始めの10分間の沈黙では、心に飛び込んでくる思考を客観視することができました。
2分間の沈黙を経て、最後の5分間の沈黙では、音叉のAの音をイメージし、同時に紫色をイメージしてみました。すると、前のような思考を沈めることができました。これは、いけるかもしれない…
この講習会の究極の目的は、普段、思考の奴隷になっている状態から、瞑想により思考の働きを止めることにより、神とコンタクトを取れる状態に持っていくことにあるようです。問題は、思考の働きを止めたとき、神とは反対の力であるサタンとコンタクトを取る危険性もあるので、時間をかけて訓練をする必要があるとのことでした。
思考力によるものは、良かれと思ったことでも、脳と身体に悪い方向のプログラムになりやすく、神秘体験的な霊的の働きは、脳と身体に良い方向のプログラムになりやすい傾向があるとのこと。現在、胸や指先の痺れで苦しんでいる私には、希望のあるお話でもありました。
神父様のお話によると、キリストの精神に生きるには、仏教やヨガなどの東洋の瞑想が役に立ってくるとのことで、これまでのヨーロッパの伝統でやってきたキリスト教のままだと時代から取り残されてしまう方向性に向かっています。神学など知識を中心としてきたキリスト教から、真理に基づく神秘体験によるキリスト教へと変えていかないと、科学の進んだ現代人には、魅力に乏しいものとなってしまうのは当然と言えば当然なのかもしれません。
反対に、仏教の側からキリストの精神を学ぶことは、仏教的悟りを深めることになるように思います。
当時のキリストの弟子たちは理解力に不足しており、キリストは、たとえ話で話さなければならなかったと聖書には書いてあります。しかし、たとえ話ではない崇高な真理を知るためのヒントも聖書には書かれています。それは、聖霊の力を得ることにあります。
近年、物理界において見えない世界が解明されつつあります。そうなると科学は、キリストの教えを実証するべきものとなりつつあるのに、伝統的キリスト教は、古い考え方にしがみついていて、そこに目を向けていないのです。
私は、聖書の教えに、東洋の瞑想を取り入れ、さらに科学的視点でもって、キリストの精神に生きていきたいものだと、ふと思い巡らしていました。
キリストの弟子たちが難しいと思えた内容ゆえ、参加者の大半が、「難しい」と口にしていたのも印象的でした。
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