2009年02月24日

(4)かぎっ子

何年か前の雑誌の記事ではありますが、それは我が国において、かぎっ子が増えていることについて特集したものでした。かぎっ子の増加により、十代の子供たちの犯罪率が驚くべき増加を示す一方、児童の平均学力が明らかに低下しているとのことでした。

かぎっ子とは、親が共働きだったり、親の離婚により片親から切り離さるなどの理由から、学校から帰ると家には誰もおらず、自分で鍵を開けて家に入る子供のことです。

欧米に比べ、日本の多くの子供たちは、神という概念を持っていません。それゆえ、親の目が届かないところでは、犯罪に走りやすい傾向があります。

欧米の子供たちは、家庭や学校、そして毎週日曜日に、家族全員で通う教会においてなど、宗教教育を受ける機会が、日本に比べて、かなり頻繁に行われているようです。

「神の目」を感じることのできる欧米人の子どもたちは、親の目が届かないところでも、「神の目」が機能して犯罪を食い止める力となっているようです。

たとえ、人の目を逃れることができたとしても、髪の毛までも一本残らず数えられている(『聖書』より マタイによる福音書 10章30節)私たち以上に私たちをご存知な神の目を逃れることはできないといった教育がなされているゆえに、かぎっ子たちへの心のブレーキが機能するというわけです。

また、「神の目」という視点を持たない人は、「生まれっ放しの人生(場当たり的教育が土台となった不安定な良心による生き方)」を歩むことになりかねません。老人になると、本来なら尊敬されるべき筈なのに、相手の立場でものが考えられないため、心のブレーキが機能せずに触れ合う人をことごとく傷つけるので嫌われてしまい、その結果、本人が望んでもいない辛く孤独な老後を生きなくてはならなくなるのです。

こうなると、決して子供だけの問題ではないような気がしてなりません。


つい先日、テレビの生放送の報道番組で、御年90歳になられても頭脳明晰でユーモアのセンスにも溢れる中曽根康弘元総理が、政界へのご意見番として、混迷し続ける麻生内閣への提言について、冷静な口調で語っておられました。

中曽根元総理と言うと、いささかアメリカ寄りでタカ派のイメージの強い方でしたが、戦後日本政治最大の戦犯などという悪評をされるほどの大物ともいえる人物です。国民に向けて、わかりやすい言葉でフリップボードを用いたテレビ演説など、その当時、型破りで鮮烈な印象を受けたことを思い出されます。その方のコメントから、印象深い一節を次に紹介します。


「アメリカの民主主義は、神を信じる者による民主主義だが、日本の民主主義は、宗教無き、神なき民主主義となっている。何より日本の政治家は、確固たる信念と宗教心を持たなくてはいけないと思う。」


超エリートで豪腕というイメージの強かった氏の口から、神とか宗教と言う言葉が出てきたのは、かなり意外ではありました。総理経験のある氏が、グローバルな視点で考えて、むしろ「無信仰の自由」を生きている日本人のほうがずれているということを指摘したかったように思うのです。

ただ、総理をしていた頃の氏より、政界を引退なされた後の現在の氏の方が魅力的に感じられてなりませんでした。人間、老人になろうと、進化し続ける生き物なようです。


さて、宗教教育の問題に話を戻します。

我が国においては、義務教育や学校教育から宗教がまったく締め出されている状態にあります。中央教育審議会の「幼児期からの心の教育のあり方」に関する小委員会が最近出した中間報告を見ても、道徳教育の必要は指摘されても、宗教教育についてはまったく言及されていません。

このことは、日本が敗戦による、天皇崇拝を利用した政治的宗教への反省から来ているとも考えられがちですが、実はそれ以前の明治維新の頃に、それまで培われてきた日本の仏教を中心とする精神史の伝統における深刻な切断があったことに大きな問題があったと指摘する学者もいます。

国家が行う教育の場から宗教が完全に欠落しているのは、はっきりと宗教否定の立場に立つ旧共産圏を除けば、世界中でおそらく日本だけだと思います。これは、きわめて異常なことであるのです。

また、日本においては、新興宗教の数が非常に多いのも目立った点であると思います。

その新興宗教とは、その多くのものが、高く掲げられている宗教復興とは実際には程遠いものがあるのです。それは、宗教の擬似的な形態すぎないものであり、一般に相対的な価値にすぎないものを絶対化、神聖化する傾向が強く、結局は信徒を洗脳する形で現世利益の実現に利用されており、そのいくつかは社会問題ともなる犯罪的活動へと発展し、日本人の宗教心をますます損なわせる方向性を生んできました。

真の宗教の役割とは、仏教やキリスト教といった「世界宗教」の開祖たちが教えたように、死すべき身である人間の生はいったい何のためかという問いに対する答えである筈なのに、これらの擬似宗教には、この問いと答えが見られないのです。

擬似宗教とは、真理を求めて自分の心の内にじっくり追及していくといったものではなく、教祖や宗教本部によって書かれた印刷物をただ丸暗記して、新しい信者を獲得するための伝道活動に駆り立てられているのが現状なようです。

これは、幼児期に母子密着型で育ってきた、依存心が強く、個性を持ちにくい日本人には受け入れやすいものかもしれませんが、幼児期に母子分離型で育ってきた、自立心が強く、個性的で議論好きな欧米人には、むしろ向いていないものなのかもしれません。擬似宗教は、宗教に依存することで自信が持てる。同じ宗教仲間ができることで安心できる。といった、日本人の心の弱い部分に見事に入り込み定着しているように思えてなりません。

敗戦によって、政治が宗教を利用した形での支配力は崩壊しましたが、かろうじて日本人が守ってきた伝統文化という形では残されました。残念ながら、そのことで仏教やキリスト教などの真の宗教の復権にはつながりませんでした。宗教教育を失っている日本人の多くは、宗教教育といった基盤が欠如しているゆえに、入門者に優しい、擬似宗教の方に熱狂しやすい性質があるのです。

我が国には、座禅や茶道、能、弓道、剣道など、心身を鍛錬し、高い美意識と精神性を併せ持つ独自の伝統文化を持っています。しかし学校教育の中で、そういった伝統文化に直接触れ合う機会が、あまりに少ないことが残念でなりません。

宗教は、「信教の自由」を謳う憲法の条文の中に位置づけられはしましたが、積極的な奨励をともなっていません。そういう不干渉にとどまる「信教の自由」は、実際には「無信仰の自由」を強調する方向性に向かっているように思えてなりません。

私は、仏教系の保育園に学びました。インドアな性格な子供だった私にとって、一番、楽しみだったのはお釈迦様についての紙芝居でした。私は、大人に強いられなくとも、良いことをすることに喜びを感じる子供でしたが、それは、保育園での宗教教育によるところが大きかったように思います。

私は、宗教教育の重要性を感じている者として、押し付けではない、日本人に適した、最も自然な宗教教育のあり方について研究しています。

これは、かぎっ子の増え続けている現代日本において、おろそかに出来ない問題だと思います。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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