2013年03月31日

あきらめないこと

長年声楽をやってきて学んだこととは、

「あきらめないこと」

に尽きるように思います。

私の場合、声帯のコンディションに恵まれている時とそうでない時とが半々ぐらいなので、

本番の半分は、声帯の不調と戦って歌っているわけです。

ところが不思議なもので、不調の時に限って、二度と歌えないような奇跡的な演奏ができたりするのです。

私は本番に強い方ですが、演奏の半分は苦しみながら、戦いながら歌っていたように思います。

そこで私が貫いてきたことは、

「あきらめないこと」

です。

今日はイースターだったので、ミサの後で、イースター祝賀会が催され、余興で私が歌うこととなりました。

それが、声帯が合わさらない感じで声がかすれて全く出ないのです。これまでで一番のスランプだったかもしれません。

人と話しても、声が小さくて聞こえないと言われる始末。でも、そんなに動揺はしませんでした。

とにかく本番は、あきらめずに200%の力で歌いました。

電気ピアノの鍵盤が不具合を起こしているとのことで、伴奏者の伴奏も、練習の時のテンポよりかなり遅かったため、カンニング・ブレスを多くしないと歌えない状態になりました。

伴奏者にとっても私にとっても、練習でのクオリティーに比べて、かなり不本意な演奏とはなりましたが、私はそんなに落ち込んではいません。

それは、

今日もあきらめずに歌えたからです。

今日の酷いコンディションを考えると、今後、今日より悪い演奏をすることはないと思いました。

今日のことを考えれば、どんな酷いコンディションでもキャンセルすることなくチャレンジできると思うからです。

それでも、今日の演奏で感動してくださったお客様が何人かいました。

これが本番演奏の魅力でもあります。


リヒャルト・シュトラウス 「万霊節」「献呈」



さて、「あきらめないこと」とは、私たちがこの世を生きるテーマともいえるのではないかと思うのです。

人が死んだ時、まずは恨み言を捨て去らなければなりません。でないと、浮遊霊や地縛霊になってしまうからです。

それだけでなく、神の世界へ到達するには、自分がこれまでに血を流すような思いをして得た知識や悟りをも捨て去らなければなりません。

そう話すと、「捨てる位なら頑張る必要などないのでは」と言う人がいます。

でも、それは違います。捨て去った後の魂の輝きが重要だからです。

あきらめないで頑張った人の魂は輝いていますが、あきらめてしまった人の魂は輝きません。

そして、最も大きなあきらめは自殺なのだと思います。

人は魂を磨くために、この世に存在するのだと思います。

野球やサッカーの試合を見ていても、諦めないプレーは、見る者に感動を与えてくれます。

諦めないプレーは、時に素晴らしい奇跡を起こすからです。先日行われたWBCの日本対台湾戦のように、勝ち負けを超えた素晴らしい試合に出会うと本当に興奮します。

選手たちは、奇跡の体験を重ねながら、たくましい精神が養われていくのだと思います。

私はスポーツ選手ではありませんが、スポーツ選手のように「あきらめないこと」を実践する者でありたいです。

そして、出会う人たちと、奇跡体験を分かち合いたいと思います。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 17:58| Comment(4) | TrackBack(0) | 声楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月27日

幼児教育の重要性

以前、うちの塾で習っていた男子高校生に、大宇宙が終わることについての話をしたところ、

「僕は何も高い次元になんか行かなくてもいいから、消えてなくなってしまいたいと思う」

と話していた。最近の若い子たちはこのように考えるようである。将来就きたい仕事はと聞くと、

「楽できて、そこそこの収入が得られる職種」

と答えるのである。人のために役に立つ仕事はしたくないのかと聞くと、

「別にそんな気持ちはない」

と答えるのだ。

古くから私たち先祖たちから、子どもたちに天国と地獄の話をして死後の世界をイメージさせようとしてきた知恵がなんとなくわかるような気がした。

地獄があると考えるから、安易に死ねない。頑張って生きなければならないのである。

しかし、地獄という概念は、あまりに宗教的で霊学的でも科学的でもないため、私としてはあまり使いたくないのが本音である。

それにしても、最近の子どもたちは、なぜ向上心に乏しくなったのだろう。

最近の子どもたちは、神を信じなくなっているので、平気で悪いことをするのかというと、そうでもない。

私が子どもの頃の記憶に比べ、かなりおとなしい印象なのである。悪いことをすると、罰を受けるので損だということは理解できるようである。彼らなりの秩序を大切に思う考え方はあるようなのだが、どこか違う感じがする。

悪いことをしても後が面倒だからしない。という考え方なのだ。誰かに憎しみをぶつけるということは良くないことだが、そういったエネルギーすら持っていないのである。

無理せずにそこそこにこなし、なんとかやっていければそれで十分といった感じさえする。決して頑張らないわけではないが、高い目標に向かって頑張るというのはダサいと考えているのだ。

数々の悔しさをばねに頑張ってきた私には、どうも理解できない。これは平和的な考え方というべきなのか?

だから霊学の話をして聞かせても、

「頑張らなければ、そこに到達できないとするなら、高い次元の霊界には、別に行きたいとは思わない」

と考えてしまうようなので、話して聞かせる意味がないのである。彼らの思考回路を変えるは容易ではないと思う。

まあ、7歳までに人格は固まり、型ができるのだと考えられているゆえ、型ができるまでの期間の教育。つまり、幼児教育が最も重要なのかもしれない。

では、どのように教育したら、子どもたちは自然と向上心が持てるようになるのだろう?

そういった点にアンテナを張り、学習活動を進めていきたいと考えている。特にシュタイナー教育の研究を進めていく意義がそこにあると私は感じている。
posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月24日

太陽よりも大宇宙の方が先に終わるかもしれない

大宇宙を風船に例えて、現在、パンパンに限界まで張りつめた状態だと仮定する。

ちょっと膨張したら、パーンと弾け散ってしまう。

太陽が寿命を迎える前に、それどころか地球の寿命を迎える前に、大宇宙が終わりとなってしまうかもしれないのだ。

イエス・キリストが輪廻転生を問題視しなかったのは、そういう視点があったからかもしれない。

もしかすれば、明日にでも大宇宙が終わりとなってしまうかもしれない。

今度生まれ変わったら… なんて呑気なことを言っていられないのだ。

私たちに与えられている修行の場は、今がラストチャンスかもしれないからだ。

そう書くと、もう頑張る意味がないなんて考えて無気力になる人がいるようである。

しかし、それは見当違いなことと言える。

大宇宙が終わったとしても、3次元世界が役目を終えただけであり、上の次元に到達できた者は命が続くのだ。

この世の修行のメインテーマとは、上の次元に到達できる者となるための修行をすることにある。

しかし、人類は自然を忘れ、神と遠い存在となってしまった。

多分、ギリシャ時代の人々は、私たちより神と親しく交流していたことだろう。

私たちは、金の価値観にまみれ、自然を失っていき、魂がどんどん退化しているのである。

幸い人間は知性が発達している存在なので、気付けた者は、魂の進化にシフトすることができるのである。

平安と調和の次元にアクセスできる魂へと成長できるのである。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 15:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月23日

一年更新の人生

人間まだまだ生きられると思うから、欲張りになるような気がする。不平不満に陥るのだと思う。

「一年後に自分は死ぬ」と考えてみると、時間の過ごし方がかなり変わってくる。

○○は間に合わない。○○も間に合わない。

と、間に合わないことだらけなのである。

しかし、間に合うこともある筈だ。

というか間に合うことこそが、神と繋がっている事柄となってくるのである。

どうせ死ぬのだからと考えると、大胆にいらないものを捨てられる。

今やるべきことが絞られてくる。

まず、今触れ合っている人間が大切になってくる。

今やっている仕事が大切になってくる。

今触れ合っている人間に何をしてあげられるかを考える。

そして、死んだ時に困らない知識を学ぶことを優先させる。

これは、命のタイムリミットが少ない人間にしかできない行為といえる。

シュタイナーの霊学を学ぶことは、かなり有意義と言えるのかもしれない。

ブルース・ゴールドバーグもお勧めである。

瞑想とは、死ぬ練習として行うのなら意義が深まっていく。

つまらないことに時間を費やすことがなくなっていく。

今までに得た経験でできることで十分。その経験でできることを考えればよい。

死後、神の世界へ行けることが本当の人生の勝利とするなら、この世での成功はたいした意味はないと思えてくるだろう。

この世のヒーローにはなれなくても、天界でのヒーローにはなることができるのである。

ワクワクするような死後の世界。一年でそこに到達するために、価値なきものを見ぬき、ことごとく捨て去っていくのである。

1年リミットなので、1年生きられれば良いわけで、1年生きられるだけの借金をすればよい。

その程度なら、お金は借りられるし、食いぱぐれることは無い筈だ。

先のことを考えすぎるから、息苦しくなったり絶望するのである。

長期スパンで描く人生と違い、大きな夢は抱けないかもしれないが、ものすごく充実した時間は得られるのは間違いない。

もし、命日である筈の日に生きていたなら、また1年人生を更新すればよい。

無駄のない充実した時間が得られているので、少なくとも進化した魂で生きられる。もしかすれば、わずかながらも生活レベルも向上しているかもしれない。

本当は30歳を過ぎたら、一年更新の人生を歩むべきだった。実につまらないことに時間を浪費してきたように思う。

ただ私の場合、パソコンを始めたのが40歳だったので、パソコンを使いこなせるようになった今こそが、一年更新の人生に入る絶好のチャンスなのかもしれない。

パソコンがあれば、高額な書物を買うことなく、知りたい知識が得られるし、歌いたい曲のカラオケを作成して歌うこともできる。

私は、人前で歌う時が自分にとって最も清らかな時間なので、平常では得られない神との交流ができるし、その幸福感を聞き手に伝えることもできるのである。

パソコンを得て、そういった幸せを得れるようになった。貧乏ではあるが、会社を経営できるのは、ワープロソフトや会計ソフトを使いこなせるようになったからだし、そのことで自由な時間も多く得られるようになったと思う。

会社員だった頃は、休日以外は自分の意志に反した時間を強いられていたわけで、これでは、魂についての学びをしたり、瞑想する時間などどこにもなかったのである。

人生を一年と限定するなら、間違った価値観に騙されることなく、本当に大切なものだけが見えてくるように思う。

それって、素晴らしいことではないだろうか。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 21:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月06日

死について

とても美しい女性。男性だけでなく、女性からも憧れた女性が、交通事故で突然亡くなったとします。

その女性は、傷ついた遺体となりました。

数日後、その女性の遺体は、火葬場で焼かれて灰になりました。

その灰は、墓地に埋葬されました。

その女性は、もうこの世にはいません。

その女性は、どこへ行ったのでしょう。


もし、別の次元へ行ったとするなら、美しかった身体も、別の次元に行ったのでしょうか。

もし、別の次元へ行ったとするなら、別の次元には、何々持っていけるのでしょうか。



5歳までは、普通に育っていた男の子が、麻酔医のミスにより、脳性麻痺となり、言語を失ってしまいました。

手術の直前までは、元気で、とても話好きだった子が、全く話ができなくなってしまいました。

その子が死に、別の次元に行くとするなら、その子は話のできない子のままでしょうか。

手術の失敗により壊れた脳とその身体は、別の次元に持っていくわけでないので、魂だけになった彼は、また話ができるようになると考えることができると思います。



そう考えたとき、どんなに美人であったとしても、イケメンであったとしても、この世で生きている短い間だけの「仮の姿」でしかないということになります。

もし、美人であることや、イケメンであることを鼻にかけ、意地悪で思いあがった醜い魂になったとするなら、その人が行く別の次元とは、いかなるところなのでしょうか。

逆に、美人でもイケメンでもない人が、他者の幸せのため、世の中の幸せのためにひたすら働いて死んだとして、その崇高な魂は、別の次元のいかなるところへ行くのでしょうか。


どんな人も必ず死にます。

死を考えるとき、私たちは、「今いかに生きるべきか」が問われていることに気づかされるように思うのです。


美しい心のの持ち主は、美しい心の持ち主にふさわしい次元に行くように思います。

醜い心の持ち主は、醜い心の持ち主にふさわしい次元に行くように思います。

あくまで「もしも〜」の仮定上の話にすぎませんが、このように考えてみると、美人な人や、お金持ちの人が、必ずしも羨ましいものではないということが、わかるのではないでしょうか。




世の中には、次の5つのパターンに生きている人を見出すことができます。

△「今だけを生きている人」
この人は、この中で最も悩みの少ない人なのかもしれませんが、進歩のない人生を歩むことでしょう。ただし、運に恵まれれば、よりよい人生になる可能性もないとはいえません。逆に運に恵まれなければ、つまらない人生となってしまうことでしょう。つまり、運次第の人生といえます。糸の切れた凧、舵の失った船に例えることができると思います。あまり深く考えない、悲壮感のない性質が救いとなっています。

×「過去を基準に、現在を受け入れない人」
この人は、心が過去に向かっているため、「今だけを生きている人」以上に、進歩のない人生を歩むことでしょう。それが良い過去なら、不平不満の多い人生。それが悪い過去なら、恨みの多い人生となることでしょう。いずれにしても暗い人生を歩むしかありません。くよくよ考えやすく、精神的病になりやすいタイプといえます。自慢できるような過去を歩んだ人、実績のある過去を歩んだ人が、報われない現実に苦しむようになると、自殺に走りやすいようです。

×「未来を基準に、現在を受け入れない人」
この生き方は、夢ばかり追い求めても、夢を叶えるための具体的努力をしないので、決して夢をかなえることはできません。資産家の家に生まれるなどして、お金に困らない人なら、ある意味幸せな人生を送られるのかもしれませんが、お金に恵まれていない人の場合は、酷い貧乏を味わうこととなるので、共に生きる人が苦しむこととなるでしょう。周りの人に恨まれる人生になりやすい性質があります。どんなに貧乏になっても改めない頑固さがあるものの能天気さが救いになっている人と、ついに行き詰って「今だけを生きている人」になってしまう人とに分かれてくるようです。これといった実績がないため、自殺に走ることはないようです。
 ※心が過去に向かおうと、未来に向かおうと、現在を受け入れないと良い方向には進めないということです。

○「過去を基準に、現在を受け入れて生きている人」
心は過去に向かっていますが、現在を受け入れているため、自分の心を修正するポイントを掴むことができます。しかし、過去の経験をプラスに変化させることができたとしても、それ以上の自分になれないため現状と魂の成長のいずれも、限界を味わうことになることでしょう。とても惜しい生き方なのです。

◎「未来を基準に、現在を受け入れて生きている人」
心が未来に向かっていますが、現在を受け入れているため、具体的に夢に向かって歩むことができます。現状が向上していくだけでなく、魂も向上することでしょう。もっとも実りある人生といえます。もし、過去にも目を向けることができるのなら、自分の心の修正もできるので、さらに豊かな人生を歩むことができることでしょう。無限の可能性をもった生き方です。


「死」を前提に、いかに生きるべきか考えてみましょう。


上記は、あくまで問題提起の文章にすぎませんが、みなさんにじっくり考えて欲しいと思います。












posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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