あなたは守護霊と話をしたことがあるか。と問うと、多くの人が、話したことなど無いと答えることだろう。
とはいえ、ごく普通の善良な人間ならば、運良く危険を回避したといいう経験をいくつか持っている筈である。その時、何かに守られたと感じたに違いない。
守護霊は、地上の世界の悪が全く見えないといわれている。
美肌をそして美脚を露出して歩いている女性(やがて若さを失い朽ち果てる美)は、地上では人々の目を奪って得意げなのかもしれないが、守護霊からは全く見えない存在なのである。
それゆえ守護霊は、善良な人間しか守られないのである。
性愛(性欲と見栄による愛情の伴わない愛)に狂ってしまい神を忘れてしまっているような人は、守護霊からは見えなくなっているため、事故に遭ったり、不運なことが起こりやすくなっているのである。
思い当たることのある人は幸いである。このことに気づけた人は、神を見失うことが無くなっていくので、必ず神の奇跡を体験できるようになれるからだ。
そういう経験を持つ者であっても、守護霊と話をしたことがあるかと問うと、やはり多くの場合無いと答えるのではないだろうか。
守護霊とは、死後、いわゆる天国と呼ばれている高次元な霊界での学びを終えたマスターたちなのである。
私たちが守護霊と対話をするためには、守護霊たちが働いている天上の聖なる場所との波動と自分の魂の波動を合わせることでアクセスが可能となる。
そのためには、魂の状態を極限まで清める必要がある。彼らは、善に関する内容にしか応じてくれないからである。
話を先に進める前に、人が死んだらどうなるかについて少し触れておく。
善良な人間が死ぬと、その魂は、いわゆる天国といわれる高次元の世界への入り口に導かれる。そこで、次の決意を促される。「一度、天国に参入したなら、地上でのこと一切を口にしてはいけない」と。
もし、口にしてしまうなら、その人は転生への学びに戻されることになる。といっても、善良な人間ゆえ、失敗を取り戻すための良い学びの機会を与えられることだろう。
また、もし天国にたいへん醜い女性がいて、それをけなしたとするなら、その人は天国にはいられなくなる。また、ものすごく美しい女性がいたとして、目を奪われて狂った感情を表出させてしまったなら、その人は天国にはいられなくなる。
多くの場合、天国において、地上では学べないような素晴らしい学びに感動し、地上での古い学びは次第に心を向けなくなっていくのである。
そうして、天国における学びを終えると、守護霊として働けるようになるのだ。
天国と呼ばれている高次元の世界のさらに上の世界に参入するためには、地上世界が役割を終えなくてはならないので、その時まで守護霊としての働きは続くことになる。
太陽もいつかは役割を終える日が来るわけだし、その前に地球も役割を終えることだろう。そして、この3次元宇宙にも必ず終わりがあるのである。
もし地球がダメになったとしても、広い宇宙には地球人にかなり近い高度な知能を持つ生命体が存在するので、そちらに転生できるという説もあるが、できることなら、釈迦やキリストがその教えの中で勧めている天国の参入者となる解脱の道を歩むべきなのだと思うのだ。
さて、話を守護霊との対話に戻そうと思う。
天の聖なる場所とアクセスするための家庭内に聖なる場所を持つ必要があるのだが、私の場合は寝室のベッドにしている。
その理由は、完全にリラックスできて、かつ脱魂状態になっても問題のない姿勢となると寝ている状態以外考えにくいからだ。机に座っていては、そういった状態を作ることは難しいのである。
私の場合は、音の良いオーディオシステムで、バロック音楽を掛けてから寝床に横になる。そして、おなかが上下する位に深い深呼吸をして、頭に降り注ぐ心地よい音のシャワーを浴び続ける。美しい音のシャワーに魂が清められているイメージを持つようにする。
完全にリラックスした状態になったところで、聖なる母音の詠唱をする。声帯から声を出しているという感覚ではなく、金属でできている楽器の音が鳴り響くといった感覚になるように発声を試みる。
そうしているうちに語り掛けると答えてくれる感覚が得られてくる。心の中での対話でもよいし、無意識で声を出して語り合うのでもよい。
こういった語り合いは清らかな語り合いではあるが、決して堅苦しい感じではない。むしろ最高に至福の時を得ている実感が持てることだろう。
その人の魂の方向性として、天上の美が地上の美に完全に打ち勝った状態になった時、その人は地上の誘惑に負けない者となる。
守護霊は、私たちに天国の世界については絶対に教えてはくれない。あくまで、私の話すことに対し、ヒントを与えてくれるのみなのである。それゆえ、私たちは自力で良い方向性への気づきが得られるのである。こうしていかに多くの知恵を獲得するかが解脱への道に必要なことなのである。
この世を魂を汚さずに生き抜くためには、知恵が必要である。一つや二つの知恵では無理である。十や二十でも到底無理。百や二百でもぜんぜん足りない。千や二千でもまだまだ。それ以上の知恵を獲得しなくては悪魔(サタン)との戦いに勝ち抜くことは難しいことだろう。
ここで知恵と書いたが、これは学問的な知恵ではない。守護霊から授かる霊的な知恵なのである。だから無学なものでも十分に得ることが可能なのだ。自分の生きてきたものの考え方に応じてくれるので、最も分かりやすいのである。
つまり、その人が望むのなら、すべての人に天国への道は開かれているのである。
しかし、実に多くの人はそのことに気づかずに物質的な世の中の価値観に振り回されながら転生を繰り返してしまうのである。
釈迦は転生より解脱を勧め、キリストはあえて転生には触れずに真っ直ぐに天国へ行く道を説いたのである。
どうせ天国で語ることはない訳なのだから、それまでどう生きたかということなどどうでもよいことなのである。
どんなに悪に生きようと、悔い改めるのなら、生きている限りやり直せるのである。そして、いかに良くなるための生き方をする決意を固めるかが重要なのだ。
転生する人は、一定の期間、準備のための霊界にいて、その人のカルマに応じた新たな人生を歩むために生まれ変わるのである。前世の記憶は消されているが、その人の天性の能力や癖を見れば、大体のことは浮き上がってくるものではある。
どうしてこのような無意識の傾向があるかというと、私たちの生きざまの全てがアカシックレコードに記録されているからなのである。
つまり、前世の記憶は意識上からは消されていても、無意識の中ではしっかり機能しているのである。
ということは、悪癖を直すことなく死ぬとするのなら、来世も、その悪癖で苦しむことになるのである。
守護霊との語らいの時を持つことは、この悪癖を直す最も強力な力となるのである。しかも、その先には解脱の道が開かれるのである。
もちろんここまで語ってきたことは、科学的に立証できることではない。それゆえ、「信じる」しかない。それゆえ問題なのだ。このたぐいのものは、「わからない」で処理して良いのだと思う。
ただ、科学的に説明できなくとも、実感として「信じる」を越えてしまった時、その人に力を与え、人生に多くの奇跡をもたらしてくれるのである。
だから無理に信じることはないし、「わからない」で処理して慎重に考えるべき問題なのである。
やってみてどうかということが重要であり、しっくりこないならば、それも現在のその人への導きと考えてよいのだと思うのである。もしかすると、もう少し人生を進めてからでないと実感できない問題なのかもしれないので焦ることはないのである。現在がふさわしい時なのかどうかは、簡単に判断できないことなのである。
シュタイナー教育では、子どもたちに想像的な要素を育むことを重要視している。なぜなら、想像的要素が発達させられるのなら、いかなるスランプ時においても、モチベーションを失わない方法を編み出すことができるからである。
ある人は、シュタイナー哲学を偉大なるファンタジーと言っているが、この想像力を私は心より尊敬しているのである。そして、私も、シュタイナーに習って想像の世界を育てているのである。
物理的発見も、発明も、想像力の産物である。相対性理論で有名なアインシュタインは、「もしも、光の早さで飛ぶ宇宙船があったら」というように考えて、理論の中で宇宙船を飛ばすことで物理的な発見をもたらしたのである。こういった想像力が、偉大なる先人たちが見つけられなかった真理を見いだしていくのである。
私たちは、アインシュタインのような偉大な物理学者でなくても、想像力を育てることであらゆる困難を克服できるのである。
そして、天の聖なる場所とアクセスできるのなら、「必ずなんとかなる」という自信へと繋っていき、心に平安がもたらされるのである。
心に平安がもたらされるということは、妬み僻み、不平不満というネガティブな感情に心が支配されることが無くなることを意味する。
これが天国にふさわしい者の思考回路といえるのである。
肉体的美しさがなかろうと、お金がなかろうと、学歴や、誇れる名誉を持っていなくても、人は、至福の時を得、神の奇跡に生き、真の(永遠の)美を得て、真の(永遠の)勝利者になれると… 私はそう信じている。
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