2015年02月17日

「教育は平和活動」 シュタイナー教育の重要性について

例えば、イエス・キリストは、宗教の上では立派な神です。優れた信仰を持つ者によって、数々の奇跡を起こしているからです。

しかし、科学の上では立派な神には成り得ていません。人類は、まだまだ目に見えない世界の解明がわずかしか得られていないからです。

つまり、科学の上でのイエス・キリストでは、人々の心を支える力には成り得ないわけです。まだまだ信仰による奇跡に頼らなくては、絶望に繋がってしまいやすいことが、この世には多く存在しているからです。このことは、仏陀にも、他の名前の神様にもいえる現実です。

そう言う意味でも、信仰を持つことはとても重要なことではありますが、同時に私たちは科学の目を養い、人類が科学の面からも優れた神を見いだしていけることに積極的に参加していくことが重要なのだと思うのです。21世紀は、そういう世紀になっていくと私は見ています。

「自分は科学者ではないから関係ない」などとは考えてはいけません。あなたの小さな発見が、周りの人に影響を及ぼし、大きな発見に繋がる良い土壌作りに間違いなく役立っていくと考えられるからです。

信仰による奇跡と、科学による奇跡がイコールに近づいていくことにより、宗教を超えた〈真実の神〉が燦然と輝いていくことになるでしょう。そこで人類は、どの神が正しいかなどという議論をすることがなくなります。宗教を楯とした民族紛争も意味がなくなることでしょう。

シュタイナーの挑戦は、そこにあります。
※ ルドルフ・シュタイナー Rudolf Steiner、1861.2.27 - 1925.3.30 オーストリア帝国、現在のクロアチア出身の神秘思想家で、アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。

彼が当時、この世に存在するあらゆる宗教を研究し、その上で科学的なエッセンスを多く取り得ているのは信仰と科学の融合を目的としているからです。彼の神秘的な思想は、ある種のファンタジーと言えるものなのかもしれません。その多くは時間の経過とともに古くなり、正しい知識に切り替えていかなくてはならないわけですが、彼のファンタ―ジーには自由があり、その自由がなくては真理を見いだすことは決してできないのです。

つまり、シュタイナーの教えにかぶれてしまい頭ごなしに正しいと考えるのではなく、シュタイナーのように自由な発想によって、その素晴らしい世界を人類に示していこうと考えるべきなのです。

いかにシュタイナーの教えだからと言って、自分にとって違和感を感じる考え方を、無理して取り入れなくてはならないということはありません。違和感を感じることについては、あくまで〈保留〉とし、自分にとって自然に受け入れられる考え方を優先して進めて行った方が、むしろ真理への発見に繋がっていくように思えるからです。自由には批判も含まれます。頭ごなしの批判はいけませんが、逆方向から考える発想があっても良いと思うのです。

大切なことは、間違っていることは訂正し、新しく見いだされたことは付け加えることができるかどうかということです。

宗教の教えは、神の教えと考えているゆえに絶対的であり、それゆえ間違いがあっても訂正できませんし、新しく見いだされたことがあっても付け加えることもできません。このような知識を「絶対的知識」といいます。

しかし、シュタイナーの教えは、間違っていることは訂正し、新しく見いだされたことは付け加えることができる「相対的知識」なので、真理を見出していくための無限の可能性を秘めています。

子どもたちには、中学に入るまでは、残念ながら、このことをストレートに伝えることはできません。親御さんには、塾の通信プリントの記事の中で、伝えることは可能かもしれませんが、あくまで興味を持っている方が対象となります。

子どもたちが中学に入る頃には、こういったことが理解できる学力と、センスを身に着けさせられるよう教育を進めています。そのために当塾では、子どもたちの行動を観察し、「7年周期(7年ごとの人間の発達の段階指針)」、「四つの気質(憂鬱質、粘液質、多血質、胆汁質)」と四層構造(肉体、エーテル体、アストラル体、自我)による分析を基本とし、「オイリュトミー(運動を主体とする芸術的アプローチ)」や「フォルメン(有機的な動きの形状を把握するための芸術的アプローチ)」、「エポックノート(主に職業観の育成)」などを導入しているのです。

ではなぜ、上記で説明したような「相対的知識」が必要なのでしょう。

そこをしっかりお伝えしないと、不安になってしまう親御さんも出てきて当然でしょう。超越的内容が多いゆえ、カルトのようなものと受け止められてしまっては意味がありません。

それは、私たちが「いつも安心して生きていく」ためです。

不安は諸悪の元凶といえます。

神は、私たちのことを決して見捨てることはありません。どんなに間違ったことをしたとしても何度でも何度でも許してくださいます。神はこの世ではなく、あの世(霊界)の支配者なので、その御力を感じるためには、奇跡体験が重要となります。その奇跡体験を得るためには数々の試練を神の支えによって乗り越える必要があるのです。

逆に悪魔は、この世の支配者ゆえ物質的な目に見える力を持っています。この世の権力や富は悪魔が作り出したものでもあります。しかし悪魔は、決して間違いを許してはくれないので、しまいには人間を見捨ててしまうのです。調子のいい時は、たいへん頼れる存在ですが、調子を失い始めると大きな苦痛を与える恐ろしい存在に変貌するのです。

神とは「善」そのものであり、「安心」そのもののでもあります。

悪魔とは「悪」そのものであり、「不安」そのものでもあります。

そのようにきっちり二つに分けて考えると二元論的(善か悪か)になってしまいあまり良くないのですが、私は悪魔にもある意味役割があって、人はだれもが悪魔との関わりを避けては生きていけません。まず、お金が無くては生活していくことは不可能です。だからこそ「神の限りなき許し」が必要になると考えています。つまり、トータルに一元的に(何事もポジティブに)考えるべき問題だと思うのです。

ただ、神に生きている人は、どんな試練に出会っても、神と共にいるので「安心」しています。

そこが戦場であったとしても、神に生きている人は、「安心」して生きていけることでしょう。

人が信じられない人は、お金が無くなると、周りの人が誰も助けてくれないゆえ、「不安」に陥り、人をだますことを考えたり、盗みを考えたり、自暴自棄に陥って憎しみを誰かに向けるなど、犯罪に走りやすくなります。

何度裏切られようと人を恨まない人は、お金が無くなっても、普段、周りの人を愛しているゆえ、周りの人が助けてくれます。つまり、「何があっても、だいじょうぶ」なのです。

つまり、神様が何度でも何度でも許すお方ゆえ、私たちも何度でも何度でも許す者にならなくてはいけないわけです。それは、神が人間に求める願いと言えるのかもしれません。

神と共に生きる「安心」が得られると、人生にいなかる試練が待ち構えていたとしても、「何があっても、だいじょうぶ」で乗り切ることができるのです。

私は、このセンスを子どもたちに身に着けさせたいと考えているのです。こういう子どもたちが増えていくのなら、世界は必ず平和に向かっていくことでしょう。

私が「教育は平和活動(悩みながら、苦しみながら、悲しみながらも、ひたすらに愛に生き、ひたすらに許すこと)」というスローガンを掲げているのはそこにあるのです。




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posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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