歌を歌えるようである。努力は必ず報われることは身を持って体験できた。しかし、この手の苦労はあまりするべきではないと感じている。

現世の自分にとって、意味合いの違っているような人生のテーマではあるが、前世からの宿題と考えると納得がいく。このカルマの刈り取りは、しっかり果たしたい。もう一つは、神から求められている私の使命である。祈りとは、本来「意乗り」とも言い、自己中心的な願いを求めることではなく、神が自分に願っていることは一体何であるかを祈り求めることなのだ。

そのためには、人生に白旗を揚げ、自分に生きることをやめることにあると思う。そこからが、本番の人生の始まりとなるのである。「NO」という言葉をできるだけ使わず、すべて「YES」で考える。これは大変知恵のいることで、神から知恵を授からねば、かなり厳しい。かなり厳しいことではあるが、神と共に生きることができるようになるのである。

私は、まだ白旗の揚げ方に甘いところがある。良い感じを掴みつつも、まだ自分に生きたい願いが強いのだ。そこのところをしっかり解決しなければと思っている。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月03日

病床で考えたこと

私は、先月の31日から、帯状疱疹のため寝込んでいます。

多分、震災の影響でガソリンが得られず、盛岡市内の自宅から滝沢村の教室までの片道約12キロの道のりを自転車で通ったことに無理があったのかもしれない。元旦に町内の雪かきを頑張った際も、ジンマシンが出て苦しんだのだけど、免疫の弱い私には、寒い中での重労働は向いていないようである。

もちろん、少しずつ身体を慣らしていく方法なら問題がなかったと思うのだけど、どちらもいきなりのことで、かなりキツかった。


私は、クリスチャンであるのだけど、自分の前世についての情報をかなり得られている。キリスト教が間違っているのではないと思う。一度きりの人生と考えると、一生懸命生きられるのだけど、前世観を中途半端に理解していると、「どうせ生まれ変わるのなら、頑張らなくてもいい」と受け止められがちであるので、インターネットによる豊かな情報が得られなかった時代においては、特別考えなくても良いことだったと思うのだ。もし、キリストが再臨して、現代人に直接教えを与えられるとするならば、2000年前の信徒たちには理解できなかった、高度な真理を教えてくれることだろう。

前世観とは、実は科学的に証明されつつある分野でもあり、大自然の法則とも考えられるのである。つまり宗教でも何でもないのだ。このことにより、キリストの愛の教えが価値を落とすことはまったくない。なのに、多くのクリスチャンが前世観に嫌悪感を抱いているのは、ドグマ(教義)に縛られている。もしくは偏っているからなのだろう。

私は、前世とアクセスするために、いくつかのツールを用いている。また、これまで40人以上の人の前世を調べることで、少しずつ精度を上げている感じがする。つまり、いろいろな角度から分類する資料が得られてきたということである。

前世を知ると、自分が克服しなければならないテーマが見えてくる。また、自分が前世で積み上げてきた「持っている」能力を知るのなら、それを生かすことで今世を生きやすくなる。材料を持っていないことを頑張ることは、かなり苦しみが伴うからである。今世を生きるのが辛い状態では、前世からのカルマの克服に取り組むパワーが削がれてしまうからだ。

我が国は核家族化が進んでいるが、これは好ましくないことが解ってきた。親兄弟は、自分の前世の鑑になっている人たちだからである。家族の縁が気薄になると、「自分が何者であるか」ということが見出せなくなってしまうのだ。先祖がいかなる人たちだったかを知ることも、前世を理解する上でのジグゾーパズルを拾い集める作業になってくる。

私は、前世で成功を得ていることから、現在の私に神は成功を求めていないように思う。むしろ、成功とは無縁の幸せな飼い犬だった前世で、大切なことを学んでいる。そこにアクセスすると優しい気持ちが得られるからだ。成功とは、霊界の価値観では成功ではないらしい。成功者の霊格は低いからだ。

前世を思い出す材料は、身の周りにたくさんあるのである。霊能者のようにズバリ見出すことより、手探りで少しずつ見つけていくことに意義があると思う。なぜなら、簡単に得たことは簡単に失い、ものすごく苦労して得たものは完全に身に付いていくので、失うことがないのである。なかなか見えてこないけど、苦労して見出すだけの価値は十分にあると思う。

何でこの人と出会ったのか、何でこの人と別れたのか、何でこんな不幸に合わなければならなかったのか、何で自分だけが助かったのか… そういったことが、だんだん理解できるようになってくるのだ。

そういったことは、過去の事実から学び取ることができる。また、大自然に目を向け、大自然のなす業に触れることでも理解できてくる。しかし、それだけでは片手落ちの部分もある。人間的な、「こころづかい」や「思いやり」は「人と人との交流の中で育つもの」であり、別メニューであるような気がする。つまり、「愛の掟」について学ぶことである。キリスト教は、そこに答えてくれる教えである。ただ、キリスト教オンリーになると排他的になりやすく、逆にキリスト教の「愛の掟」から離れてしまう危険性が無いとはいえない。気をつけなければならない点である。

過去は変えられないが、未来は変えることができる。

幸せとは、誰かから与えられるだけのものではなく、自ら創り上げていくもの。感じるセンスを養っていくことなのだと思う。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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