2009年02月24日

(9)許すこと

私には、許せない人が何人かいます。

子供の頃に私に瀕死の重傷を負わせられた親子には謝罪の言葉をもらっていないし、中学の時、担任がらみの酷いいじめを受けた時のいじめグループの一人の子の父親が同じ教会に通っていて、その人に威張られていることがどうも許せないし…

後者の件は、前者のことでの感情転移ともいえるものなのかもしれません。逃げてばかりで全く誠意を示さなかったその父親が、新聞に教育に関する記事を権威的に書いていたことに激しい矛盾を感じたことと、後者の父親が学者で、行いより権威的な知識ばかりが目立って感じられることに対し、どうもオーバーラップしてしまうようです。いわゆる、トラウマなのかもしれません。

人生40年以上も生きていると、許せないことが溜まりに溜まっている感じがします。このまま溜まり続けていくとしたら大変なことです。

そこで思うのですが、

「和解」することと、「許す」こととは、一緒に考えてはいけないと思うのです。

多くの場合、許すとは、相手にその過失の重さを認めさせ、侘びさせ、和解してこそ、許すことができるのではないでしょうか。

しかし、私がチャレンジしようとしている許すこととは、和解することがなくても、相手が何も変わらなくても、相手の過失を今後問わないと心に誓うことです。

そうすることで、自分の中で今にも爆発しそうな、心の重苦しく暗い念を捨て去るのです。

そういう心の重苦しく暗い念を捨て去ると、人生が明るく前向きなものになっていくように思うのです。

相手は、一向に変わらないけど、それでも私は、許すことで明るい未来を切り開いていこうと思います。



ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(『聖書』より ルカによる福音書 23章32節〜34節)


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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