2012年09月26日

疑いと学び

真理を見出すために、「疑う」ことは別にどうでもよいこと。ただひたすら「学ぶ」ことなのである。

「疑い」の心が無ければ、実に広く学ぶことができるからである。とりあえず逆も調べてみるのは、「疑う」からではなく、学ぶ姿勢なのである。特に科学の世界ではその傾向が大きいかもしれない。色眼鏡で見なければ良いだけの話なのだ。

実際、仏教や神道を深く学んだからといって、キリストの教えの価値が落ちるようなことはなかった。ただ、一神教か多神教かということでは、かなり悩んだが、キリスト教の歴史背景等の学びを深めることと、学びの中で心に飛び込んできたインスピレーションによって、その悩みも軽くなっていった。

そこで最も問題となってくることは、真理とくっつけて考えられがちの所属のことではなく、人間の愚かな考え方である。ある宗教者は、他の宗教者を徹底的に批判する。自分の宗教すら、ろくに学び得ていないのにである。私は、どこの宗教に所属しようと、それは大した問題ではないような気がする。大切なことは、ただひたすら真理を求めて「学ぶ」ことであって、正しさを主張することは、決めつけでしかないのである。早とちりともいえる。一生涯、決めつける必要はないのである。

それ以上の学びは、さらに上のステージ(死後の世界)に用意されていると考えることにしている。修行の世、または試しの世といわれる、この世において、完全なる真理を得られるとは考えにくい。そうであっても、死ぬ瞬間まで真理を得る努力を続けたい。次のステージで生きてくると信じているからだ。

また悪人がいるから、人は隣人を「疑う」のである。罪とは、どこに所属するかという問題ではなく、人々の間に「疑う」気持ちを植え付けることにあると思うのだ。

訪問販売や押し売りの電話が来たりすると、これまでの経験から「騙されるのではないか」という思いが心をよぎる。本当に、相手を思う心でこの人たちが来ているとは思えないのだ。自分もこういった仕事をいくつか経験したことはあるが、あの時は、自分の心を騙し、自尊心を傷つけながらの苦痛の大きい仕事であった。また、それらの仕事は一時的なものであって今は存在しないのだ。誰かの金儲けのために利用されたに過ぎなかったのだ。その経験があるからこそ、どんなにお金にならなくても、人のために役立つ仕事をやっていきたいと思うのだろう。

悪人ではなくとも、「疑う」心を相手に抱かせることは、生きている限り免れないことではある。何もしなくても、勝手に誤解をして、私を激しく嫌うような人もいるからだ。

とはいえ、「疑う」気持ちを相手に与えるという、この罪を犯さないよう努力し、うっかり犯してしまったら悔い改めをして初心に戻って努力を続ける。これが、人間にとってまっとうな生き方ではないだろうか。

朝にジョギングをしていて、こんなことが心に飛び込んできたのである。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:29| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月18日

「良くなりたいか」

「良くなりたいか」
(ヨハネの福音書 5章6節)


キリストの愛を体験する初めの第一歩は、この言葉に尽きるように思います。


奇跡体験とは、「良くなりたい」という強い思いに神が力を貸してくださってこそ起こることだからです。

子供たちにお習字を教えていて、「良くなりたい」という気持ちを前に出して頑張る子は、ぐんぐん伸びるのですが、「別に、良くなりたくない」と冷めた気持ちに支配されていて頑張らない子は、良い結果が出ず、良い結果を出している子をやっかんで意地悪をしたりします。

カウンセリングにおいても、「別に、良くなりたくない」という人には何もできないのが現状です。自分自身は、良くはなる気持ちはないけれど、周りの人には良くして欲しいという、わがままな気持ちに支配されて、周りの人を困らせているのです。周りの人が自分の思ったように動いてくれないことから、満たされない思いがどんどん積もってゆき苦しんでいるのです。その苦しみから解放されたいと、カウンセラーに実に間違った助けを求めているのです。

まずは、「良くなりたい」という視点に立たなくては、何も始まりません。

カウンセリングの基本とは(子供の教育にも言えることではありますが)、「良くなりたい」という気持ちを引き出してあげることにあるのかもしれません。

盲人の目を開け、らい病者の傷を清めたキリスト様でも、「良くなりたい」と思っていない人を癒すことはできません。奇跡は起こせないのです。

次に大切なことは、目に見えないキリスト様を近くに引き寄せることにあります。キリスト様に癒されているイメージを具体的に心に描けるようになることです。多分、私欲に関することなどのことにはキリスト様は近づいてくださらないと思えることでしょう。そうなると、「あれもこれも」といった考え方はなくなっていき、願いが一つのことに定まっていくことでしょう。「このことが叶ったなら、あとは感謝をこめて、自分で頑張ってみよう」といった具合にです。

そういった祈りは、すぐに実現されるわけではありません。あなたの気持ちが本気かどうか試されることになるからです。人によっては、1年もしないで実現されるかもしれませんが、ある人は十数年待たなくてはならないのかもしれせん。

十数年待たなくてはならない場合、それは悲しむべきことではありません。それは、神からそれだけ大きなビジョンを与えられていると考えられるからです。例えば、若くして成功してしまった人は、若くして固まった日常に生きなくてはならなくなります。忙しく、収入も大きいかもしれませんが、他の可能性は閉ざされてしまっているわけです。成功するまでに時間のかかった人は、遠回りした分だけ、実に多くの経験をし、たとえお金にならなくても貴重な財を得ることになります。その中には、「真理」という財も含まれるのです。この「真理」という財を得ない人は、必ず誰にでもやってくる死を前にしたときに、実に空しい思いをしなくてはならなくなります。

そう考える時、祈りの実現に時間が掛かることには意味があると悟ることができるでしょう。

人は努力が実るとどうしても「高慢」になってしまいます。この「高慢」が世の中に苦しみが存在する一番の理由となっています。

人はプライドを持つことで、努力し、難しいことをやり遂げることができます。高いプライドを持って頑張ることは決して悪いことではありません。

しかし、人を愛するということとなると、このプライドが障害となってくるのです。高いプライドは、他者を認めることを阻んでしまうのです。

スイッチを付けたり切ったりするように、プライドは「オン」と「オフ」で切り替えることができたらと思うのです。

キリスト様は、『私に従うために自分を捨てて、自分の十字架を背負って来なさい』と聖書の中で語っています。

この捨てるべきものこそがプライドであり、プライドを捨てたことで表面化してくる自分の弱さや欠点が、自分の十字架といえるのだと思います。

プライドで完全武装すると、人は強くなったかに見えます。その鎧を脱ぎ捨てると、実に情けない状態になってしまうのです。しかし、その情けない自分と向かい合ってこそ、自分は神様の助けが必要である存在であることに気が付くのです。この状態になってこそ、キリスト様は近づいて来てくださるのです。



下の録音は、一昨日の9月16日(日)にカトリック四ツ家教会にて行われた「歳の恵みに感謝する会(敬老会)」で私が歌った様子です。





posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:26| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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