2008年09月13日

罪と愛

人と人との信頼の絆を大切にすることこそが、「人間として」最も大切なことのような気がします。

誰もが、そば屋さんに入って、毒が入っているかどうか心配する人などいないことでしょう。

しかし、私の住む街で実際にあったことなのですが、スーパーのパンに縫い針を入れた人がいました。よほど世の中に嫌気をさしたのでしょうか?

多くの人が、不安のため、パンを買うことができなくなりました。

このように、人と人との信頼を失わせることが罪の原点といえることだと思うのです。

しかし、『聖書』によると、そこから先があるのです。

聖書の神が招いているのは、単なる善人ではないようです。

むしろ、人と人との信頼を失わせた罪びとたちを歓迎しているのです。

その理由が、

「多く許された者が、多く愛することができる」

からなのだそうです。

逆に言うと、

罪を犯さない人生を歩んだ人は、許されたという実感も少ないゆえ、多く愛する(感謝する)ことができないということになります。

多くの人は、決まりごとだから掟(社会のルールに置き換えても構わないと思います)を守るという考え方ですが、許された罪人なら、神への感謝の気持ちを込めて掟を守ることでしょう。

実感のこもった感謝。実感のこもった愛。

大麻の尿検査で陽性反応が出て日本相撲協会を解雇された3人のロシア人力士。相撲協会が彼らを許すことは絶対に無いとのこと。罪は罪と教えることは、筋の通ったことではあります。

ただ、何らかの形で、彼らが罪を許されて、その許しに対し実感の伴う感謝の気持ちが芽生えたとするなら、彼らは「人間として」大きく成長できるように思うのです。

これは、仏教で言う「悟りへの道」と一致した真理であるのだと信じています。「和とは一様にあらず、他者との違いを認識した上に成り立つもの」ゆえ、罪を犯した人の言い分も十分に聞く価値はあるのです。

人間同士で「非難しあう社会」ではなく、「人を育てる社会」であって欲しいと私は思います。

罪人が回心することほど素晴らしい感動は無いように私は思います。

クリスチャンを激しく迫害する立場から、回心して初代教会の礎を築く宣教活動を行った聖パウロのように、テロリストのリーダーも回心してくれないかな…


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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