2012年11月25日

やはり経験は大事かも?

今朝、経験について記事を書きました。

経験だけだと視野が狭くなると…

しかし、人を励ます際、生きた経験がなくては、その人に寄り添えないという部分は確かにると思います。この場合、成功に至るような優れた経験ではなくて、むしろ愚かな経験です。

「私と同じ愚か者がいたんだ」と知ると、その人の心は軽くなることでしょう。

自分にとって恥と思えた経験が、ある時、誰かを励ます時に、生きた材料となるのです。

少々、哲学的な話をしましょう。

座禅を組んで、煩悩を捨てていく際、経験不足の未熟者はあまりに未練が多いので煩悩を捨てられないのだといいます。

最終的には、座禅は煩悩のみならず、血を流す思いで得た知識や悟りすらも捨てなくてはならなくなります。そこまで捨てなくては、浄化された魂になれないからです。神の領域の入り口に達することができないのです。自分を完全に捨て去ってこそ輝く魂こそが本物なのです。

ある意味、座禅は「死ぬ練習」なのかもしれません。

何も座禅でなくても、キリスト教の黙想でも同じことなのだと思います。

そういう意味でも、良くも悪くも多く経験した方が、未練なく捨て去れるような気がしてなりません。

学問を大いにして、できれば良い経験を多く積む。いや、むしろ失敗の経験を多く積み、それにめげずに成功を模索し、目標通りの成功をするか、目標とは全く異なる成功をするかは別にして、死ぬ時には、未練なく自分を捨て去れる者でありたいものです。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

経験主義は、偏見を生む

アメリカ人に酷い目にあった人は、アメリカ人は憎むべき国民と言う。イタリア人にお世話になった人は、イタリア人は、愛すべき国民と言う。しかし、別のアメリカ人、別のイタリア人もいるわけで、経験は一面を見ただけで狭い見方となってしまう。

現場での経験が第一で、学問をしなくても現場の経験ですべてやれると思っている人もいるのだが、確かにある一面では抜群な才能を示すかもしれないが、またたく間に時代遅れとなってしまうのだ。

経験は、確かに重要なことだが、経験だけで語るとなると視野がものすごく狭くなってしまう。

だからといって、学問だけで語るとなると、現実離れした考え方に陥りやすいのかもしれない。

つまり、バランスが重要なのだと思う。

偏見の強い人は、経験主義者が多い。又は家族主義者で、親の考え方が絶対で(たとえば親が差別主義者だったり)、そこから解放されていないのである。私は、教育をやっている者なので、偏見をできるだけ持たない者でありたい。自分のまだ知らない部分を重要視して、冷静に判断できるものでありたい。

読書をする際、同じ視点のものばかりに傾かずに、時々、逆の視点のものを読むようにすると、視野が広がってくるし、多くの発見が得られると思う。

単に覚えるのではなく、このように発見が得られてこそ、進歩のある読書法と言えるのだと思う。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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