2009年02月24日

(3)わからない

「信じる」の裏側にあるものは、「わからない」なのだと思います。


神様を信じているけれど、実際に見たわけではないので、「わからない」

今日のスケジュールは決まっているけれど、上手くいくかは、「わからない」

何よりも、人の心は、「わからない」

つい置き去りになりがちな、自分の心も、やはり「わからない」


「わからない」けど、頑張ることで、きっと良くなると信じたい。

「わからない」けど、ポジティブに考えることで、未来への希望へと繋いでいきたい。

そして何より、「わからない」からこそ、人は、祈るのだと思います。


反対に、「わかっている」というのは、危険な感じがしてなりません。


「わかっている」と考えると、他者の話を素直に聞けなくなってしまう。

「わかっている」と考えると、他者に対し、「こういう人」とレッテルを付けてしまいがちになる。

「わかっている」と考えると、差別の心が生まれてしまう。

「わかっている」と考えると、上下関係ができてしまう。

「わかっている」と考えると、人を傷つけることが平気になってしまう。

「わかっている」と考えると、新しいアイディアが浮かばなくなってしまう。

「わかっている」と考えると、信じる気持ちが薄れてしまう。

「わかっている」と考えると、夢や希望が持てなくなってしまう。

「わかっている」と考えると、祈る気持ちが持てなくなってしまう。

「わかっている」と考えると、神様を信じられなくなってしまう。


でも、「わからない」ゆえに、人は、不安な気持ちになってしまうのではないでしょうか。


「わからない」からこそ、慎重にならなくてはなりません。

「わからない」からこそ、謙虚にならなくてはなりません。

「わからない」からこそ、相手を理解しようと努めなくてはなりません。

「わからない」からこそ、勉強しなくてはなりません。

「わからない」からこそ、日々精進しなくてはなりません。

「わからない」からこそ、厳しい現実に耐え忍ばなくてはなりません。

「わからない」からこそ、何度挫折しても、挫けずにチャレンジし続けなくてはなりません。

こうして、「わからない」からこそ、人は強くなれるのだと思います。


「わからない」 だから人間は、信じ合うしかありません。

「わからない」 だから人間は、愛し合うしかありません。

信じ合い、愛し合うところには、必ず、幸せがあります。


私は、「わからない」ということを、とても大切にしています。


ですから、キリスト教が正しいと、言い切ることはできません。

むしろ仏教の方が正しいのだと、言い切ることもできません。


これからお話する内容は、「わからない」ということを常に基本に置いて書いたものです。ですから、私が完全に理解したものとはいえないのです。

とはいえ、長いこと心に留めていると、何かの拍子に、ふと引き出されて、以前より理解が深まってきているように思います(真理に関することにおいて、それが確信へと変わっていくには、そういった「時を経る過程」が必要なのだと思います)。

つまり、これからも、これらのことを心に留め、進化し続ける内容ではあります。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 13:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 光の道を歩んでいこう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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