2016年06月07日

芸術性とインスピレーション

「わからない」ことは、「わからない」で考えるべきである。わからないのに、そうだと決めつけることはとても危険なことであるし、もし嘘を信じてしまえば、人生が大損になってしまうかもしれない。これから話すことは、「わからない」を含んでいる。つまりは大いに警戒しなければならない内容なのである。

今から50年以上前のスペインの田舎町ガラバンダルの4人の少女たちに出現した聖母マリアのメッセージにしても、最近、動画サイトで目にしたアルシオン・プレヤデスのメッセージ(プレヤデス星人のメッセージ?)にしても、次元上昇のことを言っているように思えてならない。次元上昇とは、銀河系の配置転換により、地球が3次元から5次元に、次元が上昇することを意味する。

次元上昇(アセンション)といっても、カルトとも思えるようなぶっ飛んだ概念ゆえ、誰もがそう簡単に受け入れられるものではないと思う。とはいえ、知っていて損はない概念でもある。別に誰かに大金を払うようなことも無ければ、何か責任を負わされて大きく時間を奪われるようなこともない。自分一人でやれることなので、むしろ自分の魂との対話が重要となってくるからだ。仮に次元上昇が起こらなかったとしても、備えることで、その人は間違いなく人間性が向上するのである。

では、次元上昇に備えるポイントとは何か。

それは、「大らかに生きること」である。

大らかに生きる人は、魂の波動がとても高いので、上の次元(5次元)に同調しやすいのである。天罰とも思えるような激しい試練であっても耐え忍ぶことのできる内的エネルギーを有している人なのである。大らかに生きる人は、強運の持ち主でもある。日頃、運を貯めているからだ。

しかし、ここで言う大らかさとは、天然のおおらかさではなく、知性を土台とした大らかさにある。天然の大らかさだと、何か精神的なバランスが大きく崩れた際に、取り戻すことが難しくなってしまうからだ。知性を土台にしている人は、考え方が柔軟になっているので、豊富な知識から良い考え方を引き出すことで、多少狂いが生じてもすぐに取り戻すことができることだろう。つまりは、知性から来る揺るがない大らかさが重要なのである。

そういった知性を得るための入門として、簡単ゆえに誰にでもできるものとして、ロザリオの祈り(カトリック教会の祈りの一つ、数珠のような聖具を用いる)がある。しかし、この祈りは芸術性のある者にしか向かないのである。なぜなら、ある人は1年間続けても、毎日、同じように(無意味に)黙想課題と練祷を繰り返し唱えたに過ぎないのだが、芸術性のある者の場合は、毎日、違ったインスピレーションを得て心が豊かになっていくのである。多分、義務的に1年間『聖書』を読んだ人より、ロザリオで毎日、聖なるインスピレーションを得た人の方が、豊かな知性を築き上げていることだろう。

実は、ロザリオと秘儀(ヘルメス主義を含むエジプトにルーツを持つ知的エリートだけが外部に漏らさない誓いの儀式を段階的に経ながら学ぶことのできる神秘学を含む高度な学問)を学ぶ人が行っている瞑想とはとても近いものがあり、どちらも宇宙の法則からインスピレーションを得ているのである。ただ、芸術性に不足している人は、何もインスピレーションを得られず残念なことになってしまうのだ。

そうなると、何よりも先に、芸術性を身に付けなければならないことになる。シュタイナーは彼の教育(シュタイナー教育)の中で最も芸術性を優先している。その理由は、芸術性を磨くことは、インスピレーションを受け取りやすくするからなのである。

まずは多くの芸術作品と触れ合い、感動に多く出会うことをしなくてはならない。それは、その人が興味がある分野から始めるべきである。感動が多くなってきたなら、ロザリオでもいいし、秘儀を学ぶのでもいいと思う。次なるステップとして、インスピレーションを得るための習慣を身に着けていくのである。

誰でも学べる秘儀としては、ルドルフ・シュタイナーの難解な書籍を読むか、エジプトにルーツのある伝統的神秘学を教えてくれるバラ十字会に入会するといった選択肢もある。いずれにせよ、かなり学問的な努力を強いられることになるだろう。最近、シュタイナーを理解するためのわかりやすい解説書が多く出回るようになってきた。今こそ、シュタイナーの学び時なのかもしれない。

敬虔なクリスチャンは(私もその一人なのかもしれないが)秘儀を理解しにくい。特に、輪廻転生が引っかかってくるからだ。そういう人は、エマニエル・スウェデン・ボルグやエドガー・ケイシー関連の本を読むと柔軟に考えられるようになってくる。私の場合、イエス・キリストが亡くなってから、聖書が成立するまでのクリスチャンの歩みを研究したことも有益だった。宗教的なグループと秘儀的なグループとに分かれての論争があったことを知ったからだ。私は、結果的に敗北した秘儀的なグループ(グノーシス派に至る)の信仰について大いに興味が湧いた。

イエス・キリストが輪廻転生を問題視しなかったのはなぜか(ブッダも、ブッダのオリジナルに近い最古層の仏典になると輪廻転生を全く問題視していない)。それは、後悔と恨み妬みのうずまく過去に心を向けることではなく、地に足のつかぬ過度な期待や不安のうずまく未来に心を向けることでもなく、今に集中することを勧めているからだ。今に集中する時、真理に満ちた永遠の扉が開かれるのである。今の一瞬一瞬に心を込めて向かい合う時、魂が輝き始めるのである。イエス・キリストは(ブッダも同様に)決して輪廻転生を否定したのではなく、信仰者に最高のモチベーションを与えたかったのである。だから、安易に輪廻転生を語ると、生きるモチベーションを大きく失う人がいるので気を付けたいものである。

私の場合は、多次元的に考えて理解できた。大雑把に言うと、上の次元(天国と例えられる世界)にも輪廻転生があり、さらにその上の次元にも輪廻転生があるという考え方である。もちろん、実際はそんな単純なものではない訳だが、そのような研究をしているうちに、人生の目的が明確化してきたように思うのである。

宗教は、一般人を導くために出現した概念である。秘儀は、エリートを導くために出現した概念である。このことは不思議にも急速に出来上がった古代文明の中で、ほぼ同時進行で確立していったのである。と、私は捉えている。宗教だけやっている人は、原理や法則には疎くなる。秘儀だけやっている人は原理や原則に詳しくとも単なるエリートに過ぎない。両方を学ぶのなら、全世界を愛する人になれる。つまり、両方の視点を持った人の方が、偏りが無くなるのである。

現代において、宗教だけの人と、エリートだけの人が、現在、平和を乱す困った人になっていると感じられてならない。一方はテロリスト、一方は国際政治における陰謀論者たちである。その中にはサタニストも含まれていると言われているが、文明の出現した時代を検証してみると、そういったことも色々見えてくるのである。つまり、私たちが人間になり得たルーツと関わりがあるのである。いずれにせよ、誰かを敵視していては、私たちは大らかには生きられないのである。まだ具体策は見えてこないが、私は解決策があると信じたい。アセンションはその一つなのだ。

現代は、宗教と秘儀のどちらも学べる時代なのである。「宗教と秘儀は相反するものではないか」と言う人もいるがそうだろうか?

私は、そんなことはないと思う。キリストは「汝の敵を愛せよ」と言っているではないか。相手を敵視する人は、聖なるインスピレーションは得られていないように思う。悪魔すら敵とは思わず、ひたすら大らかに生きたいものだ。キリストが聖書の中で勧めているように、「右のほほを打たれたら、左ほほも打たれなさい」の精神で、またはマハトマ・ガンジーの非暴力の歩みのごとく、何をされても悪に従わず、いつも神(宇宙の法則)と共に生きたいものである。

私は、宗教と秘儀の両方を学ばなくては損と思ってしまう。現代を生きているからこそ、両方学べるのだと思えるからだ。もし、ローマカトリックが出来てから中世に至るまでの時代に秘儀を学ぶとなると、そのことが外部に知れたら拷問にかけられて殺されてしまうことだろう。逆に、教会(宗教)の側なら、全く秘儀を知ることが出来ないばかりか、一般人は聖書を自由に読むことすらできなかったころだろう。現代においても、宗教や政治の影響のために自由に学ぶことのできない国や地域が存在していることを考えると、私の場合、教育的両親にこそ恵まれなかったが、日本人に生まれたことはとてもラッキーだったと思えるのである。

私の信仰は、マリア崇敬から始まった。そしてロザリオで、聖なるインスピレーションを多く得ることが出来たと思う。親から離れて暮らしていた東京での学生時代、毎日、ロザリオを祈り早朝ミサに出席していた頃の私がこれまでの人生の中で一番輝いていたと思う。素晴らしい奇跡の連続だった。私は、間違いなく、高い次元の御方と交流していたのである。しかし、長い求道者生活の末、カトリックのクリスチャンになった途端、私はそれまで自分は普通のクリスチャンたちとは違う世界と交流してきたことに気が付くことになったのである。

さて、次元上昇に話を戻そう。次元上昇は、地球の人口問題と環境問題を見事に解決してくれることだろう。そこに余剰人口などという考え方はなくなるし、差別や格差の問題も無くなるだろう。市場戦争や過剰生産とは無縁となり、原子力エネルギーなど必要としなくなることだろう。

だからといえ、「本当に次元上昇など起こるのだろうか?」という疑問は、どんなに考えても、どんなに資料を集めたからと言って、決して確信に変わってくれることはないのである。ただ、私なりの小さな確信となっていることは、聖書にそのことが多く書かれていると言うことである。

もちろん、そのようなことが起こらなくても人類が幸せになれる道を考える必要があると思う。または、人類は失敗の道を選ぶかもしれない。ただ、(次元を超えた)宇宙法則は、私たちを間違いなく導いており、導かれている人に関しては何が起こっても悲劇にはなり得ないのである。悲劇とは、魂の進化を止めた者たちに当てはまるものなのである。彼らは、どんなに楽しんでいても、人生の目的を生きていないのである。意味の無い人生、それこそが悲劇とは言えないだろうか?


芸術こそが、聖なるインスピレーションをもたらし、人生に意味を与えるものである。


私は、宗教の専門家でも学者でもない。いわゆる一般人である。エリートではないが、秘儀についても研究している。つまり、片手間でこういったことを研究しているのだ。私は、こういったライフ・スタイルは人生を豊かにするものだと確信している。ぜひ、多くの人に勧めたいのである。

こういったことを研究している者同士、大いに語り合い合いたい。メジャーな人生では無いとしても、仕事では大いに不自由と屈辱を味わいつつも、心の領域においては、誰にも強いられない自由をしっかりと確保したいものだ。そういった自由を持ち、(次元を超えた)宇宙からの聖なるインスピレーションを得られる者はすでに芸術家なのである。優れた表現者としての芸術家では無いとしても、魂が芸術家としての高い波動を持っているからだ。そういう芸術家同士、お互いを称えあおうではないか。現実にめげることなく、むしろ奮起して、自分の芸術を追求し磨いていこうではないか。




その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気を付けて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。(マルコによる福音書 13章32節〜33節)

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日が来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が、「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に生みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 … 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても、眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上心に心がけなさい。(テサロニケの手紙 一 5章1節〜6節、9節〜11節)





2016.6.10
前に書いた「芸術性とインスピレーション」は、ある意味、都市伝説にすぎぬ内容であったと反省している。つまり、50歳を過ぎた大人が、こんなにも悩み苦しんむ内容なのだから、子どもがこの手のことを知ったならどんなに悩み苦しむことだろう。

やはり、この手の内容は、教育的とは言えないような気がするのである。シュタイナーの文献においても、大人が学ぶ内容と、子どもが学ぶ内容はしっかり分けなくてはならないと強く感じられる。子どもは、芸術性に繋がる基礎を学び、あまり刺激的な内容には触れさせるべきではないいと思う。そのことを肝に銘じ、基本に立ち返り、将来有望な子供たちと接していきたいと思う。




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posted by 盛岡のしろねこ / 佐藤 潤 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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