2009年02月24日

(11)恥ずかしいこと

ちょっと筆を休めて考えて見ました。

ここまで、私が書き進めてきた文章は、恥ずかしいものではないだろうか。

文章が幼稚だとか、そういうものではなくて、その多くが行いとして身に付いているものであるかとなると、まだできていない状態にあると言えるからです。

現在までに実際に行ってきた部分においての文章ならば、少しは価値が認められるとしても、そうでない多くの部分においては、価値が無いと言われたとしても反論できません。

理想論を語ることは、大した難しいことではないと思うのです。誰でも、多くの本を読み、知識を深めるなら、それなりのことを書くことは可能なのですから。

私の場合は、かなりの劣等感が強く、そのことが、こういった文章を書かせている原動力になっているように思います。それは、自分の劣等感と言うより、親から受け継いだ劣等感で、私が歩んできたこれまでの人生は、そういった劣等感との壮絶なる闘いでもありました。

この文章は、私にとって、これまで歩んできた人生を整理するために。また、これから歩んでいく人生の方向性について整理する意味で書いてきたものです。私の中では「ベスト」と言える内容ではあります。

しかし、何より大切なことは、行いが伴うことにあります。

仮に内容が優れていたとしても、文章だけでは、何の値打ちもありません。

筆を休めて考えてみて、そのことに、ふと気が付くことができました。

この文章が、価値のあるものになるか。そうでないものなのかは、今後の私の行いにかかっているのです。

私の文章の中には、自分の言葉だけではなく、行いの伴う、心より尊敬する人物の言葉もちりばめられています。

ですから、仮にそういう部分に感銘してくださった方がいたとしましょう。読まれた方も、書いた私と全く同じで、もし語るだけの知識のままなら、やはり価値に乏しいものであると言えるのです。

現在の私は、経済的にも、また健康的にも苦しい状況にあります。人生を諦めたくなるような状況といっても過言ではありません。

しかし、だからこそ神と共に歩む証ができるのではないかと考えて、むしろ希望を持っています。

これからは、これまでのように単に理想を書くようなことはしないつもりです。もし、書くとしたなら、行いによる証を得てからにしたいと思うのです。行わずに文章を書くという恥ずかしいことは、これを最後に、やめにしようと思います。

私は、まだまだ語る資格はありません。大人に語るときと、子どもに語るときとは、かなりの違いを感じます。子どもには、大人に語るときのような知識は必要ありませんが、嘘の無い真実でしか伝えることができません。だから、子どもと語り合うことをこれからは大切にしていきたいと感じています。

まずは、子どもの手本となる大人になりたいです。

この文章を読んでくださった方とのご縁を大切にしたいです。

共に、優れた行いの伴う人間へと成長していきましょう。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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