2015年09月08日

貧しい者たちこそ、この世の主役(汝の敵を愛せよ)

お金が無ければ何もできないと考えがちである。

音楽をやっていても、結局、お金持ちに圧倒的な差を見せつけられるだけで、全く勝ち目がないようにさえ思えてしまう。

美術をやっていても、結局、高価な道具を手に入れることができなければ、全く相手にならないようにさえ思えてしまう。

多分、多くの人は、そのことで失望し、芸術活動を断念してしまうのではないだろうか。

ところが、私の場合は「最小限」の方が、力が発揮できるように思えるのである。大きく不足している方が、それだけ神が力を貸してくださっているという実感が得られるのである。結果的にお金持ちの芸術に負けない感動を鑑賞者と共有できる幸福に浸れることが多い。このような素晴らしい奇跡が体験できるゆえ、芸術はやめられないのである。

とはいえ、「最低限」の練習は必要だし、このことは毎日の習慣にしなくてはならない。また、音楽を鑑賞する、つまりは良い音楽を頭脳にインプットする作業も怠ることはできない。私は、貧乏なので、CDを購入するお金が無い。しかし、かろうじてインターネットができるので、YouTube等で最高の音楽をしかも無料で鑑賞できている。

私の芸術の特徴は、「最小限」で「最低限」である(私には芸術よりも大切な価値観が存在しているからである)。そして何より重要なことは、本番には、「最大限の本気」で取り組むことにある。一切の妥協をせず、命がけで集中する。不思議なもので、声楽の本番当日、風邪を引いてコンディションが悪く、リハーサルでまったくかすりもしなかった高音も、本番では奇跡的に出てしまうのは、自分以外の力がそこに加わっているという証になるのかもしれない。

私の文章も、声楽や書道と似ているところがある。声楽同様、かろうじてインターネットだけはできるゆえ、ネットでの情報に関して他者が驚くほど得ているのかもしれない。Amazonで中古本を購入しているのも人並み以上かもしれない。しかし、高額なセミナーに参加するとか、偉い先生に習うとなると全くの不可能であり、そうなると単なる独学の域を出ないかというとそうでもないようである。

私は守護霊(守護の天使)と語り合う能力があるため、高額なセミナーに参加するとか、偉い先生に習っているといった人たちと対等に語り合い、むしろ彼らを驚かせレベルの高い理論を語ることができているようである。これも、「最小限」で「最低限」な人間ゆえにできる業であると思えるのである。

神が存在する限りにおいて、貧乏な人間が損をするということは決してない。貧乏な人間が損をするのは、その人に神が存在していないからなのである。

この世は、サタン(悪魔)の支配する世の中といわれている。それゆえに、永遠の世界ではなく死が存在するのである。とはいえ、このサタンの世を生き抜かなければ、神の支配する高次元の世の中へ参入できる者とはなれない。

サタンの世を生き抜くには、膨大な知恵を必要とする(学問的な知恵とは異なる)。私たちは膨大な知恵を生み出していかなければ、この厳しい世を生き抜いていくことはできないのだ。一つや二つの知恵では足りない。十や二十の知恵でもまだまだ足りない。百や二百でもまだまだ。千や二千でも全く太刀打ちできない。何万、何十万という知恵を身に着ける覚悟が無くては全く通用しないのである。でないと悪魔の世界に完全に飲み込まれてしまい、サタンに魂を奪われてしまい、神の世に参入できない者となってしまうのである。生まれっ放しでただ生きて、世の中に振り回されるだけで死ぬことに何の意味があるのだろうか。

私たちがしなくてはならないことは、「小さき者として生きること」。小さき者でないと、神と共に歩めないし、神の奇跡を体験できないからだ。そして、「公共の奉仕に生きること」。公共の奉仕に生きるとは、社会のために働くことである。この二つさえ守られていれば、あとは「守護霊(守護の天使)様の指示にすなおに従う」ことで、いつも安心して生きることができる。まあ、他人様からは、おまえはあれも持っていない、これも持っていないとやじられ、からかわれることはあるかもしれないが、持っていないということは、それだけ神の愛が多く得られるという意味では悪くない筈である。笑う者には笑わせておけばよいのである。神の平安とは、そういう形でもたらされるものなのではないだろうか。

この地球は貧しい人の方が圧倒的に多いのである。ということは、神の側に生きられる人。つまりは天国に近い人の方が多い筈なのである。しかし現実はそのようには見えない。前に話した神の知恵といっても、知性はそれほど必要ない。つまりは「守護霊様と語り合うセンス」を身に着けられるなら何の心配もないのである。そのことを多くの人に伝えることができるのなら、このサタンの世が一気に平和に満たされてしまうという奇跡に包まれることだろう。

目に見える世界では、エリートと呼ばれる裕福な人間たちが地球を支配して、貧しい者を奴隷化し、削除(人口削減)していくという風潮があるようである。しかし見えない世界においては全くの逆である。その奴隷化され排除される側の人たちに天国の門が開かれているからである。

神の奇跡は、金持ちたちには得られない。貧しい者たちこそ、この世の主役なのである。

といって決して裕福な者を批判しているのではない。私も幼少の頃は、そちらの側の人間だったかもしれない。ただ運良く大怪我による身体障害と戦わなければならなかったので、物質的な欲望に支配されずに済んだ。現在は、完全に貧しい者の側となっている。まだまだ人生という道の途上にある者ゆえ、さまざまな時を経なくてはならないのだろう。もしかすれば、未来は裕福になるかもしれない。

お金も使い方次第では人を救う者になり得るのである。裕福であることは、そういう意味で素晴らしい祝福なのだ。とにかく、小さき者としてのスタンスで、貧しい者に目を向け、貧しい者のために奉仕する生き方をするべきなのだ。「守護霊様と語り合うセンス」を持ち合わせるのなら、裕福な者にももちろん天国の門は開かれているのは言うまでもない。ただ、そういう人間があまりにも少ないのである。

「汝の敵を愛せよ」というイエス・キリストの言葉があるが、サタンの側の人の膨大な富が、人々の幸せに使われるという奇跡が起こったなら素晴らしい。紛争や戦争で解決するのではなく、愛で解決していくのである。

人口問題は大変深刻であるが、むしろ知識人たちが子供を控え、貧しい国の人の子供を育てるようにしたら、一気に地球全体が良い教育で満たされるのではないだろうか。地球全体が良い教育で満たされたなら、人口問題は一気に解決へと向かうことだろう。世界が一つになり、戦争の無い素晴らしい時代がやってくるのではないかと思うのだが、どうだろうか。聖書の預言とは、成就させることが目的ではなく、人類を警告し、人々を目覚めさせることを重要視するべきではないのだろうか。預言の最終章は、私たちが導き出す神から与えられた課題なのである。

それゆえ、一切の敵視をやめ、すべてを愛に変えるべきなのである。

と、この文章を書いた理由は、とあるジャズのセミプロたちの祭典を見に行った際、出演者から、彼らの多くが医者かもしくは大金持ちであることを聞かされ大きなショックを受けたことによる。彼らと自分には接点が無く、私が入っていけるような世界では無かったのだ。そう思ったら、悲しくなってしまったのだ。

しかし、この文章を書いた後には、彼らを敵視することはなくなった。そして、私は貧しい者として音楽活動を行っていることに誇りが持てるようになった。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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