2015年10月26日

最悪のシナリオの中にも「絶望」は存在しない

子どもたちを見ていて、何かしらの才能を持っていることを感じられる。書道の才能を持っている子。リーダーになる才能を持っている子。絵の才能を持っている子。作文の才能を持っている子。スポーツの才能を持っている子。ピアノの才能を持っている子…

私は書道を教えているが、そういった子供たちの才能を見出し応援している。こういった才能は無意識の内に働き、無意識で「できる」を体験しているのである。

シュタイナー教育的には、「できない」を「できる」に変えることこそが教育の醍醐味なのである。「できない」を「できる」に変えることは学ぶ者にとっても教える者にとっても苦痛の伴う大変な作業となるが、達成できた時、この子は、これからいかなる困難に出会ったとしても、「できない」ではなく「できる」で考えることができるようになるからだ。そして、教える教師もマンネリに陥ることなく、教師としてのスキルをぐんぐん上げることができるのだから大いに意義があるのだ。

インターネットで調べていて、輪廻転生を否定している人が結構多いことに気付いた。特に聖書を信仰の基本に置いている人は、その傾向が強い。信仰心という後ろ盾があると、科学的に実証されていないことでもはっきりと断定するようである。私はクリスチャンだが、シュタイナー教育を研究しているので、キリストや本来の釈迦の教えにある解脱としての天国と、その真逆の地獄、そしてどちらでもない輪廻転生を複合的に捉えている。科学的にはっきり証明できない分野ゆえ、幅広く考えた方がより多くの人と共感できるチャンネルが得られると考えているのである。

私が支持している仮説では、死ねば、無意識になるということである。これは前世の記憶があるとかといったものとは異なってくる。無意識なので、直接意識に働くものではない。しかし、無意識で「得意」または「苦手」を勝手に志向してしまうのである。前世でピアノをマスターした人は、無意識でピアノに対して自信を持っている。前世で哲学をとことんやったものは、哲学を学ぶことについつい喜びを感じてしまう。その程度のことな筈だが、この無意識方向性が、不思議と才能に大きく関わっていると考えているのだ。

しかし、無意識で「できる」ことが得意になったからといって大したことはないのである。得意なことだけやっていった方が成功への近道と言う人もいるが、人生、いつも調子がいいことばかりではない。ある意味、前世の自分を超えなくては、現世を生きている意味がないのかもしれないのだ。

東京賢治シュタイナー学校の創立者である故・鳥山敏子先生は、劇の発表会では、前回主役だった人には、今回は脇役。前回脇役だった人には、今回は主役をやられるという形で配役を決めていったのである。もちろん、脇役だった子が主役をやると言うことは、「苦手」と取り組まなくてはならない訳なので、始めは泣きじゃくって抵抗していた。それでも先生は許さず、何度も何度も「できる」までやらせるのである。そうして、その子は自分の「苦手」を見事に克服していったのである。逆に主役だった子は、脇役をやるのはつまらないことである。しかし、生半可な気持ちで脇役はさせない。主役を立てるために、どうあるべきかを徹底的に考えさせるのである。これは、いつもと違う自分を演じなくてはならない。ここにも、自分の壁を打ち破らなければならない試練があるのだ。そういう授業風景を記録DVD映像によって学ぶことができた。

確かに、輪廻転生の批判は理解できる。前世が見られるという人の話を聞いて、残念ながら、私はそのほとんどが嘘と見抜けてしまった。カバラ数か何かであらかじめ、せいぜい十数種程度にパターン化されたものでヤマを掛ける。しかもそれは、相談者が受け入れやすいパターンとなっているのである。それに、相談者との会話の中でふくらんだイメージから連想されたものを加えたものに過ぎないのである。こういったものは、相談者にも見えるようにしなければ、相談者は、カウンセラーの言葉をただ鵜呑みにするしかないのでアンフェアというしかない。真実と異なるものなので、相談者が良くなる筈がなく、そこには大切な「気づき」も「悟り」も無いゆえ、むしろ悪くなって当然なのである。つまり、信じる価値などどこにもないのである。

1000年前の世界の人口と、現在の世界の人口とを考えると、輪廻転生の数が合わなくなってくる。悪魔崇拝をしたため、地獄に落ちて、輪廻転生すらできない者も多くいることも考慮しなくてはならない。そうなると、「あなたの前世はありません」という人が多く出て来る計算となるのである。そうなると、他の惑星からの輪廻転生者がいないと数が合わなくなってくる。私は、地球はいつかは人が住めなくなるわけで、もし人類が絶滅したとするなら、地球とは異なる他の惑星が無いと、人類は輪廻転生できなくなってしまうと考えている。

そこまで、広げて考えないと輪廻転生とは何かが見えてこない。シュタイナーの教えはファンタジーとも捉えられるものではあるが、「もしも○○だったら」という考え方が、物理的な多くの発見を見出したのである。なので、馬鹿にできない。もし、私の説が間違っていたとしても、「間違っていた」とはっきりした時には、真理が見出されていることになる。

一番愚かなことは、真理が見出されていないのに、正しいとか間違っているとか断定してしまうことである。

輪廻転生は間違っていると断言した人たちの文章を読んで、良いところをついていながらも残念ながら、まだ真理には至っていないと感じるしかなかった。共感できる部分も多くあったが、それでもすっきりしないのである。

多分、私の論も、反対意見の人たちからすると、すっきりしないものだろう。しかし、私の論は、教育的なものとして考えたものであり、世の中を良くしようという発想からきているものである。そして、自分の論は、まだ完成したものではなく、未来の人に完成へ辿り着いて欲しいと言う願いも込めている。

だから、私は断定はしない。

ここ数週間、いろいろ世界の裏側について調べまくり得た情報のために私はかなり失望してしまった(特にバチカンの犯罪について)。失望の中、怪我や病気にも苦しんだ。しかし、私のように広いスタンスで黙想をしていくと、最悪のシナリオの中にも「絶望」は存在しないことに気が付くものである。そして、批判することでもなく、戦うことでもなく、未来の担い手である子供たちを健全に育てることにひたすら情熱を注ごうと思うことで迷いは消え去った。

それは、神も私たちが健全に育っていくことを最も期待してくださっており。キリストの教える天国(解脱)は、私たちが他者の勧めではなく、自分の意志により、神の世界へと到達し、神の世界に調和することに全力を尽くせる者となることである。

そこには、この世での学びも知恵も必要はない。この世は、不完全な次元ゆえに、学びや進化が存在するので、神の世界には、学びも進化も存在しないからだ。進化というと聞こえは良いが、新しい時代の流れに合わせないと生きていけない現実を意味しているのであって、神の世界では全く不要の価値観なのである。

だから、いつの時代においても、常に天国はウエルカムなのである。

いかに正義の名のもとにおいても、殺人、拉致、略奪を喜ぶ神など存在しない。
神は、利他の愛に基づく平和しか望んでおられないのだ。不完全な人間の価値観などそこには存在しない。

また、正しい知識を得ないと天国へ行けないと言うのは間違いである。それゆえ、正しい宗教など存在しないのである。前に書いたが、天国に不完全なこの世の知識など不要だからである。その人の意志の力で、神への信仰を築かないと天国へ行けないのである。

ただ、そうなってくると、その人の意志が最も重要になってくる。その人が、他者の勧めではなく、自分の意志で「良くなりたい」と思えるかどうかに掛かってくるのである。

真実の教育とは、常に「良くなりたい」と願うことのできる人間を育てることにあると私は考えている。

つまり、輪廻転生を信じようが信じまいが、大切なことは、(悪魔ではなく)神への信仰を築くことにある。私は、科学で実証されていないどちらの価値観に対しても否定せずに語り合える者でありたい。相手の信仰心を大切にしたいゆえ、自分の考え方を押し付けるつもりは到底無いのである。

そして、(悪魔ではなく)神を信ずる限りにおいて、最悪のシナリオの中にも「絶望」は存在しないと言えるのである。

だから、いつも安心して、いつも喜びを持って生きていこう。




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posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 05:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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