2009年02月24日

(10)光の道を歩んでいこう

洗礼を受けないと救われないのですか。

と、ある人に質問されたことがあります。

私は、他の宗教の人でも、尊敬している人、手本にしている人がたくさんいます。ですから、クリスチャンだけが救われるということは決してありません。と、答えています。

洗礼とは、「聖霊による導きを受ける者」になることを意味しますが、同時に、「キリストに派遣された者」となることも意味しています。

つまり、個人的なレベルの信仰から、洗礼を受けることにより、教会を中心とした共同体に生きる信仰へと人生のステージを上げることを意味しています。

私たちの教会では、どこかで災害が起こると、政治家たちよりも、いち早く現地に行って救済のボランテイィア活動をしたり食料や必要な物資を送っています。

最近の不況のあおりを受けて激増しつつある路上生活者に対しても、炊き出しをするなどの援助を積極的に行っているグループもあります。

だれもが、そういうボランティア活動ができるわけでないので、多くのクリスチャンは資金面でボランティア活動を援助しています。また、心の込められた「祈り合い」という支援を送ることも大切にしています。

もし、キリストがこの世にいたとして、間違いなくやっただろうことを行うのがクリスチャンの役目といえます。神父様(司祭)は、キリストの代理、私たちクリスチャンは、その弟子達の代理なのです。

それだけに、教会には問題を抱えている人が多く集まります。

健常者ばかりが集まっているわけではありません。精神的な障害と闘っている人も多く集まります。また、経済的に恵まれている人たちばかりでもありません。

教会に行ったら、かえって心を傷つけられたと言う人も少なくないようです。

でも、理解して欲しいのです。

どんなに教会の印象を悪くする人がいたとしても、その人に、来ないでくださいと言うわけにはいかないのです。


教会は、信者らしくない人をどれだけ支えられるか。


これこそ神から託された重要な課題なのだと思います。

また、今は信じる気持ちが弱いとしても、将来のクリスチャンとなるべき人を、どれだけ支えられるか、ということについても、教会の重要な課題と受け止めています。

信者同士で、求道者と共に、良い影響を与え合って、お互いに成長していく、これこそが教会のあるべき姿なのだと思います。


さて、洗礼について話を戻します。

私が今まで出会った人の中には、どんなに悪い事をしても、逆に祝福されているかのように成功に変えてしまう能力を持っている人がいました。

私の場合は、少しでも悪い事をすると、何らかの形で罰せられてしまいます。挫かれてしまいます。

その人は許されても、私は許されない。

自分は損をしているのではないかとも考えたこともありました。

しかし、どうやら、その人とは仕えている主人が違うような気がしてきました。

なぜなら、私が良い事をすると、とても祝福を受けるのですが、逆に、その人たちは、良い事では上手くいかないのです。その点では、立場が逆転します。

ある時、こういったことこそ洗礼の恵みではないかと、ふと気が付きました。

洗礼を受けた証として、悪い道を歩もうとしても、神によって、ことごとく挫かれるのです。それは、まるで罰を受けているかのようでもあります。

これは呪いではなく、まさに恵み。祝福なのです。

洗礼を受けた者が光の道を歩めるようにという神の導きなのです。


また、『聖書』を読んではっきりしたことがあります。ある意味、すっきりしたことでもあります。

それは、天の支配者は神であっても、地(この世)の支配者は、サタン(悪魔)であるということです(『聖書』より ルカによる福音書 4章5節〜8節、ヨハネによる福音書 8章23節・18章36節、ヨハネの手紙 一 5章19節)。

悪の側の人が成功しているということは、そういうことなのかと思うと、別にうらやましく思わなくなりました。また、彼らは成功しているといっても、欲望には敏感でも、幸せを幸せと感じる心を激しく失っているのですから。

悪とは、私たちを鍛えてくれる存在なのかもしれません。ですから、悪を根絶やしにする必要はないようです。悪を滅ぼすことのできるのは、神のみなのですから。

では、お互いに声掛け合って、勇気を持って、悪を遠ざけていきましょう。悪には関わらないようにしていきましょう。

だからといって、悪人と呼ばれている人に対し、見下げたりしてはいけません。私たちも悪人であったのに、キリストの十字架の贖い(罪の身代わり)によって救われたのですから。そして、誰もが回心すれば、私たちの兄弟姉妹なのですから。


私の無二の親友が突然、自動車事故で亡くなって、それから10年の時が過ぎました。その頃、『聖書』について語り合えた友人は彼だけでした。私より、ずっと年下だったのに…

私は、乱れた心の方向性を修正するために、彼のことを思い、自分も自動車事故で一旦死んだ事にして、生き返って新しい人生を歩むイメージを描くことがあります。これが、私にとって一番の立ち直りの秘訣なのかもしれません。


私の夢について少し語ってみたいと思います。

私は、少し前に、精神薄弱者更正施設の職員として働いていましたが、長続きしませんでした。私の才能を最も生かせる職業になる筈でした。

長続きしなかった理由は、中学時代のイジメにありました。園では、園生を犯罪に走らせないために、へとへとになるまで運動と労働をさせていました。職員たちは、腕組みをし、時にはイジメに近い態度で園生を管理するのですが、私にはそれができませんでした。

やめろと言われても、園生と一緒に激しい運動をし、園生と一緒に激しい労働をした結果、過労で倒れてしまいました。

私は、中学時代は陸上競技部でしたから、激しいトレーニングの体験とノウハウがあります。だから、それが身体を鍛えるものなら納得ができた筈です。しかし、それは単に疲れさせ、弱らせることが目的だったので、イジメに感じられてならなかったのです。宿直の際には、園生の訴えを真面目に聞くようにしました。私の日には、怪我の治療にやって来る園生がとても多くなり大変な忙しさでした。

私を引き抜いてくれて、チャンスを与えてくださった園長さんには感謝しつつも、福祉関連の資格が無いという理由だけで、私を追い出そうと団結した職員組合の方々には、かなり失望させられました。

そういったこともあり、中学時代にイジメられたことがフラッシュバックされて苦しむようになっていきました。退職する頃には、ほぼ毎日、フラッシュバックに苦しんでいました。

疲れさせる方法の他に犯罪を防止する方法がないものか疑問を感じてなりませんでした。私は、私の得意分野ともいえるアイディア教育で園生たちに自信を付けさせようと、そのことばかり考えていました。

私は、同施設の職員になる以前のコンクリート2次製品の肉体労働者時代に、同施設からの実習生への職業実習の教官を兼任し、アイディア教育により約3年間に受け持った園生16名全員を就職内定へと導きいた実績があります。そこで得た確信が、残念ながら職員としては実を結ぶことはありませんでした。

私の担当した園生の多くは、不幸にして基本となる教育が身についていないだけで、決して頭が悪いというわけではなく、親がしっかりしていれば、もっと人間的な人生を歩めた筈だと思えてなりませんでした。また、家庭に恵まれずに教育的環境の整っていない彼らへの手当てが不十分なために、彼らを落ちこぼれさせた義務教育のあり方にも問題を感じています。

私は、将来、そういった子供たちの親の不足を補い(親の代役はできませんが…)、また義務教育において落ちこぼれてしまった彼らに良い教育を身に付けさせる仕事をしたい、恵まれない子供たちを守りたい、という夢があります。




    I Have a Dream(私には夢がある)

                      キング牧師の言葉より


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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