かなり無理をしていたからもしれない。
とにかく、盛岡の冬は半端じゃなかった。
その悩みから解放されただけでも精神的にかなり楽になった。
獄中の強制労働ではないのだが、娑婆に出た気分である。
多分、書道を教えている人の中で、私が一番貧乏なのではないかと思う。
コンクールで子どもたちに良い賞を取らせているが、教える本人は自分の作品を出品するお金すら無いのだ。
多分、シュタイナー教育を研究している人の中で、私が一番貧乏ではないかと思う。
事実、シュタイナーの本は全て中古本である。
もちろん、ドイツに勉強に行くことなど全くの無理。
それでも、絶対に諦めない。
自分にはできないとは考えない。
基本的な生活のやりくりに困難を感じつつも、綱渡りのような経済状態であってもスリルを楽しんでさえいる。
超貧乏な筈だが、そんなに貧乏を感じていない。
なぜなら、心の中にすでに成功している自分が描けているからだ。
両親の同時介護に、幼少の頃のトラウマによる根の深い妻の自信喪失から立ち直らせるために、とことん付き合わなくてもいけなかった。
多分、それを無視して進んでいたなら、今頃成功者になっていたかもしれない。
しかし、そこで掴んだ成功よりも、遠回りして掴む成功の方が価値が大きいような気がする。
さて、お金が無いから何もできないという人がいる。
本当にそうだろうか?
お金が無くたって、勉強は出来るはず。
学歴がなくたって、今始めればいいだけの話。
10年で結果は出ないかもしれないけど、20年あればきっと何か結果が出せる筈。
20年もやれば、しっかりした目標を持っている分だけ、一流高校の生徒たちより頭が良くなっている筈。
どうしても克服できない苦手な分野は、得意な人を味方に付ければいいだけの話。
自分の志を支持してくれる仲間を増やせばいいだけの話。
だから、自分はこんなもんって小さくなっていることなんてない。
人生をそのような冒険と考えれば、きっと楽しくなってくる筈。
何がなんでも絶対に諦めてはいけない。
病気や怪我で何かが出来なくなったとしても、別に出来ることがきっとある。
その克服のために膨大な時間が掛かるとしても、チャレンジするだけの値打ちがあるのだ。
この冒険に失敗などありえない。
なぜなら、人生の冒険の終着点には、栄光の人生へのスタート地点が待っているのだから。
とにかく冒険家として、その生涯を終えることに意義があるのだ。
次の自分は、その冒険がもっと板についている筈。
その次の自分は、もっともっと素晴らしい冒険家になっているだろう。
時には、そのいくつもの冒険を振り返る魂の休息の時もあるだろう。
その魂の休息の時に、自分をしっかりと確かめることができるのだ。
そんな、とてつもなく大きなステージを私たちは生きているのである。
人は死んでも、本当は死んではいないのである。
そうであるなら、いっそのこと冒険家になった方が得ではないか。
気づいた今こそ、人は冒険家になれる。
そして、気づいた今から、たとえ残された時間がわずかだとしても、冒険家として死ぬことは十分可能なのである。
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