「あなたがたは地上に富を積んではいけない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
マタイによる福音書 5章19節〜23節 より
(日本聖書教会 『聖書 新共同訳』から抜粋)
私は、ここの聖句を「あの世」の天に富を積むことと考えていました。
相手のために思って苦労したのに、仇で返ってきたりした際などに、「今日は、天に宝を積んだ」などと考えていました。
しかし、正しくは、「あの世」ではなくて、現在生きている「私の心」に富を積むと解釈すべきなのだそうです。
信仰とはいえ、あの世に心が行ってしまい、現実が無視されていてはいけないのです。
そのことを示しているのが、「体のともし火は目である…」という部分だと思うのです。
どんなに、敬虔な信仰者として生きているといっても、罪人を白い目で見たり裁いたりして、目が澄んでいなくて、触れ合う人に暗い思いを与えるようでは意味がありません。
目が澄んだ人になること。全身から光を放っている人になること。
そういう人は、もちろん本人も幸福に満たされているだろうし、その人と共に生きる人も幸福になっていくのだと思います。
心を静かに、静かにする時間を持ち、神を近くに感じられるようにすること。
自分の心を貧しくして、「迷っている人」「困っている人」に目を向けられること。
そして、いつも神の愛にとどまっていること。
「神を見せてください」と言われても、見せることは出来ないけれど、
「あなたの人物を見せてください」
というのが、神の望んでいることなのかもしれません。
2008年06月20日
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