2016年01月11日

2016年1月10日 主日ミサでの学び

主の洗礼 ルカ 3:15-16, 21-22


3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。

3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、

3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。






先週までの典礼はクリスマスの祝いでしたが、今週からの典礼は年間へと切り替わります。

ところで皆さん水族館はお好きですか。葛西臨海公園の水族館には、巨大な水槽があり、マグロを回遊させています。ところが、ご存じでしょうが、そのマグロがどんどん死んでいき、ついに1匹だけになってしまったのだそうです。その原因は、ガラスに激突したことによるものなそうです。

その話は取っておいて、クリスマスのお話をします。ある所に、絶対に神様を信じない頑固なおじさんがいました。特に、神が人になるというところが全く理解できなかったそうです。おじさんの家には大きなガラス窓があり、そこに鳥が激突しては死んでしまうことが多かったのです。おじさんは、死んだ鳥たちがかわいそうになり、何とかならないものかと考えました。おじさんは、鳥になって考えて見ました。鳥になって、どうしてガラスに激突しなければならなかったのか考えて見たのです。その時、おじさんは普段疑問に思ってきたことがふと理解できるようになったのです。私が鳥になって考えるように、神様は、苦しみ悶えている人間たちがかわいそうになり、人となって救おうとしているのではないだろうか。

神は、人となり、罪びとの仲間となり、謙虚な僕となられたのでした。人間と同じ姿になって洗礼を受けたのです。私たちを引き上げるために、こんなにもへりくだってくださったのです。そこに神の愛があります。

神が私たちに望まれていることは、私たちが同じようにへりくだり、人々に奉仕し、人々を引き上げる者になって欲しいということです。そしてキリスト様に呼びかけられたように、私たちにも「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と絶えず呼びかけ続けられているのです。

第二朗読に、恵みという言葉が数か所出てきます。この恵みとはギブ・アンド・テイクなものではありません。善い行いに対する報いというのではなく、無償で与えてくれるという意味なのです。つまり無代価の賜物なのです。神が人となって救ってくれた、その素晴らしい恵みに対し「ありがとう」と感謝の気持ちを感じられる感性を持ちたいものです。神の慈しみを感じ、神のように憐れみ深くありたいものです。




いくつか聞き逃した箇所もあり、関谷神父様には申し訳ありませんが、上記の内容が、私が神父様から受け取ったメッセージです。関谷神父は、歌手で俳優の福山雅治のようなハンサムな風貌で、話し方もとてもハンサム、そして歌声が素晴らしい美声で、声楽を専門としてきた私としては歌声で神父様に負けたと思ったことはほとんどなかったのですが、今日は全くかなわないと思い、ただ聴き惚れておりました。イケメンに弱い母は、右側の席に座っていたため、関谷神父から祝福が受けられなかったのですが、左側に座るべきだったと、かなり残念がっていました。

へりくだる信仰、つまりは神の愛について教えていただいたと思います。神の側の人は、いかに良い習慣、良い信仰に生きていたとしても、お高く留まってはいけない。自分は無代価によって許されたものであるのだから、神の望みに生きるために、神の愛に習い、へりくだり人々のために奉仕する生き方をするべきなのだと感じました。

神は世の成功は全く認めてはくれません。そうではなく、いかに人々のために自らをへりくだらせて奉仕したかを見て認めてくださいます。クリスチャンは、そこのところを大切に生きるべきなのだと思うのです。

今年から、日曜日は母と教会のミサに出席しています。今日はミサ後のブロックの集いにも参加しました。教会の人たちに本当に親切にしていただき、母は幸せを感じられているようです。教会の床はピカピカ、とても綺麗に維持されています。奉仕している信者さんたちの心がそこに感じられてなりません。私は、両親の介護もあり、時間に全くゆとりが持てないゆえ教会の奉仕活動になかなか参加できません。しかしその分、感謝の気持ちをもって信者さんたちと接していきたいと思います。



ねこカフェは、いつの間にかクリスチャンカフェになってきたようです。どうぞ、コーヒーを飲みながら、ゆっくりしていってくださいね。もちろん、ねこもいますよ。出てくるのは気まぐれですが… まあ、記事を書いている者も、くつろいでいる時はねこと変わりないですが…



posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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