2009年02月24日

(8)神はいる

神の存在を感じられるという人がいたとしても、実際に神を見たという人となると、まずいないことでしょう。

もし神が見えたとしたら、これは大変なことだからです。

神が見えるとなると、私たちには選択の自由がなくなってしまいます。ひたすら神を恐れて従うしかありません。何といっても天地を創造した全知全能のお方なのですから。

しかし、そういった一方的な関係となると、そこには愛は存在しません。

神は、隠れていらっしゃるゆえに、私たちには選択の自由があるのです。

「神などいない」と言いえる自由もあるのです。

神に背くことのできる自由もあるのです。

そういう自由があるがゆえに、神を「自分の意思と責任で」愛することができるのです。


もし愛する人に、「どうして僕が好きなの」とたずねたとしましょう。

「みんながカッコイイと噂しているから」

という答えが返ってきたとするなら、そこには真心が感じられません。彼女自身の考えで言っている訳ではないからです。そうなると、自分が病気になるか身体障害者になっても、付いてきてくれるのか不安になってしまいます。これでは、彼女との愛を信じることはできません。

「親が偉い人で金持ちだから」

という答えでも、素直に嬉しいとは言えません。やはり、真心が感じられないからです。私を評価した答えではなく、単にリッチな生活がしたいだけとも受け止められます。親の会社が倒産するなどして、貧乏になったとしたら、付いてきてくれるのか不安になってしまいます。これでは、彼女との愛を信じることはできません。

やはり、愛する人からは、「その人の意思で、その人の責任で」愛されているという実感を得たとき、本当の幸福感が得られるのではないでしょうか。

これは、神とて同じです。

『聖書』によると、神は天地創造の一番クライマックスで、神ご自身にかたどって人間を創造したと書いてあります(「創世記」)。その際、人間を何でも言うことの聞くロボットのような存在にはしませんでした。人間は、他の動物たちのように、本能に支配されるところの顕著な存在ではありません。そこには、神の特別な思いが込められているのです。

そればかりか神は、あえて私たち人間に「神に背くことのできる自由」をお与えになったのです。

私たちは、心が神に向いていない限り、神の存在を感じることができないので、神に背いていられるのです。

そして、「神に背くことのできるほどの自由」を与えられたからこそ、わたしたち人間は、「自分の意思で、自分の責任で」神を愛することができるのだと思うのです。

私たちが恋人に「主体性のある愛」「真心の愛」を望んでいるように、神も私たち人間に「主体性のある愛」「真心の愛」を望んでおられるのです。

「教祖の言うことには絶対服従であり、背くことは許されないことだから、自分の意思を噛み殺してでも、教祖の決められた方法で神を愛する」では、神が私たちに「神に背くことのできるほどの自由」を与えた意味がなくなってしまいます。

また、「○○さんが良い人だから、私も同じ神様を信じます」では、真心がなさ過ぎます。○○さんと仲が悪くなったとするなら、いとも簡単に神への愛をも捨ててしまうことになるからです。

ですから、どうして神が見えないのか、人はなぜ恋をするのか。という理由がそこにあると確信するところです。

恋をすることは喜びでもありますが、大きな苦しみも伴います。まして、それが失恋なら、心に大きな痛手をこうむることでしょう。しかし、どんなに成就しなかったとしても、そのことで神の存在に気づけたなら、恋をした値打ちは十分にあるのです。恋が成就しても、神の存在に気づけなかった愚か者より、遥かにましなのです。

それゆえ、「人間として慎むべき罪」とは、隣人に対し、性的なことで情けないという思いを抱かせることではないかと思うのです。


「お前、まだ童貞だって」

「情けないな」


「あなた、まだ処女だって」

「それって、マジ、恥ずかしくない」


ある人は、「情けない」と思われたくないので、焦って、風俗通いをしたのだそうです。そのことで、その後の人生が茨の道となりました。

ある人は、「情けない」と思われたくないので、焦って、結婚したのだそうです。そのことで、その後の人生が茨の道となりました。

またある人は、容姿や才能に恵まれず、そのことで全く女性にモテず、女性に憧れつつも女性を知ることのできない辛さに苦しんでいました。職場の人たちは、そういった彼を茶化し、笑い者にしていました。彼は、女性を知りたい思いが限界に達してしまい、ついに女性を強姦する行為に走りました。そのことで激しく理性を失い殺人までも犯してしまったのでした。


不幸の根本原因とは、そういったところにあるのだと思います。


残念ながら、

焦って異性を知ることでは、何も解決しません。

焦って結婚することでも、何も解決しません。

もちろん、相手の女性の意思を無視して、強姦して自分の思いを遂げたとしても、何も解決しません。


ただ、そうせずにはいられない心の状態を作り出させた周りの人間の思いやりのなさにも問題があるように思います。

また性の欲望とは、知ることで決して満たされるものではありません。むしろ、知ると知るほど好奇心が深まっていく傾向があるため、知らず知らずのうちに破滅的な方向性へと向かっていくのです。本当の幸せからは、どんどん離れていってしまうのです。

親や教師は、そういった性の欲望の性質について、青少年たちとしっかり向き合って教えていく必要があるのだと思います。


罪人を排除するだけでは、幸せな社会は実現しません。


そういったことより、もっと積極的に隣人を愛していきましょう。もっと真心を持って隣人と接していきましょう。

その前に、自分の親を、そして家族を愛することから始めましょう。そういった基本の上に、良い人間関係が、そして幸せが築かれていくものだからです。


恋をすることは、神聖な思いです。その思いは、大切にされるべきです。何といっても、見えない神を見出すことなのですから。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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