2010年05月22日

心の完全武装をしていた自分

今日は、世界一という称号の付くようなピアニストの演奏会を聴きにいきました。

私がこれまでに聴いたコンサートの中で、間違いなく一番上手い演奏といえるものだったと思います。

しかし、感動ではなく、悲しさを感じられたのが不思議でした。悲しいほどに完璧な演奏だったのです。

彼のイメージを言葉にすると、「孤高のピアニスト」「瞑想のピアニスト」「深い哲学を感じられる演奏」でしょうか。造詣が深すぎて、遊び心が全く感じられないのです。凄すぎて、「うーん」と唸るしかありません。

あまりに崇高な演奏は、次元が高すぎて、私の心は心が付いていけませんでした。演奏会が終わってからも、心が消化不良で、考えて込んでしまう始末。かなり疲労感が残りました。

ブラボーと何度も叫びましたが、残念ながらアンコールはありませんでした。彼は、常に最高を追及しているため、立ち止まって幸せを味わうタイプでは無いと見ました。調子に乗ってアンコールに答えるということは、やはり有り得ない人なようです。

今まで、心のどこかでこんな完璧なピアニストを求め続けてきた筈なのに、いざ出会ってしまうと、どうしてこんなに悲しいのだろう。帰りのお客さんの様子を見ていても、あまり笑顔が見られませんでした。彼自身、幸せを感じているのかはわかりません。もしかすると、完璧な演奏を追及するあまりに、人間的な幸せなんて求めていないのかもしれません。修行僧のようでもあるかもしれません。

この人は、周りにいる悩んでいる人、苦しんでいる人の声を聞くことなどあるのだろうか?

崇高なる理想の演奏をひたすら追求している彼に、そのようなことをしている様子が全くイメージできませんでした。

最近の私は、忙しさのあまり、そういう人を避けるようになっていることに、ふと気が付きました。

つまり、彼の演奏を通して、現在の自分の愚かさに気が付くことができました。

私は、特に信仰面で、知識や悟りによる心のレンガを張り巡らして完全武装してきたように思います。より高い次元を求め、いつの間にか、心が暴走していたのです。

どんなにケチの付けられない真理に至ったとしても、多くの人が付いてこれないようなものだったら意味があるのでしょうか?

魂の進化というテーマにおいても、本当は、そんなに無理をする必要がないのかもしれません。

輪廻を終えて解脱するということが、本当に優れたことなのかもわかりません。自分だけ天国に至ったとしてもどれだけのものでしょう。

単に神に心を向けられる目を持てたなら、きっと来世も無意識で神に心を向けられる人でいることだろうと思います。つまり、来世でも、神に心を向ける自分と出会うことができると思うのです。

というより、輪廻という考え方もこだわり過ぎる必要がないのかもしれません。もっと大切なことがあるように思えるからです。

まあ、その程度の信仰のレベルなら、多くの人と笑い合うことができるだろうし、どんなに苦しいこと辛いことがあったとしても、周りの人から元気をもらいながらも、また元気を与えながらも、なんとかやっていくことが出来ると思うのです。

人より先に行くことを考えるのではなく、多くの人と共に歩む方が、人間らしくてよいのかもしれないと、ふと感じられてなりませんでした。

これからは肩の力を抜いて、自然体でいこうと思います。


posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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