2011年05月22日

いじめっ子から学んだこと

確か小学3年の頃。クラスに大変ないじめっ子がいて、そのいじめのことでご父兄さんたちが動き出し、担任の先生がクラスの児童の何人がどのようにいじめられたか調査したのでした。

調査結果は、1名を除いて、クラスの全員がいじめられていたのです。その、いじめられなかったと書いた1名が、実は私でした。

登下校で、そのいじめっ子がいつも私に近づいてきたのですが、当時、自閉症ぎみで口数の少なかった私は、彼の話を流して聞いていました。

その子は、野球がよほど好きらしく、中でも巨人がごひいきチームで、テレビ中継をアナウンサーになりきって私に話して聞かせるのでした。私は、まったく野球に興味がなかったので、黙って聞いていただけです。ここで良かったのは、嫌がらずに聞き流していたことです。

もし、マジメに聞いて、自分は阪神ファンだとかいったら、敵視されていじめられたことでしょう。つまり、マジメに聞き過ぎるのも危ないわけです。

また、その子の話を聞くのを嫌がったり拒否したら、間違いなく、いじめられたことでしょう。

「オマエは、おれのたった一人の大切な友人なんだ。」

その子は、そう話して私に宝物やおやつを分けてくれました。

もちろん、私は、その子を友人だと思ったことは一度もありません。ただ、嫌がらずに聞き流していたら、勝手に相手が良い気分になっていたということなのです。

大人になり、私がブログやSNSをやるようになって思ったことは、親身になってコメントを書いたりすると、返って嫌われたり、感情を転移されて(攻撃の標的にされて)苦しめられたりする可能性が高いということです。

親身にならずに、適当に相手に同調した振りをしている分には、何の問題も起りません。

つまり、「NO」という言葉が、トラブルを作るということです。

「YES」で答える分には、何の問題も起りません。相手に問題があったとしても、こちらに火の粉が飛んでくることはないのです。

もちろん、「YES」で答えると言っても、親身に答える「YES」ではなく、嫌がらずに聞き流す程度の「YES」です。曖昧な「YES」を使って、誉め言葉を使って、相手を良い気分にされれば良いのです。

相手は、「NO」を家族から、周りの人から浴びされているわけで、「NO」の言葉にうんざりしています。「YES」や誉め言葉を受けると、幸せな気分になるので、心が落ち着きます。そうなると、幸せな気分を与えてくれる人間に嫌われたくないという思いから、相手に無理なことを求めなくなるわけです。

この技法は、落ち着きの無い子供に教師が接する際に応用できると思います。

落ち着きの無い子に「だめ」の言葉を使ってしまうと、返って逆切れされて大変なことになってしまいます。

そうではなく、何でも良いので誉めることを見つけるか、誉めることに繋がるように仕向けていくようにして、いっぱい誉めてあげるのです。すると、その子は幸せな気分になるので、先生に嫌われたくないと、少しずつ言うことを聞くようになっていくのです。

この誉め言葉こそ、アファメーションすることなのです。アファメーションとは、自信を与えてくれる言葉を繰り返し繰り返し唱え、無意識(潜在意識)にインプットする作業のことなのですが、その子の無意識を支配している否定的な言葉以上に、肯定的な言葉で埋め尽していくわけです。

この際も、理屈でどうのこうのではなく、曖昧なもので十分です。相手にとって受容的な空気を作り出すことができれば大成功といえます。

人は、変えようとするから変わらないのです。受け入れられれば、相手が勝手に変わっていくものだと思います。

私は、子どもの頃のいじめっ子との触れ合いを通して、カウンセリングで最も押さえるべきことを学習していたのでした。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

被災地より

東日本大震災から、ちょうど2ヶ月の5月11日(水)、津波に流されたおばあちゃんと、4歳の男の子のお葬式に出席するため被災地のお寺に出向きました。妻は仕事で行けないので、私の母と二人で現地に向かいました。国道106号線の途中、休憩で立ち寄った「ふるさと物産センター」には、自衛隊の車両がたくさん駐車していて、これから被災地に向かうのだという気持ちになっていきました。翌日12日のの岩手日報朝刊の記事によると、岩手県での犠牲者は、死者4,407人、不明者3,266人とのことです。

宮古市内は、かなり復旧が進んでいて、開店している店が多く目立ちました。車で走っていて、壊れている家と、そうでない家が数百メートル単位で交互に見えて、ちょっとした地形の違いで明暗が分かれていました。堤防の傍の家は無残に壊れていても、後ろに山を背負っている地形に建っている家は助かっていました。

お寺のある津軽石へ向かう国道45号線沿いになると、被害がさらに大きくなっていました。ここでも、山を背負っている地形に立っている家は助かっていました。

14時からお葬式が行われ、お葬式後、喪主たちの住む石浜の仮設住宅に向かいました。津軽石の橋を渡ると、赤前地区は、目を疑うほどの廃墟が広がっていました。「ここで、どれほどの人が亡くなったのだろう」急に頭痛に襲われました。

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仮設住宅のある石浜には、喪主たちの乗る車を追いかけて向かいました。正規の道路が通行止めとなっているため、一度も通ったことのない山道を走りました。その道への入り口が、まったく目印となる建物が無くてわかりにくいため、帰りには携帯のカメラで、何枚も写真を撮りました。細くて、しかもくねくねとカーブの連続です。30分ほど走ると、見慣れた道路に合流しました。とはいえ、くねくね道路には変わりありません。そこから気の遠くなるほど長い運転が続きました。

海に近い地域は、壊滅していました。凄いがれきでした。石浜に着くと、立っているはずの家並みが消えていました。高台にある仮設住宅に着き、そこから母の実家のあった筈の場所を眺めると、津波にさらわれたばかりか、大きな地すべりが起っていて、ものすごい量の土砂で埋まっており、数台のパワーショベルが土砂を片付けていました。石浜神社の石の鳥居は、無残にも根本から折れて流されていました。

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2階建てのプレハブの仮設住宅は、お祭りの縁日での出店が使うような自家発電で、仮設トイレは外にありました。畳にジュータンが敷き詰められていて、わずかな期間でよくここまでと思うほどの出来上がりでした。海の男たちのバイタリティーが感じられました。

16時半過ぎに現地を建ち、盛岡の自宅に着いたのは、21時を過ぎていました。ざっと8時間以上運転していたことになります。特に帰りの運転は、右の足首がとても痛かったことと、頭痛のために命がけの運転となりました。


6月4日(土)の盛岡芸術祭 声楽部門(13:00〜16:00 マリオス 小ホール)では、私は歌の方では参加しませんが、募金集め担当で参加します。私のお習字の塾の子どもたちと絵の入った募金箱を作っています。震災後の4月21日に乳がんのため亡くなった元キャンディーズのスーちゃんも、子どもたちの絵の中で復活して活躍する予定です。

こういった助け合いの輪が、日本を住みよい国へと変えていきますように。それが、亡くなった方々への一番の供養になると信じています。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 08:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月04日

信じる力

信じるの裏側には、「わからない」があります。

試合に勝つか負けるかは、試合に出てみないとわかりません。

被災地の人々は、復興にどれ位時間が掛かるか予測も立たないような(つまりは「わからない」)酷い状態の中でも、復興を信じて頑張っています。

神様を信じているといっても、実際に神様を見たという人はいないことでしょう。

「わからない」からこそ、信じるという言葉があるのです。

でも、信じるとは、とても前向きな言葉。

良くなりたいから使う言葉なのです。

プロゴルファーの石川遼君や、野球選手の斉藤祐樹君がどうして強いのでしょう。

まずは彼らが、自分が良い結果を出せることを信じる力を持っていることと、彼らの父や母も息子のことを信じているだろうし、友人たち、同僚、何より全国のファンの方々も信じているわけで、こうなると「一人力」が「一万人力」にもなるわけです。

しかし、平気で嘘をつく人はどうなるでしょう。

嘘ばかりついていると、周りの人が信じてくれなくなることでしょう。

そうなると、信じてくれるのは自分だけ、つまりは「一人力」でしかなくなってしまいます。「一人力」の人が、「一万人力」の人と戦って勝てるでしょうか。?

人が強くなるためには、周りの人との信頼関係の絆を良くする必要があるのです。

人をだましてお金を稼ぐ人がいます。確かに一時的には大金持ちになれるかもしれませんが、信じる力は大きく失なわれてしまいます。そうなると、運にも見離されていき、破滅へと向かっていくことでしょう。

信じるとは、「わからない」が裏側にある。

「わからない」ところに神様がいらっしゃるのだと思う。

「わからない」を大切に、どんな人にも、自分にはない良いところがあると信じて大切にして生きたい。

誰かが、ちょっと間違いをしたからといって、その一面しか知らない状態で、その人は「ダメな人」と決め付けるような愚かなことだけはしたくない。

「決め付け」とは、信じる心を最も失わせる悪魔のささやき。

この「決め付け」という悪魔が多過ぎて、人々は信じる心を失っているのだ。

信仰もそう。クリスチャンだけが救われる。というのは、一つの決め付けではないだろうか。キリストを否定する者を敵とみなすことも同様である。どうして、あるキリスト教の国の人はイスラム教の人を平気で空爆できるのだろう。イスラム教の人は、全員テロリストなのでしょうか?

だって、キリスト教を否定する民は滅びの民と聖書に書いてあるから…

聖書もいいけど、聖書が本当に正しいのか直接神様に聞いてみたら?

大自然に聞いてみたら?

そんなこと言われると、わからなくなってきた…

それでいいのではないでしょうか。

「わからない」からこそ、決め付けることをやめて、信じ合う絆を大切にできるのです。

誰もが「わからない」ということを大切に生きていくなら、きっと世界は平和になることでしょう。

わたしは、「わからない」からこそ、キリストを信じているのであり、神の愛を信じているのです。

キリスト教が正しいと断言できないことを大切にしているのです。




実は、スピリチュアルな視点は、「わからない」ことを「わからない」と言える正直さがなくては見えてこないものでもあるのです。

嘘をついていては、信じる力(神の力)を失っていくのですから。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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