2016年03月28日

苦悩

苦悩することは、大変辛いが悪いことでもない。良いものを見つける過程でもあるからだ。

YouTubeでのいくつかのビデオクリップを見たことで苦悩している。つまり、自分の現在のカトリック信仰が間違っているのではないかという迷いが生じたことによる。

しかし、そのショッキングなビデオクリップを徹底検証したところ、相手側にも嘘があることに気が付いた。それが完全なるプロテスタント信仰に基づいてものゆえ、そういう意図で作られたものだと確信を得た。そのビデオクリップによると私の信仰の基盤ともなった証さえも否定されてしまうからである。

もちろん、そのビデオクリップの証自体は正しいもので、間違いなく素晴らしい体験に基づいているのだと思う。問題は、ビデオクリップを制作する過程で、多くの人の手が加わり、プロテスタント思想が盛り込まれてしまったことにあると考えられるのだ。その人の体験は、もっと単純で純粋なものであった筈だったと思う。つまり、そのまま伝えて欲しかったのだ。

3年近く研究して来たシュタイナー教育の研究なのだが、ついに挫折してしまった。

私は現在カウンセリングの研究もしているが、良いカウンセラーは、カウンセラーとしての心の引き出しに、多くの手法を持っている。そして、相談者の一人一人異なる性格に応じた手法を選んで対応するのだ。

例えば、カール・ロジャースの受容のテクニックが優れているからと言って、そのテクニックは決して万能ではない。大部分の相談者には有効なものであっても、まったく上手くいかない相談者があって当然なのである。それゆえ、カウンセラーは、多くの技法を学び、伝統的なものばかりではなく最新のものにも目を向けなくてはならないと思うのだ。

シュタイナー教育は、シュタイナー教育信奉者から完全教育と受け止められていて、一から十までシュタイナーの教えに従うのである。私は、教育者としての心の引き出しの一つとしてとらえていたかったのだが、心の引き出しのすべてを明け渡渡さなくてはならない空気に耐えられなくなったのである。つまり、シュタイナー後の新しい教育理論も導入できなければ、教育の進化は有り得ない。世界のスタンダードな教育を創り出すには、一つの教育思想にとらわれ過ぎてはいけないと感じたのである。シュタイナー教育が世界のスタンダードな教育になり得ない理由は、そういう点にあるのではないだろうか。

不認可はわかるが、教育にあまりにお金が掛かりすぎるのも問題だと思う。後日書きたいと思うが、「貧乏の問題と教育」は重要なのである。

また、私の信仰心もネックとなった。シュタイナーが教えるキリストのイメージと、私がスタンダードなキリスト教を通して培ってきたキリストのイメージがあまりに異なっているからだ。いかにシュタイナーがずば抜けた天才であったとしても、鵜呑みにしていいのだろうか。自分の心を置いてきぼりにして、現実の中で決して確かめられないような知識で塗り固めていっていいのだろうか。

もちろん、そういうぶっ飛んだ思想を私は否定しないし、むしろ学びたいとさえ思う。優れたインスピレーションは、苦悩の中から生まれるからだ。大切なことは、腑に落ちないことは保留し、他の知識を学ぶことで解決できるかもしれないと考えることにある。無理して信じ込もうとしたり、決めつけてしまうのは真理を学ぶ姿勢とは思えない。


私の東京での学生時代、とある大衆食堂で、たいへん不愛想なウエイトレスさんが仕事をしていた。彼女の働きぶりを見てふと思ったことは、「きっと彼女は、他の店では勤まらないことだろう。この店の店主は何と優しい人なのだろう」と思ったことである。

そして、こういう人が働けるような社会こそが、優れた社会ではないだろうかと思ったのである。

こういう人の命を軽視してはいけない。見下げてはいけない。

こういう人たちを受け入れられる社会でなくては、世界は平和にならないと思う。しかし、利益を追求する考え方では、こういう人たちは除外されるしかない。

テロの悲劇が世界に広がっているが、貧困と差別が起こしているのではないだろうか。

本当に正しい宗教や正しい思想が人々を救うのだろうか?

お金持ちになるために猛烈な努力をしても、誰かを不幸にすることで成り立つ成功にどれほどの意味があるのだろうか?

いかなる人をも受け入れる人々の優しさこそが最も大切なのではないのだろうか。

私は、子供たちに字の上手な子になって欲しいと教えているが、助け合うことの大切さを理解できる子供に育って欲しいと願い指導している。

私は現在苦悩の中にあって、何も結論は出ていない。

優れたものを学ぼうとして飛び込んだ先には、いつも失望が待っている。しかし、そういった失望を重ねながら真理に近づいている感じを得ているのも事実である。真理が、私の数々のコンプレックスを取り除いているのだけは確かだからだ(コンプレックスを基盤としている社会に騙されてきたことにようやく気が付いてきている)。

私は、自分の心にだけは嘘をつきたくない。自分に嘘をついてまで信じることはできない。

依然わからないことだらけの状態だが、諦めないで進むのなら、きっともっと優れた世界に出会えるような気がする。生きていて、どこまで真理を見つけられるのか…

苦悩の中ゆえ、誰とも話をしたくない状態にある。とはいえ、素晴らしい時間が流れている実感はある。

posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 06:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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