2011年05月13日

被災地より

東日本大震災から、ちょうど2ヶ月の5月11日(水)、津波に流されたおばあちゃんと、4歳の男の子のお葬式に出席するため被災地のお寺に出向きました。妻は仕事で行けないので、私の母と二人で現地に向かいました。国道106号線の途中、休憩で立ち寄った「ふるさと物産センター」には、自衛隊の車両がたくさん駐車していて、これから被災地に向かうのだという気持ちになっていきました。翌日12日のの岩手日報朝刊の記事によると、岩手県での犠牲者は、死者4,407人、不明者3,266人とのことです。

宮古市内は、かなり復旧が進んでいて、開店している店が多く目立ちました。車で走っていて、壊れている家と、そうでない家が数百メートル単位で交互に見えて、ちょっとした地形の違いで明暗が分かれていました。堤防の傍の家は無残に壊れていても、後ろに山を背負っている地形に建っている家は助かっていました。

お寺のある津軽石へ向かう国道45号線沿いになると、被害がさらに大きくなっていました。ここでも、山を背負っている地形に立っている家は助かっていました。

14時からお葬式が行われ、お葬式後、喪主たちの住む石浜の仮設住宅に向かいました。津軽石の橋を渡ると、赤前地区は、目を疑うほどの廃墟が広がっていました。「ここで、どれほどの人が亡くなったのだろう」急に頭痛に襲われました。

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仮設住宅のある石浜には、喪主たちの乗る車を追いかけて向かいました。正規の道路が通行止めとなっているため、一度も通ったことのない山道を走りました。その道への入り口が、まったく目印となる建物が無くてわかりにくいため、帰りには携帯のカメラで、何枚も写真を撮りました。細くて、しかもくねくねとカーブの連続です。30分ほど走ると、見慣れた道路に合流しました。とはいえ、くねくね道路には変わりありません。そこから気の遠くなるほど長い運転が続きました。

海に近い地域は、壊滅していました。凄いがれきでした。石浜に着くと、立っているはずの家並みが消えていました。高台にある仮設住宅に着き、そこから母の実家のあった筈の場所を眺めると、津波にさらわれたばかりか、大きな地すべりが起っていて、ものすごい量の土砂で埋まっており、数台のパワーショベルが土砂を片付けていました。石浜神社の石の鳥居は、無残にも根本から折れて流されていました。

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2階建てのプレハブの仮設住宅は、お祭りの縁日での出店が使うような自家発電で、仮設トイレは外にありました。畳にジュータンが敷き詰められていて、わずかな期間でよくここまでと思うほどの出来上がりでした。海の男たちのバイタリティーが感じられました。

16時半過ぎに現地を建ち、盛岡の自宅に着いたのは、21時を過ぎていました。ざっと8時間以上運転していたことになります。特に帰りの運転は、右の足首がとても痛かったことと、頭痛のために命がけの運転となりました。


6月4日(土)の盛岡芸術祭 声楽部門(13:00〜16:00 マリオス 小ホール)では、私は歌の方では参加しませんが、募金集め担当で参加します。私のお習字の塾の子どもたちと絵の入った募金箱を作っています。震災後の4月21日に乳がんのため亡くなった元キャンディーズのスーちゃんも、子どもたちの絵の中で復活して活躍する予定です。

こういった助け合いの輪が、日本を住みよい国へと変えていきますように。それが、亡くなった方々への一番の供養になると信じています。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 08:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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