「疑い」の心が無ければ、実に広く学ぶことができるからである。とりあえず逆も調べてみるのは、「疑う」からではなく、学ぶ姿勢なのである。特に科学の世界ではその傾向が大きいかもしれない。色眼鏡で見なければ良いだけの話なのだ。
実際、仏教や神道を深く学んだからといって、キリストの教えの価値が落ちるようなことはなかった。ただ、一神教か多神教かということでは、かなり悩んだが、キリスト教の歴史背景等の学びを深めることと、学びの中で心に飛び込んできたインスピレーションによって、その悩みも軽くなっていった。
そこで最も問題となってくることは、真理とくっつけて考えられがちの所属のことではなく、人間の愚かな考え方である。ある宗教者は、他の宗教者を徹底的に批判する。自分の宗教すら、ろくに学び得ていないのにである。私は、どこの宗教に所属しようと、それは大した問題ではないような気がする。大切なことは、ただひたすら真理を求めて「学ぶ」ことであって、正しさを主張することは、決めつけでしかないのである。早とちりともいえる。一生涯、決めつける必要はないのである。
それ以上の学びは、さらに上のステージ(死後の世界)に用意されていると考えることにしている。修行の世、または試しの世といわれる、この世において、完全なる真理を得られるとは考えにくい。そうであっても、死ぬ瞬間まで真理を得る努力を続けたい。次のステージで生きてくると信じているからだ。
また悪人がいるから、人は隣人を「疑う」のである。罪とは、どこに所属するかという問題ではなく、人々の間に「疑う」気持ちを植え付けることにあると思うのだ。
訪問販売や押し売りの電話が来たりすると、これまでの経験から「騙されるのではないか」という思いが心をよぎる。本当に、相手を思う心でこの人たちが来ているとは思えないのだ。自分もこういった仕事をいくつか経験したことはあるが、あの時は、自分の心を騙し、自尊心を傷つけながらの苦痛の大きい仕事であった。また、それらの仕事は一時的なものであって今は存在しないのだ。誰かの金儲けのために利用されたに過ぎなかったのだ。その経験があるからこそ、どんなにお金にならなくても、人のために役立つ仕事をやっていきたいと思うのだろう。
悪人ではなくとも、「疑う」心を相手に抱かせることは、生きている限り免れないことではある。何もしなくても、勝手に誤解をして、私を激しく嫌うような人もいるからだ。
とはいえ、「疑う」気持ちを相手に与えるという、この罪を犯さないよう努力し、うっかり犯してしまったら悔い改めをして初心に戻って努力を続ける。これが、人間にとってまっとうな生き方ではないだろうか。
朝にジョギングをしていて、こんなことが心に飛び込んできたのである。