「あきらめないこと」
に尽きるように思います。
私の場合、声帯のコンディションに恵まれている時とそうでない時とが半々ぐらいなので、
本番の半分は、声帯の不調と戦って歌っているわけです。
ところが不思議なもので、不調の時に限って、二度と歌えないような奇跡的な演奏ができたりするのです。
私は本番に強い方ですが、演奏の半分は苦しみながら、戦いながら歌っていたように思います。
そこで私が貫いてきたことは、
「あきらめないこと」
です。
今日はイースターだったので、ミサの後で、イースター祝賀会が催され、余興で私が歌うこととなりました。
それが、声帯が合わさらない感じで声がかすれて全く出ないのです。これまでで一番のスランプだったかもしれません。
人と話しても、声が小さくて聞こえないと言われる始末。でも、そんなに動揺はしませんでした。
とにかく本番は、あきらめずに200%の力で歌いました。
電気ピアノの鍵盤が不具合を起こしているとのことで、伴奏者の伴奏も、練習の時のテンポよりかなり遅かったため、カンニング・ブレスを多くしないと歌えない状態になりました。
伴奏者にとっても私にとっても、練習でのクオリティーに比べて、かなり不本意な演奏とはなりましたが、私はそんなに落ち込んではいません。
それは、
今日もあきらめずに歌えたからです。
今日の酷いコンディションを考えると、今後、今日より悪い演奏をすることはないと思いました。
今日のことを考えれば、どんな酷いコンディションでもキャンセルすることなくチャレンジできると思うからです。
それでも、今日の演奏で感動してくださったお客様が何人かいました。
これが本番演奏の魅力でもあります。
リヒャルト・シュトラウス 「万霊節」「献呈」
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
さて、「あきらめないこと」とは、私たちがこの世を生きるテーマともいえるのではないかと思うのです。
人が死んだ時、まずは恨み言を捨て去らなければなりません。でないと、浮遊霊や地縛霊になってしまうからです。
それだけでなく、神の世界へ到達するには、自分がこれまでに血を流すような思いをして得た知識や悟りをも捨て去らなければなりません。
そう話すと、「捨てる位なら頑張る必要などないのでは」と言う人がいます。
でも、それは違います。捨て去った後の魂の輝きが重要だからです。
あきらめないで頑張った人の魂は輝いていますが、あきらめてしまった人の魂は輝きません。
そして、最も大きなあきらめは自殺なのだと思います。
人は魂を磨くために、この世に存在するのだと思います。
野球やサッカーの試合を見ていても、諦めないプレーは、見る者に感動を与えてくれます。
諦めないプレーは、時に素晴らしい奇跡を起こすからです。先日行われたWBCの日本対台湾戦のように、勝ち負けを超えた素晴らしい試合に出会うと本当に興奮します。
選手たちは、奇跡の体験を重ねながら、たくましい精神が養われていくのだと思います。
私はスポーツ選手ではありませんが、スポーツ選手のように「あきらめないこと」を実践する者でありたいです。
そして、出会う人たちと、奇跡体験を分かち合いたいと思います。