2013年03月06日

死について

とても美しい女性。男性だけでなく、女性からも憧れた女性が、交通事故で突然亡くなったとします。

その女性は、傷ついた遺体となりました。

数日後、その女性の遺体は、火葬場で焼かれて灰になりました。

その灰は、墓地に埋葬されました。

その女性は、もうこの世にはいません。

その女性は、どこへ行ったのでしょう。


もし、別の次元へ行ったとするなら、美しかった身体も、別の次元に行ったのでしょうか。

もし、別の次元へ行ったとするなら、別の次元には、何々持っていけるのでしょうか。



5歳までは、普通に育っていた男の子が、麻酔医のミスにより、脳性麻痺となり、言語を失ってしまいました。

手術の直前までは、元気で、とても話好きだった子が、全く話ができなくなってしまいました。

その子が死に、別の次元に行くとするなら、その子は話のできない子のままでしょうか。

手術の失敗により壊れた脳とその身体は、別の次元に持っていくわけでないので、魂だけになった彼は、また話ができるようになると考えることができると思います。



そう考えたとき、どんなに美人であったとしても、イケメンであったとしても、この世で生きている短い間だけの「仮の姿」でしかないということになります。

もし、美人であることや、イケメンであることを鼻にかけ、意地悪で思いあがった醜い魂になったとするなら、その人が行く別の次元とは、いかなるところなのでしょうか。

逆に、美人でもイケメンでもない人が、他者の幸せのため、世の中の幸せのためにひたすら働いて死んだとして、その崇高な魂は、別の次元のいかなるところへ行くのでしょうか。


どんな人も必ず死にます。

死を考えるとき、私たちは、「今いかに生きるべきか」が問われていることに気づかされるように思うのです。


美しい心のの持ち主は、美しい心の持ち主にふさわしい次元に行くように思います。

醜い心の持ち主は、醜い心の持ち主にふさわしい次元に行くように思います。

あくまで「もしも〜」の仮定上の話にすぎませんが、このように考えてみると、美人な人や、お金持ちの人が、必ずしも羨ましいものではないということが、わかるのではないでしょうか。




世の中には、次の5つのパターンに生きている人を見出すことができます。

△「今だけを生きている人」
この人は、この中で最も悩みの少ない人なのかもしれませんが、進歩のない人生を歩むことでしょう。ただし、運に恵まれれば、よりよい人生になる可能性もないとはいえません。逆に運に恵まれなければ、つまらない人生となってしまうことでしょう。つまり、運次第の人生といえます。糸の切れた凧、舵の失った船に例えることができると思います。あまり深く考えない、悲壮感のない性質が救いとなっています。

×「過去を基準に、現在を受け入れない人」
この人は、心が過去に向かっているため、「今だけを生きている人」以上に、進歩のない人生を歩むことでしょう。それが良い過去なら、不平不満の多い人生。それが悪い過去なら、恨みの多い人生となることでしょう。いずれにしても暗い人生を歩むしかありません。くよくよ考えやすく、精神的病になりやすいタイプといえます。自慢できるような過去を歩んだ人、実績のある過去を歩んだ人が、報われない現実に苦しむようになると、自殺に走りやすいようです。

×「未来を基準に、現在を受け入れない人」
この生き方は、夢ばかり追い求めても、夢を叶えるための具体的努力をしないので、決して夢をかなえることはできません。資産家の家に生まれるなどして、お金に困らない人なら、ある意味幸せな人生を送られるのかもしれませんが、お金に恵まれていない人の場合は、酷い貧乏を味わうこととなるので、共に生きる人が苦しむこととなるでしょう。周りの人に恨まれる人生になりやすい性質があります。どんなに貧乏になっても改めない頑固さがあるものの能天気さが救いになっている人と、ついに行き詰って「今だけを生きている人」になってしまう人とに分かれてくるようです。これといった実績がないため、自殺に走ることはないようです。
 ※心が過去に向かおうと、未来に向かおうと、現在を受け入れないと良い方向には進めないということです。

○「過去を基準に、現在を受け入れて生きている人」
心は過去に向かっていますが、現在を受け入れているため、自分の心を修正するポイントを掴むことができます。しかし、過去の経験をプラスに変化させることができたとしても、それ以上の自分になれないため現状と魂の成長のいずれも、限界を味わうことになることでしょう。とても惜しい生き方なのです。

◎「未来を基準に、現在を受け入れて生きている人」
心が未来に向かっていますが、現在を受け入れているため、具体的に夢に向かって歩むことができます。現状が向上していくだけでなく、魂も向上することでしょう。もっとも実りある人生といえます。もし、過去にも目を向けることができるのなら、自分の心の修正もできるので、さらに豊かな人生を歩むことができることでしょう。無限の可能性をもった生き方です。


「死」を前提に、いかに生きるべきか考えてみましょう。


上記は、あくまで問題提起の文章にすぎませんが、みなさんにじっくり考えて欲しいと思います。












posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 18:58| Comment(3) | TrackBack(0) | 書道教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
音信不通だった母が昨年亡くなりましたが彼女はドスを呑んで逝きました。
何とオイラのブログを発見したのに二度の喪失感は味わわせられないと、連絡等を控えたのです。

遺ったのは楽しそうに社交的に振る舞う浴衣姿の晩年の彼女の写真、オシャレだった証しのアクセ。

今オイラは喪失感の代わりに得たものが有ります!
それは純粋な愛の内、異性に対するもの。
別れがあれば出会いもあるなんて単純な表現でなく、とても遺伝子が肯定するものでもあります。

また別の話しをすれば、オイラが東京西部に越してからお金持ちの近隣に為ったわけですが、その中にも一部の人には、
尊敬する相手を見いだせます!

オイラの場合、未だ道行く人。死んでからの世界は想像の果て。
只今実践しているのは誰が何と陰口叩こうと、
自分が納得するまで事を成し遂げようと努力する。と例え産まれたばかりの赤ん坊にも教わる事が有る筈だからどんな相手にも心を閉ざさない。ですね

生きる事に喜びが散りばめられて居るうちは中々、
死後の事まで手が回らない庶民の1人のオイラからでした。
Posted by きゅ〜ぴ〜qp at 2013年03月19日 18:09
きゅ〜ぴ〜さん、お返事遅れてすみません。

私の場合、犬や猫にも学んでいます。そのせいか、よく「動物みたい」と言われます。でも、暗い波動の人間より、ずっと自然の息吹が感じられて素敵なんです。

自然に湧き上がってくるお母様への思い。それは尊いものだと思います。自由な心の持ち主なら、すべてを宝物に変える奇跡が起こせるのだと思うのです。

私は、すべての命が宝物に変えられるものと信じています。出会うすべての子どもたちが宝物に思えます。すべての子どもに光を当ててあげたい…

現在、学生時代にやっていたアルバイトより収入が少なくて、厳しい毎日だけど、ものすごく幸せな未来がやってくると確信しています。それは、自分だけが幸せになるという幸せではなくて、皆で分かち合える幸せを意味しています。

占星術によると、私は旧約聖書に登場するヨブの苦しみを2度も味合わなくてはいけないそうですが(Wヨッド)、それだけ耐え忍べるのなら、後で大きな恵みが来るのだそうです。実際私は、何度も死に目に逢っています。これからも死ぬ程の苦しみがやってくることでしょう。

不運とは、諦めてしまう人にはただの不運だけど、諦めないで耐え忍ぶ人は、必ず大きな幸せに至るものと信じています。つまり、不運とは幸運への入り口なのかもしれません。
まだまだ、これからです。お互い頑張りましょうね (=^・^=)ノ
Posted by 盛岡のしろねこ at 2013年03月22日 22:54
そうですね!
諦めたら終わり。
ただ周りからは馬鹿呼ばわりされても一心に自分の信じる処を突き進むのがオイラのなかでの「勝ち」だなー

けど実際、カネが足りないのは大変だよ

YouTubeでupする番組に塾の光景やら真剣な子供達への想い、載せられないのかなあ?自分の番組なら構成次第じゃないのかなあ

インターネットは困ってる人は必死でキーワード検索するからね
Posted by きゅ〜ぴ〜qp at 2013年03月23日 03:22
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