それでも自分的には、かなり抑えて書いているつもりではある。心のままに書いてしまうと、ぶっ飛び過ぎて大変なことになってしまうからだ。
さて、そこで大きな気づきを得ることができた。
良い教育とは、自然と触れ合うゆとりを持った授業を心掛け、子供が自力でいろいろな解決策を見つけ出すお手伝いをする。一人一人の子供の子供目線でのコミュニケーションを大切にし、時には、その子とじっくり、とことん付き合い、ぶっ倒れるほどやり抜いた後に新しい力が得られることを体験させるといった「限界越え」も体験させる。これこそがシュタイナー教育の神髄なのである。
多分、天界のマスター(守護霊ともいえるのかもしれない)は、そのように私と付き合ってくれている筈である。それゆえ、私は多くのインスピレーションを得て問題を解決できているし、きっと解決できるといった自信というか安心感すら得ているのである。
天界のマスターたちが、私にしてくれていることを、教育現場で子供たちにすれば良いのである。
つまり、安易に答えを教えることはせずに、その子のレベルでコミュニケーションをして、その子が自力で問題解決できるように導いていく。そうすることで、本当の力が身についていくのである。
そういう子は、きっと、自力で多くの壁を乗り越えて、いつかは教える教師をも超えていくに違いない。私が、教え子に学ぶということになったら素晴らしい。というのは、自分が乗り越えただけでは、まだ半分であり、それでは自己愛のレベルだからだ。他者を乗り越えさせることができてこそ、他者愛が加わり、より完成されていくのである。
ここまで話したことは、カウンセリングにも応用できることだと思う。
解決策を教えてしまうのではなく、その人が自力で問題解決できるように、その人目線でのコミュニケーションを取ることで、「気づき」へと導いていくのである。
だから、私は、どんなに答えを持っていても、答えを話すことがあってはならないのだ。その答えは、私が「気づき」よって得られたもので、あくまで私だけのもので良いのである。
人は、自分越えをするには、大変な努力が要る。さらにそれを継続して行うには、それなりの決意が必要となる。短期間にそれをなすことなど困難である。まずは、自分サイズから始めなくてならない。他人サイズでは、挫折してしまうからだ。
自分サイズから少しずつ、時間をかけてゆっくりと、そして着実に自分越えに取り組んでいくのである。
「優れた人ほど語らない」という意味が少しわかってきたような気がする。語ってしまっては教育にならないからである。
〈補足〉
例えば、ショパンの演奏法をピアノの入門者に教えようとしても伝えることはできないことと似ている。ショパンを弾けるだけの腕前を持つだけの修業をした者にしか伝えられないのである。
私は、現在のイマジネーションを得るために素地に30年。専門的な学びを約3年やっているが、そうして得たことを果たして、素地も何もできていない人に伝えられるかと言うと伝えられないように思うのである。
昨日は、紫波町のビューガーデンにて、「鳥山敏子先生を偲んで 賢治の学校との交流会」に参加した。とても有意義な学びをしたので、後日、そのことを記事に書いて紹介したいと思う。
交流会から帰ってくると、玄関前に生ごみが置いてあり、カラスに荒らされていた。母の話だと、明日が可燃ごみの日なのだが、先週もそうだったが前日にごみを出す人がいて、家がゴミ当番なので置かれたとのことだが、家の中に置かないといけないのに玄関に置いたままにしていたので酷いことになっていた。それを必死で掃除し、一段落したと思ったら、父が悶絶しているので、車に乗せて岩手医科大学工事救急センターに連れて行った。
私がいないことをいいことに、食べたいだけ食べ物を食べたようである。その結果、また胃に穴が開き、集中治療室に逆戻りとなった。家族が全面協力し、普通に食事ができるようにまで回復したのにである。裏切られたような気分だった。しかも、先週には、入院していた病院で脱走を繰り返し、強制退院させられるなど育ちの悪い生き方が完全に蘇っている感じだった。子供の頃は不良グループの番長で、喧嘩が強いことがこの人の誇りだったようだが、私は幼少からこの人のDVに随分苦しめられてきたので、教育の重要性を感じるようになったのだと思う。
救急患者が多かったため、入院できるようになるまで深夜の11時を回っていた。家に帰ったときには午前0時を回っていた。母も介護者で歩行困難。妻は仕事のことで手一杯。私が倒れたら、この家族はどうなるのだろうか。
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