しかし、知性なき者に目を向けてこそ完成する知性でもある。
神は多くの場合、障害者(中でも最も小さき者)を通して、その栄光を示されるからである。つまり「神の愛」がキーワードとなる。
タロットカードや日本の神様カードは、ひとつの指針に過ぎない。「地の次元」を捉えることができても、「天の次元」を捉えることはできない。
もっとも、人々は「地の次元」に生きているのだから、そういった指針は力を持っている。
宗教も人間が描く神も「地の次元」に近いことを知るべきである。本当の神とは、宗教や人間が描く神の姿をはるかに超えているからだ。宗教が不幸な戦争や民族闘争と関わってしまうのは、宗教が「地の次元」に留まっていることを意味しており、そこには大いなる知性は存在しないのである。
しかし、宗教は、人間の心を「天の次元」に向かわせる道ではある。さまざまなルートはあるが、間違った道はない。険しい道もあるかもしれないが、必ずや真理の道へと合流するからだ。間違っていると言うのは、道のことではなく、「天の次元」に向かって歩まず、進化ではなくマンネリに生きることなのだ。
「キリストの道」を歩もうと「仏陀の道」を歩もうと、「天の次元」に向かう道なのだ。ただ、マンネリから近視眼的になっては意味がなくなってしまう。神の導きに心を開き、使命に生きてこそ、その知性は磨かれるのである。
だが、人はいつかは死ぬ存在であり、「地の次元」から離れなくてはならない日が来るのである。それゆえ、日頃から「天の次元」へ向かった心を育む必要があるのだ。信仰とは、「天の次元」であるゆえ、この世の成功とは何の関係も無く、切り離して考えなくてはならないのである。
テレビ番組を通して、または触れ合う人を通して、アカシックレコード(サタンも閲覧できる)が見ることができるなどスピリチュアルな能力に驚かせられることがあるかもしれない。しかし、それは地の次元に限りなく近い「低い次元」に過ぎない。信仰による天の次元とは、さらにさらに上の次元なのだが、スピリチュアルな驚きは、そういった「高い次元」の理解に向けてのきっかけにはなるのかもしれない。
聖典の知識ももちろん大切だが、それだけでは単なる知識に過ぎない。その聖典のみ言葉を通して呼びかけて来る神の導きに心を向け、その導きから学ぶことのできる大いなる知性は、真理と呼ぶにふさわしい崇高さに満ち溢れているのである。