2011年07月24日

私の原点

私は、10歳の時に、スキー事故で左腕関節を複雑骨折しました。私より軽い怪我だったのだが、その時は私より重症と判断され、若い看護士さんが、救急車で病院に向かい、私はタクシーで病院に向かうことになりました。しかし、酷い吹雪のため交通がマヒしており、私が病院に着いた際には、私の意識がかなり薄くなっていました。

祭日だったこともあり、オペをする医師が到着するにも時間が掛かり、私の左腕は、青白く蝋人形のようになっていました。

医師の判断は、すぐに左腕を切断手術をしないと命が危ないということでした。ところが、父が、わずかでも可能性があるなら、腕が繋がる手術をしてくれと医師に頼んだのだそうです。医師は、もし手術が失敗して死亡しても申し立てをしないという書類にサインをしてもらわないと、腕が繋がる手術はできないと言い、父は書類にサインをしたのだそうです。

1回目の手術は成功しませんでした。ギブスに蓋を付け、開いた傷を治療する処置が何日か続き、その後、2度も大手術をすることになりました。

手術をしても、左腕の脈はなかなか打たず、切断手術になるかもしれない危機が長いこと続きました。

私は、そんな危機的な状態にあることを両親からまったく聞かされませんでした。

半年近く入院し、左腕の脈が打つようになったので、退院することとなりました。しかし、私の腕は石のように固く、うんともすんともいいません。指も全く動かず、ただ腕が付いているだけといった状態でした。

医師は両親に、私の腕は、これ以上良くなることは期待できないので、身体障害者として生きることはやむ終えないことと説明していたとのことです。

はじめの2年は、確かに身体障害者としての生活でした。自分で服を着ることも靴を履くこともできず、誰かの助けを借りないと何もできないもどかしさがありました。しかも、午前中はリハビリ、午後から学校への登校という生活が強いられました。勉強もかなり遅れてしまいました。

しかし、両親から治らないということを知らされていない私は、治らないのは自分が怠けているからと思い、必死のトレーニングを始めました。今、頑張らなくては、腕は治らなくなってしまう。そういう危機感をもって取り組みました。

何をやっても効果が出ずに苦しんでいた頃、どこからか得た情報で水泳が良いと知り、親にせがんでスイミング・スクールに通うことになりました。ところが、それまでの私は、自閉症ぎみな子で、運動音痴で、体育の成績は、5段階評価の1か2を取っているありさま。もちろん、水泳も金槌で、水中で目を開けることすらできなかったのです。

スイミング・スクールでは、私は幼稚園児のクラスに入れられることになりました。ロッカールームで、同級生に冷やかされ、恥ずかしい思いをしました。それまで、「くやしい」という気持ちをもてなかった私が、込み上げてくるくやしさのために涙を流しました。一説には、大量に輸血した血が、父が職場で集めたスポーツ万能の人だったということも、私の性格変化に影響を与えていたのかもしれません。

わたしは、親にせがんで、毎日プールで練習することになりました。腕が動かないので、真っ直ぐ泳ぐことはできません。つまり、自分で泳法を編み出す必要がありました。約2年の月日が過ぎ、6年生の水泳記録会で、私は50メートル自由形に出場しました。そこで、背の高いスポーツ万能の選手を、奇跡のターンによって私は破り、学校代表に選ばれたのでした。多分、あと10回試合をやり直したら、10回とも負けていたでしょう。本当に奇跡だったのです。その証拠に、学校代表として臨んだ市の大会では、ビリの成績だったからです。

それはともかく、私が水泳で活躍していた頃、腕が約45度ほど動くようになり、指も完全とはいかないまでも動くようになっていたのでした。執刀医は、私の腕を見て、「これは奇跡だ!」と叫びました。

そして、「君は奇跡の人だ。医師になれとはいわないが、人の役に立つ人になりなさい」と言われました。この言葉は、ある意味プレッシャーにもなりましたが、私が非行に走ることなく生きられたお守りの言葉にもなりました。

ちなみに、私と一緒に病院に運ばれた看護士さんは、私よりはるかに軽い怪我だったのにもかかわらず、多分、看護士としての医学知識が禍してなのかもしれません。リハビリのおじさんに、「だいじょうぶ歩けるから、頑張って!」と声を掛けられても、「ダメです。歩けません。」といって、自分の可能性を閉ざしている姿を見せられました。マイナスの思い込みとは恐ろしいものです。

それからは、奇跡が当たり前のように起こる日々が続きました。勉強の激しく遅れた私を励ましてくれた転校生との秘密勉強で理科のテストで100点を連発することに始まり、野鳥の研究では、学校代表として活躍。陸上部では、ビリからのスタートでしたが、何度か逆転勝利を体験し、中学3年の頃、担任がらみのイジメに苦しみ、一時無気力になりかけたこともありました。しかし、高校卒業後に目指した声楽の道では、やはりビリからのスタートでしたが、主席で卒業。イタリアの有名なオペラ歌手の公開レッスンを学校代表で受講するなど活躍することができるなど、奇跡を起こす勘を取り戻していきました。

「信じるなら、奇跡は起こる。疑うのなら、奇跡は起こらない。どうせやるなら、奇跡を信じてやった方が素晴らしい。」

もちろん、努力したからといって奇跡が起こるとは限りません。もちろん負けることもあります。負け続けて、めげそうにもなるでしょう。それでも、やめずに続けるのなら、自分に追い風が吹くことだってあるのです。いや、かならず追い風を掴める筈です。

ところが、民間のカウンセラーの資格を取ってから、私は奇跡に遠い人になっていきました。

私にとって、悪魔の教えとなったのは、現代カウンセリングのカリスマともいえる、カール・ロジャーズの教えでした。それは「受容」の理論なのですが、「頑張らなくていいよ。今のままですばらしい。」「何も変わらなくてもいいんだよ。今のあなたがすばらしい。」そういったメッセージが私をダメにしていったのです。あの時の私が、そのようなことを考えていたら、本当に奇跡が起こったのだろうか疑問に思えてならないのです。

確かに、頑張りたくても頑張れないうつ病者などに対しては、その対処法はベストであると思います。それまで頑張れた人が、脳の伝達物質か何かの関係で、頑張れなくなるのですから。しかし、私がそうだったように、大怪我を克服するような場合は、「今のままでいいのだ」では奇跡に繋がりません。悪い方に固まってしまったら大変。時間は待ってくれないのですから。

実際、子ども達の教育において、この受容の考え方は、見直さないと子どもをダメにする方向性に向かわせてしまうと危機感すら感じています。

というのは、カウンセリングを学ぶ前、私は精神薄弱者の職場実習で、かなり厳しくコーチをした結果、担当した16名全員を就職へと導いたことがあったからです。トイレに逃げようとするので、決められた時間はトイレに行かせなかったのでおしっこを漏らした園生もいました。コンクリート製品の鉄筋の部品としての鉄の棒をただ30度曲げる作業を毎日千本もさせたりしました。はじめは、半分以上不良品だったのが、数日で、数十本の不良品しか出さないレベルとなり、自分から仕事をしたいと言ってくるようになり、結局、健常者でも難しい鉄筋加工を全員できるようになったのです。最近の私は、この教育が出来ずに苦しんでいるのです。

「希望療法」と言うのは何だけど、希望を持って頑張ることは、必ず奇跡へと繋がっていき、自信を与えることになるでしょう。今の子どもたちは、あまりに希望が足りな過ぎると感じられます。当たり前に満たされているので冷めているのでしょうか。私のように、お尻に火が付いた状態で、背水の陣で努力するのなら、希望というものが絵に描いた餅ではなくなるのかもしれません。

そういうこともあり、私は崖っぷちを生きている子どもたちに素晴らしい可能性を感じているのです。彼らに、自分の歩んできた奇跡の起こし方を伝授したいのです。希望を持たなくては、生きていけない人こそが、神の子なのだと思うのです。

そして私は、今までのような嘘の優しさで人と接することはやめにしようと思うようになりました。一見、厳しいかもしれないけど、奇跡に導いていけるコーチのような存在こそが、本当に優しい人なのかもしれません。

私は、私の原点に戻ろうと思います。



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 心と体 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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